39.5 「先のことは気にするな! ひとつだけ聞かせるのだ!」
「来たぜ。あの車だ」
ミラは車の屋根の上で、双眼鏡を
そこにはジャックとミラの二人だけ。他の警官隊らの姿はない。
イクスピアノ・ジェミニは最後に見たときとは全く別の姿をしている。
ぎらぎらと西日に照らされた、薄汚れた車体。
バンパーは落ち、ライトは砕け、フロントガラスも屋根もない。
ミラたちはファンゲリヲンより僅かに早く、
ジャックはようやくそこを思い出したのだ。
そこは彼が
墓地は聖堂から近く、またロンディア市街中心部ではほとんど例外的に土の地面を持つ。
そこだけは、石やレンガ、コンクリートといった造成地ではないのだ。
なだらかな傾斜を持つ斜面。
決して観光ガイドには載らず、市民も無用には訪れない第三層の外れ――ジャックにとっては、最後に家族と別れを交わした場所だ。
「よくここが――」
ミラは言いかけてやめた。
ジャックは車に
彼はその墓地を――苦しみもがき何度もステアリングホイールに頭をぶつけて、記憶の
この下には、彼の妻トリーシャが眠っている。相棒のフィルの一部もだ。
ここはジャックが復讐を
二度と訪れることはないと覚悟していた。
彼はいずこか、ロンディアから遠い場所できっと勇者に殺される。報告に戻ることも、自分がここに葬られることさえない――と、そのつもりでいたのだ。
だから彼はこの場所を決して思い出さないようにしていたし、思い出したところで来たくはなかった。
『お前がやらなきゃ意味がねえんだ』とミラが説得した。
その結果――先回りができた。
ファンゲリヲン――
地理、構造、暗部、恥部。L層から四層まですべてを旅して、この街に住まう者よりもこの街を知っている。
ならば墓地のことも、墓地からなら
ジャックたちの車が塞いでいる、墓地の柵の切れ目――そこに西へ続く道のようなものがある。
道というか、尾根だ。
乗用車一台ならぎりぎり通れそうなほどの、狭く
彼らの背後を起点にした三方のうち、西へは尾根が、南北へは落差が広がり、それは高い崖になる。
見晴らしは良い。死者に独占させておくのが
遠くの山々まで続く幾つもの丘。
そして北方街道。
高さ方向の最上は第四層だが、二つの道で三層に繋がっていた。その意味では
この墓地で街は外に開かれている。
本当の意味で、ここがデッドエンドだ。
「――ミラ。お前の作戦、勝算はどれくらいだ」
「八割ってとこか。あたいの読みを信じろ」
「俺が死んだら――」
「心配すんな。即死じゃなきゃ、あたいがどうにかする」
***
「あれは――おい! 停まれ! ファンゲリヲン!」
オレがそう叫ぶのと同時に、ファンゲリヲンもそれに気づいたようだった。
墓地の奥で、出口を塞ぐ一台の警察車両。
ファンゲリヲンによればその車が
そこを塞ぐ二人組は――。
「ほほう。あれだけ無茶に動いたというのに、ここを読み切るとは――君のお友達は、存外まあまあ優秀なのではないか?」
「ジェイクス・ジャン・バルゼン。現在の氏名はジャック・トレスポンダ。そして――娘の方はいいわね、
ああ――とファンゲリヲンは
それでもスピードを緩める気はないようだ。
「どうだね、ノヴェル君。君のお友達は、君を捕らえて殺すだろうか」
「――」
一番
オレは――お前たちをスパイするつもりでここまで来た。
『ノヴェル・メーンハイムは逃亡犯としてジャックらに追われている』――その設定を守れなければ、オレはここまできて、この先のスパイを続けることができない。
それとは別に、もしオレがジャックたちにここで捕まっても、彼らはきっとオレの作戦を理解してくれるだろう。
でもファンゲリヲン、お前はきっと殺される。
「自分の心配をしろ」
ハハハと大口を開けて笑い、ファンゲリヲンはブレーキを踏んだ。
「――捕まるつもりはない。相手が誰だろうと。オレは裏切り者だ」
少なくともそれは本心で、結論だ。
オレはまだ捕まるわけにはいかない。
「
「くそったれ。ここで決着をつけてやる。いいか、手出しするなよ。お前が殺されたらオレも逃げられないんだからな!」
オレは、ファンゲリヲンから渡された銃を手にした。
いわゆる拳銃、というやつだ。ジャックのような長物とも、ファンゲリヲンの短機関銃とも違う。
冷たく、重い鉄の塊。
でもそれは、魔力がなくても使える武器だ。
用途は非常に限られている。小さな弾丸をいくら当てても、魔物を倒すことはできない。ナイフのように木やロープを便利に切ることもできない。
これは対人専用の武器。人を殺すためだけにある。
車はゆっくりと墓石の間を抜けてゆく。
キュッとタイヤが鳴って、車が止まった。
「インターフェイス、隠れてろ」
オレが彼女にそう言うと、彼女は大人しく身を
ファンゲリヲンは短機関銃を振って「弾切れだ」と言った。
その言葉を受けて覚悟を決め、オレは一人で車を降りる。
「――ノヴェル。探したぜ」
あちらの車のところから、ジャックが歩いてくる。
「滅茶苦茶やりやがって。お前を逮捕して連れ帰る」
「――ジャック。お前らとは行けない」
オレはジャックに向けて拳銃を構え、撃鉄を起こす。
撃鉄はとても重く、ぷるぷると両腕が震えた。引き金も重いのだろうか。
