41.2 『P.S. いつまでも思い通りになると思うなよ』

「アルドゥイーノ! あたしこんな辛気臭い街いやだよ!」

「だから留守番してろっつったろうが!」


 ロンディアを目指し、北上するイクスピアノ・ジェミニ。

 屋根を外したぴかぴかの新車だ。フルシ連絡橋を渡って、南部のイレザーヘッドを超え――すでにロンディア郊外を走っている。

 アンジェリカは帽子を飛ばされないよう、包帯を巻いた腕で抑えながら叫んだ。

 車はそれだけではない。

 後ろに続く黒塗りの車の群れ――彼らはブーマン・ファミリー、アムスタのマフィアであった。




***




 ジャック、ノートン、ミラと共に、オレはロンディア第四層の議事堂を訪れた。

 目の前の聖堂と議員庁舎の柵、それから博物館は絶賛補修工事中で、そこをぶっ壊した張本人としては申し訳なさを通り越して、『しょうがないだろ』と開き直った。

 公文書は、議事堂の奥の複数の小部屋に分かれて保管されていた。


「年代からするとこちらの部屋ですねぇ。公共工事関連はこのたなですが――記念となると――こっちの棚かもねぇ」


 おばあちゃん感のある家庭的な司書がそう案内して、オレたちは「なら棚を手分けして探そう」となった。

 司書が退室すると、得体の知れない緊張がやわらぐ。

 オレは早速軽口を叩いた。


「随分ほこりっぽい部屋だ」

「ロ=アラモの図書館のような場所を想像したかね?」

「ま、大体の国の公文書館なんてのはこんなもんだ」


 しばらく棚やキャビネットの資料を探し続けた。

 資料は整理がいまいちで、ノートンが苛々いらいらして苦悶のような声を漏らしていた。


「――なぁ、ロ=アラモといや、あそこにあった謎の物体はなんなんだ。黄色い、パンケーキみたいなやつ」

「おいっ」


 ジャックは鋭く言って、周囲を見渡した。


「お前そのうち本当に指名手配されるぞ!」

「こ、ここならいいだろ」


 ――周囲には誰もいないどころか、建物全体で見てもさっきの耳の遠い司書が一人いるだけ。


「外でその話はするなよ? あれか。あれは、元老院が研究してた、対勇者の最終兵器だ」

「あれはどういうものなんだ」

「核力といったかな、物体を造る原子核をくっつけている、とても強い力を利用しているらしい。あの官僚が詳しいんじゃないか?」


 呼びかけるより早く、ノートンが書架の裏側から顔を出した。


「外でこの話は禁止だが、一般的な科学の話であれば構わない。ただの夢のある話だ」

「あれはなんだ。どういう火薬なんだ」

「あれは火薬とは全く異なる。思いのほかジャック君の説明がうまくてってしまったよ。彼の話した通り、核力を引き離すときに得られるエネルギーそのものさ。連鎖的に原子核の崩壊させれば、大変なエネルギーを得られることはかなり古くから予想されていた。しかしそれを起こせる物質が見つからなくてね」

「あの黄色いケーキみたいなのがその物質なのか」

「そう。まず重い原子は、不安定だ。そこで極めて重く、不安定な原子を探す。一個中性子が飛び込むと崩壊してしまうようなものだ。それはウェガリアの地下深くで見つかった。それを高純度に精製せいせいしたものがあの黄色いケーキだ。精製は難しく、また起爆の方法は更に難しかった。火薬のように、火をければよいというものではないからね。実のところ、起爆できたのはあの一度きりだ」


 イグズスのハンマー。

 奴の桁外れの撃力が、トリガーになったのか。


「地震かってくらいの、とんでもない威力だった。あれを使えばスティグマを倒せるんじゃないか?」

「――いくつか問題があった。起爆方法が確立できていないことと、あれをどうやってスティグマのところに送るかだ。ただ――今はスティグマの居城も知れた。アレン=ドナへ送る時間と、イグズスが生きていれば可能だったかも知れないな」

「――そうか」


 それってつまり、不可能だってことだ。


「おい、お前ら。これを見ろ」


 そこで声を上げたのはミラだった。

 彼女は、目的のものを発見した。


「これが写真? 古いな」

「カメラ・オブスクラの像を感光紙に転写したんだ。まぁ、今の写真機と同じものだ」


 油紙に丁寧にくるまれたそれは、ぼやけているしモノクロだが、たしかに写真だ。

 フルシの連絡橋を背景に、ブリタ側のふもとの丘から撮った一枚の写真。

 丁度、封鎖を突破した直後に通った場所だと思うが――それにしては妙な違和感があった。

 大勢の作業員が並ぶ中、明らかに作業員じゃない格好の人間も混じって写っている。


「スティグマだ――! 今とそんなに変わってないように見えるぞ!? 他の勇者たちもいる」

「お前の爺さんは二百年生きてたんだ。別に驚くことないだろ。それに若干、今より若く見えるな」


 スティグマ、ソウィユノ、一人だけ遠近感がおかしいイグズス、頭からフルメイル姿のメイヘム。そしてよく判らない、怪しい恰好をした爺さん。


「こいつは――? 一人だけ随分年寄りだ」


 ジャックが写真を手に、のぞき込んで答えた。


「ああ、こいつは明晰めいせきのアサムって勇者だ。七、八年くらい前に引退して、四年前に老衰で死んだ」

「老衰?」


 見せろ、と横からミラが写真をふんだくった。


「こいつが――スティグマか」


 顔の向かって右半分や、腕が真っ黒になっている。


「くそっ。せっかく見つけたのに、この写真じゃ伝わらないな。この顔や手の模様が、アラベスク文様に見えるんだ」

「なるほどな」


 ミラはその写真を目に焼き付けるようにしていた。


「ジャック、アサムって勇者は老衰で死んだのか。勇者って歳をとるのか?」

「俺が調べた限りじゃそうだ。ヴォイドの影響か何なのか、歳をとるのが異常に遅いが――例外もあるってことかもな。アサムの場合は能力も関係してたかも知れん。奴の能力は『未来視』。現在から数年先の出来事が予測できた。まるで奴だけが、時間の流れが違ったみたいにな」


 オレたちをよそに写真を食い入るように見ていたミラだったが、不意に飽き・・がきたようだった。

 もういいや、とばかりにミラが写真を突っ返す。

 オレたちは、写真に付属していたメモや資料なども洗ったが、勇者の活躍について書かれているばかりでスティグマの能力や弱点に結び付きそうな情報はなかった。




***




 宿に戻ったオレたちを迎えたのは、おそろしく治安の悪い奴らだった。

 アルドゥイーノ。

 花柄のド派手なシャツ。

 デリバリー専門の娼館しょうかん『無店舗主義』の主だ。


「――『無店舗主義』? そりゃ店の名前じゃねえよ」

「え? だって看板にそう書いてあっ――」


 オレは、妙な視線が気になって振り向いた。

 ミラとジャックが、にやにやしながらオレを見ている。


「ち、違っ、あれはファンゲリヲンが――」

「おめえ誰に言い訳してんだ」

「いいんだぞ、ノヴェル」


 で、とジャックは花柄男と包帯女――アンジェリカを向く。


「――忘れられなくって呼んじゃったのか? アムスタからここまで? まぁ、もうすぐ死ぬかも知れんわけだし、これくらいは経費で何とか――」


 アルドゥイーノは手を挙げてジャックの発言をさえぎる。


「店の仕事じゃねえ。これはサイドビジネス・・・・・・・のほうだ」

「サイドビジネス?」

有体ありていに言や、マフィア稼業だよ」


 マフィア! ブーマン・ファミリーに入ったのか。

 詳しく聞くと、デルの死後、ボスを決める投票ではファンゲリヲンが一位指名された。

 マフィアの投票には無効票は無し。そして決定は絶対。

 でもファンゲリヲンは恩人であれファミリーではないし、そもそも所在不明。そこでファンゲリヲンが指名したアルドゥイーノが代理として立てられたそうだ。


「まぁ代理ってか、顧問ってか、そういうやつだよ。黒服着なくていいって言うしな」


 そういうやつってそういうやつがあるのか?