ミラがジャックに何かを耳打ちした。
ジャックの返事を待たず、すぐに彼女はジャックから離れ、ナイフを構えながら弧を描く軌道で回り込んでくる。きっとファンゲリヲンを狙える位置を取るつもりだろう。
銃口の狙う先には、ジャックだけだ。
「ジャック! そこを通してくれ」
「ノヴェル! 武器を下ろせ! これ以上罪を重ねるな!」
「
わかってくれ。今捕まったら、全てが水の泡だ。
「――妹は。リンは」
ジャックはファンゲリヲンのほうを少し気にしながら、目だけで『大丈夫だ』と
「――お前が逃げたときのままだ。早くそいつをこっちへ引き渡して――」
「ジャック!! 退かないのなら撃つ」
「俺は丸腰だぞ。いいのか?」
ジャックはおどけたように両腕を上げた。
「お前は丸腰でも警官隊は違うだろ! 時間がない! 早く退いてくれ!」
「
本気か。
それともオレが撃てないと見越して、
「ジャック――ジャック聞いてくれ。オレは行かなきゃいけない。何を犠牲にしても」
「言うじゃないか。お前にその覚悟があるのか?」
「街を見ろよ! ここで大人しく降参するくらいなら、あんなに必死で逃げるわけないだろ!」
ふん――とジャックは鼻を鳴らす。
「なるほどな。よく判った。だがな、ノヴェル。俺はお前を信じる。お前も俺を信じろ」
そう言いながら、ジャックは右掌をオレの方に向ける。
――魔術だ。
「止せジャック! 撃ちたくない!」
オレは銃口を左右に振って「やめろ」と意思表示する。
それでもジャックは魔術の構えを解かない。空いた左手の親指で自分の胸を示しながら、こちらへ歩いてくる。
「どうした! 撃てるものなら撃ってみろ!」
しっかりした足取りだ。
オレは一瞬ファンゲリヲンを振り向く。
ファンゲリヲンは――運転席から、まるで面白い見世物を見るような目でオレを見て、
早くやれということか。
――くそ。
オレはジャックの胸に狙いをつけ――目を閉じる。
「おい! 目を
ジャックに言われて、オレは目を開く。
至近距離。
銃口からジャックまではもう数十センチしかない。
――もうだめだ。
――くそ。頼む。
オレは引き金を引いた。
バンッ――と凄まじい音がして、肘まで
オレは両腕、両肩でその反動を抑え込む。
ジャックが倒れる。
ミラが叫んだ。
「ジャック!! ノヴェル、てめえ! 撃ちやがった!」
慌ててナイフを仕舞いながら、ミラはジャックに走り寄る。
「ノヴェル君! 乗るのだ!」
「早く来なさい。逃げるわよ」
ハッ、とオレは弾かれたように車へ飛び乗る。
ファンゲリヲンは車を発進させた。
倒れたジャック。その
その横を通り過ぎて、車はジャックたちの車にぶつけてそれを押しのける。
その向こうに――道があった。
岩だらけで急こう配の、それは尾根だ、
南北へ続く崖の中で、そこだけが尾根になっている。
車はそこへ乗り込む。
途端にガタガタと、車体の揺れが路面の悪さをダイレクトに伝える。
かつてはここを、遺体を
「どうだね! 友達を撃った感想は!」
「ふざけるな! ああ――ジャック、死なないでくれ」
オレは背後を振り返る。
後ろのインターフェイスが無表情なまま、「死なないわ」と言った。
「あれは空砲ですもの」
「空――砲?」
「君に実弾を渡すわけがなかろう! 危なっかしくて
――やられた。
オレは試されたんだ。
車はガタガタ揺れながら、尾根を下っている。
その揺れが、どんどん激しくなっている。
跳ねあげた石がシャーシを打つ音。
車は速度を上げている。
絵にあった葬列のように、夕陽に向かい――。
葬列はどこへ行くのか?
その答えはすぐに判った。
尾根は下る先で突然ぷっつりと切れ、その先がない。
「おい! 前! 崖だ!!」
「楽しいことを考えろ!」
マジか――。
雄大な山々と丘が遠くに見える。
でも近くには――何もない。
「――無理だ、やめろ、停まれ!!」
「君は
「こういうことじゃない!!」
「ノヴェル君、先のことは気にするな! ひとつだけ聞かせるのだ!」
「なんだ!」
「この旅はどうであったか!? 楽しかったか!?」
――楽しい?
何を言っているんだ。道がないんだぞ!?
でも――オレは思い出す。それはもう、走馬灯のようにだ。
車、音楽、海風。砂漠、山道、街、芸術。コンシェルジュのお姉さん、テディ爺さん、アルドゥイノ、アンジェリカ、デル――沢山のものを見て、沢山の人に出会った。
オレはオレの弱気を
目を
だからさっきのことを除けば、そう――。
「ああ! 楽しかった!! 楽しかったぜ!!」
「そうか――」
ファンゲリヲンの横顔は、それまで見たどの人間のどの瞬間よりも誇らしげで、満足そうだった。
前方にはもうすぐそこに高い落差が口を開けていた。
落差はおよそ――二十メートルか、三十メートルか――いや、もっと。
掴まれ、とファンゲリヲンは言ったかも知れない。
オレは聞いてなかった。
それでも掴まり、歯を食いしばった。
シートの後ろに、インターフェイスがしっかりと掴まるのも判った。
ファンゲリヲンは笑っていた。
きっと奴は、楽しいことを考えている。
車は――崖を飛び出し、飛んだ。
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