 オレは――ファンゲリヲンが死んだことを伝えた。

 アルドゥイーノは「そうか」と残念そうだった。


「ドすけべでド変態だけどいいお客だったのに……」


 アンジェリカはそう言ってファンゲリヲンの死をいたんでくれたが、一応娘の前だからそれくらいにしてやって欲しい。


「勇者といえど人間だ。死んじまったならしょうがねえな。この金を返しに来たんだが――」


 どうやらファンゲリヲンは、大陸を離れる前にアルドゥイーノに金を送っていたらしい。

 家を建て直してもまだまだ余るほどの大金だ。

 アルドゥイーノとしては、身に覚えのないものを黙って受け取るわけにはいかない。

 ジャックは怪訝けげんそうにした。


「手下をあんなに連れて? 金を返すためだけに?」

「いやおれ一人でいいって言ったんだけどよ、中には忠義にあつい連中もいてな。ファンゲリヲンに会えると思ったらしい。でも――逝っちまったか。あいつらに何て言えばいいか――」


 ジャックはすかさずアルドゥイーノの手を掴んだ。


「頼まれちゃくれないか。俺たちはファンゲリヲンのかたきを討つ。あんたらも、そういうのは好きだろ?」


 アルドゥイーノの彫りの深い顔に困惑が刻まれる。

 眉間にしわを寄せ、中指でその皺をこすった。


「あのファンゲリヲンを殺すような奴が相手なんだろ? 気持ちは判るが、あいつらは今おれの部下でもあるんだ」

「ヤバいことはさせられないか?」

「そうは言わねえ。金を返せないなら恩を返したいが、お前らは得体が知れない。敵じゃねえのは判る。だが部下に命を張らせる相手かどうか――。考えさせてくれ」


 まぁしばらくブリタ観光でもしてらあ、とアルドゥイーノは笑った。




***




『lzPmW4ggB2h7f』


 そう書かれたメモを、石壁にしつらえられた金属のバケットに放り込み、バケットを閉める。

 バタン。ガタン。

 すると上部の鉄窓が開いて、鍵とカードを渡される。

 渡されたカードに書かれた番号は『W-108』。

 ――西棟、地下十階の八号房。

 鍵はそこのものだ。

 チャンバーレインは永遠とも思える地下への階段を降り続けた。

 地下深くまで続く巨大な縦穴。

 その縦穴の内壁に沿う長い階段だ。

 穴の底は暗く、見えない。


(腰に来るわい)


 ウェガリアではほとんど寝たきりに近いような生活をしていた。

 彼は大英雄の中では一番若手であったが、それでも二百年が経っている。

 ヴォイドの影響によって体細胞の時間の流れが変化したとはいえ――実際の肉体年齢は七十相当である。


ひざにも来るわい)


 彼は一日でも早く死にたいと思っていたが――心残りは幾つもあった。

 一つは巨人差別の根絶。これはパルマの皇女によってされつつある。

 そしてもう一つがここにある。

 ――地下刑務所跡。

 地下十階に着いた。

 水を打ったような静けさの中に、時折交じる衣擦きぬずれの音。

 大きな縦穴の外周の通路、そこに小さな房が幾つも並んでいる。

 ほとんどの房は空であった。

 空の房のいくつかには、鉄格子が斜めに切断されている箇所がある。


(八番房)


 八と書かれたその房には、二十人からの人間が詰め込まれていた。

 蛮族と呼ばれた捕虜たちだ。

 見るからに若い者もいる。きっと孤児なども連れて来られているのだろう。

 彼らは毎週房から房、棟から棟へ移され、逆らう気力も、脱走する気力も奪われていた。

 事実――チャンバーレインのかかげたランタンの明かりを見ても、観念したような死んだ目を向けるばかりで、まぶしそうにすらしない。


「誰か共通語を話す者はおるかね」


 答える者はない。

 チャンバーレインは手当たり次第に蛮族の言葉をかけてゆくと、そのうちの一人が反応を示した。

 目のぎょろりとした、せた裸の男だった。

 全身の毛を刈られている。

 体は傷跡だらけだ。

 古傷ばかりではない。ここの看守にやられたか、それとも喧嘩か。


「――エラーゥッソパ?」


 誰だ? と聞いたのだ。


「(君たちを助けに来た)」


 ケッケッケッと力なく乾いた笑いが響く。


「エラゥ、エラーゥッ――(助ける? 何から)」

「(生きたくはないか)?」

「…(生きるって? なんだよ)……ケッケッケッ」


 もっと早く来るべきだった。

 実のところ、チャンバーレインの元には征東戦線での蛮族の捕虜の不透明な扱いについて、様々な調査・執筆依頼が寄せられていたのだ。

 ブリタ軍の指揮下にあって、捕虜の不審な消失・・について、わずかながら噂があったのだ。

 ブリタが捕虜を隠すのは合理的でない。

 既に奴隷制を持たず、また多くの植民地を持つブリタがなぜ――というわけだ。

 チャンバーレインは依頼を全て断った。

 助けるつもりがなかったのではない。ただ、時機を待っていたのだ。

 解放する算段もなしに書き立てれば、証拠隠滅いんめつされる恐れがある。

 ――スティグマが、勇者が捕虜を食い物にしているなど、誰が信じよう?

 チャンバーレイン自身、それを信じてはいなかった。

 彼は待った。

 別の第三者が、スティグマのたくらみを暴く日が来るのを。

 そして。

 つい先日、サンモーニングの各支局に匿名の投書が寄せられた。

 それは、スティグマと呼ばれる勇者の長が、非人道的な目的で殺戮さつりくを主導してきたというものだ。

 未知の力と魔力について、魔力のかえる場所について。

 そしてその恐るべき目的について。

 内容の信憑しんぴょう性が低いためサンモーニングは掲載を見合わせているが、もしそこに書かれているような災厄がブリタで起きれば、信憑性は一気に上がる。

 だがそうなってからでは遅い。

 そこで例えば、行方不明の捕虜たちが突然城下に現れて証言したとすればどうだろうか。

 投書も捕虜も、全てが明るみに出るだろう。

 ――ゾディの孫らめ。ついにやってくれたわい。

 つまり――チャンバーレインにとっての『その時』が訪れたのだ。


「(遅くなったのは悪かった。仲間はここだけか)?」

「エラーゥッツダ……(仲間とはなんだ)?」

「(ここに連れらて来た、他の房の)――(捕虜だ。捕虜。判るかのう)? (君たちのことだ)」

「バッハバハ――(軍隊に連れてこられた奴でまだ残ってるのは、ここと、あと別の房ひとつかふたつだ)」


 ――つまり捕虜は残り四十人か八十人ということだ。

 他の房の捕虜とは顔を合わせないようにさせられている。正確な数字は不明だ。

 だとしてももうそれほど残っていないことは、牢全体の静けさからも明らかだ。

 ここまでのペースで捕虜の消費・・が進んでいるとは予想外だった。


「(他はどこじゃ――いや、まず君らを逃がそう)」

「エレーダゥ――(逃げてどうしようっていうんだ)? (牢獄から出ても、この国に居場所はない)」

「(故郷に帰す。故郷がないならワシの支援団体を紹介しよう。巨人のところで暮らすのもよい)」

「ァバ――(巨人)? エラーゥックァクァ――(マジかよ。カッケエ)」


 男は口ではそう言いながらも、チャンバーレインを疑うような視線を向けている。

 連絡先を書いたメモを、鉄格子越しに渡す。


「(ここを出たらこれを誰かに渡すのだ。君たちの身分と、それを保証してくれる団体の連絡先だ。これは現金)」


 少し待て、と痩せた男は言った。

 振り返って、房の中の捕虜に山岳民族の言語で話しかけている。


「ラヘイ、エラーエラーッ」

「ダダゥ、ァヴァサ、クナイ――バハ」

「エ・ポルポイ、エ・パパ、サラサクナイ。ババ、バハ」

「クナイ、エラーゥッツッテ、エ・パパライ、バハ」


 チャンバーレインはちらりと懐中時計を見る。


「――ラヘイ、(後にしてくれんか。もうあまり時間はないでな)」


 意見がまとまったようだった。

 男は再びチャンバーレインに向き直った。笑顔はない。

 表情筋を動かして、何かの表情を作ろうとしているのは判るが――ぎこちなく、威嚇いかくのように見えた。


「――ラハ、(こいつらもどこでもいいって言ってる。あの『半分野郎』の追ってこないところならな)」

「(『半分野郎』)」


 ――スティグマだ。

 奴が直接、ここに来るのか?




***




『半分野郎』は縦坑シャフトちゅうを浮いて、地下牢獄に舞い降りた。

 明かりを持つこともない。

 垂れ下がった鎖が石の通路上を動くたび――ザシャリ、ザシャリと不快な音を立てる。

 捕虜たちは、それを聞くたびに怯えた。


(――またあいつだ)

(――あいつだ)


 あいつが来ると、房の連中が消える。

 消えるときはひとつの房の中の全員、まるごとだ。

 それが半年毎なのか、一年毎なのか――外の光の届かないこの地下牢獄で、すでに時間の流れは曖昧あいまいだった。

 どこへ連れ去られ、何をされているのかは判らない。

 円形牢獄だ。鉄格子越しに、他の房が見える。

 あいつが囚人を連れ去るのを、そこから何度も見た。

 地下牢獄を真っすぐに貫く深い深い縦坑シャフト。その穴越しに見える、上階向かいの房だった。

 あいつ・・・――『半分野郎』はそこに来て、捕虜を出した。

 もう看守に逆らったりはしないが、あいつが来たときは別だ。

 魔術で抵抗を試みる者もいたが――無駄だった。

 たとえ鉄格子の向こうにいても、魔術を使おうとすれば腕を切断されてしまう。

 囚人らは錯乱し、叫んでいた。

 幾つもの言語の叫び声、おそらく助けを求める叫びや命乞いが飛び交っていたが――そのときは知らない言葉ばかりだった。

 あいつの方は一言も発していない。

 そのうちの一人が走り出し、通路から縦坑へと身を投げた。

 あいつはそれを――掴んだ。

 黒い紐のようなものを操って、身を投げた囚人を、空中で捕らえる。

 まるで触手。

 だがその触手は、触れるものすべてを切断する。

 空中へ逃げた囚人のあげた自由の雄叫おたけびは、ほんの瞬きほどのうちに途切れた。その体は小間こま切れになって触手の間から滑り落ちてゆく。

 反響する雄叫びのほうが長く生き残っていたほどである。

 残った捕虜たちは泣きわめいた。

 こちらの房の者たちも感応し、怯え、すすり泣いた。

 半身を闇に呑まれたような魔人は、残った捕虜たちに鎖をかけ、数珠じゅず繋ぎにする。

 繋がれた捕虜たちは、サビキ仕掛けにかかった小魚のようにあいつに釣りあげられ、縦坑を上に飛んで行く。

 上へ行って自由の身になるわけでは決してあるまい。

 残った捕虜らは絶望した。

 彼らは噂しあった。

 おれたちはもう死んでいて、ここは地獄なんだと。

 あの鎖の『半分野郎』は神で、おれたち地獄の囚人に裁きを下しているんだと。

 噂はひとつの房の中で生まれ、鉄格子の隣から隣へ伝えられ――やがて伝説となった。

 伝えられる神、スティグマは鉄格子の並ぶ回廊を歩く。

 ザシャリ、ギョリリ――。

 ザシャリ、ギョリリ――。

 パスコードと引き換えに渡されたカードに書かれた、今日の・・・捕虜たちの房へと。

 やがて『W-108』の房にたどり着く。

 八番と書かれた房。


「――」


 スティグマはふと、違和感を覚えた。

 鉄格子が開かれている。

 中はもぬけの空であった。


「――!」


 スティグマはカードを確かめる。


『W-108』


 間違いはない。

 カードの裏面を見た。


『チャンバーレイン参上


 ディナーはお預けだ

    P.S. いつまでも思い通りになると思うなよ』


 スティグマはそれを握り潰す。

 そのかおは――憎悪と怒りに歪んでいた。

 捕虜たちの呪われた神の伝説は、救出された生き残りとチャンバーレインによって世界中に伝えられるだろう。

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