36.4 「後はあた、あたし、あたしが『引き揚げるだけ』と――」

 皇女ミハエラを中心に、集められた神学者のチームが揃っていた。

 更に有志百五十名――彼らは新たに生まれるであろう、電子の神への信仰を求める者達だ。

 ノートンは水面下で集めたアカデミーの学徒に、大賢者に関する情報を与え、共通する信仰を形作った。

 それは宗教と呼べるほどに体系化したものではなかったが、『神と人々の家』の調査と研究が生かされている。

 シンボル、教義――あるいは礼節といったもの。

 シンボルにはノートンのデザインした、核を中心とした電子のものだ。

 当初はPかくまで72の電子数を持つデザインであった。


『もっとシンプルなものがよろしいでしょうな』

『し、しかし、K核から順に一つ増えるごとに電子数は自乗の二倍となるのであって――』

『まぁまぁ、ノートンさん。シンボルは人がそら・・で描ける程度でないと……』


 神学者らにそうさとされて、K核のみになった。電子数は二。

 彼はその点について未だに納得していないが、彼が納得しないようでは儀式にさわる。


「ノートン。始めましょう」

「はい、皇女陛下」


 地下研究所の入り江。

 ここで起こった凄惨せいさんな戦いの後片付けは、大変な作業だった。

 念入りに洗い清められ今ではとても四十人からの屍が切り刻まれ、押し潰されたとは信じられないのだが――。

 ノートンが鼻を利かせると、磯の香りも生臭く感じられた。

 神学会総長ユーリ・ハインツベルがその入り江に立って、上への鉄階段を埋め尽くす聴衆を振り仰いだ。

 やがておごそかかに口を開く。


「これより、水の女神スプレネムの名の元、パルマ神学会による秘儀をり行う。秘し、黙し、しこうして神の御業みわざ懇望こんぼうせよ」


 ――秘儀ときたか。

 秘儀とはよく言ったものだとノートンは思う。

 一つの神格を巡って競合するふたつの半神を分離するための儀式。

 そんな儀式はない。

 全てはオリジナルで、未検証。

 だがハッタリは大切だ。

 付け加えるなら、後がない・・・・

 他の神を召喚するならいざ知らず、死んだ大賢者の転生――となるとそれはこの一回限りだ。

 亡き大皇女が託した大賢者の具体的な記憶と、女神フィレムの力があってこそ実現した奇跡のようなものだ。

 今大賢者を失えば、次のチャンスはないかも知れない。

 だが――幸か不幸か、ノートンはまったくマイペースだった。

 普段は神経質な学者気質のハインツベルが長い付けひげをして神官の真似をしているのを見て、ノートンは少し笑いそうになった。

 スプレネムも――馬子まごにも衣装というべきかごてごての装具を付けられて借りてきた猫のようになっている。


(これもなかなか見られないな――)


 ミハエラは緊張した面持ちで、ハインツベルの口上に耳を傾けている。


「――なんじら新たな神の信徒となりて、その神威を、宇宙の根幹と知るものなり」


 ミハエラがノートンを見た。


「ノートン。ではそろそろ」

「はい」


 ノートンは入り江の中央に進み出ると、ハインツベルと入れ替わった。

 見渡すと、階段の上のほうが落ち着かない。

 顔まで見えるわけではないにしろ、所作しょさなさげな頭の動きで彼らの退屈が伝わってくるようである。


「諸君。情報室室長のノートンだ。古典四大要素エレメンタルに列する、新たな神の誕生に立ち会うことができて嬉しく思う。今日、我々は電子の神・・・・をこの世界に生み出す。電子と磁界を支配する、まさに我々のための神だ。そして間もなく、光の神をも生み出す。これは我らにとって、大きなはげみと、未来の恵みを約束するだろう」


 高らかにそう宣言するも、反応はいまいちかんばしくない。

 さながら昼食後の教室。

 ハインツベルの短くも難解な演説で、彼らはすっかり気をがれてしまったようだった。


「電磁気学を専攻する諸君らに、今改めてその有用性、重要性をく必要はないかと思う。しかしながら、諸君らが戸惑うのもわかる。諸君らの中には、光の神と電子の神がなぜ別れて存在し得るか、疑問に思う者もいるだろう。まずそもそも四つの量子基本相互作用のうち、我々は電磁気力を、光子の媒介によって記述する」


 ノートンがそう語ると、神学者らは皆あんぐりと口を開けた。

 神学者らの中で、唯一毅然きぜんとノートンをにらんでいるのはハインツベルだ。

 一方で鉄階段を埋め尽くす若い聴衆の中には、うなずく者も多くいた。

 その様子を見て、ノートンは薄く笑って眼鏡を直す。


「しかし近年我々は、相互作用の統一を目指す理論体系を打ち立てようとしている。宇宙誕生の謎、そして『魔力』という力の源泉を探るのに、今かつてないほど肉薄しているのだ。――少なくとも理論上はね」


 聴衆から笑いが漏れた。


「とりわけ諸君らの傾倒けいとうする電磁気学におけるその取り組みは画期的といえる。高エネルギー状態における仮想光子と、『弱い相互作用』の媒介は区別できなかった。あたかも光の神と電子の神を混同するようにね。電弱統一理論だ。これにより、我々の電磁気の力は、もっぱら光子の媒介によるものより、より自由度の高い記述であると言える」


 質問があります、と階段の中腹で挙手するものが居た。

 神学者らは眉をひそめる。

 静粛に――と言いかけた神学者をさえぎって、「どうぞ」とノートンは水を向けた。


「質問をどうぞ。クラスと氏名は省いて」

「はい。そうはいっても光の神というのは、可視光かどうか知りませんが、いずれにせよ光線でしょう? 光線は電磁波です。そのうえで、ノートンさんは電磁気力のほうが優れていると?」

「優れているか、という観点ではまったく可笑しな話になるね。もちろんその通り。光線も電磁波も――」


 ノートンは電子の神のシンボルとなった原子核模型を示す。


「ここに加わったエネルギーによって励起れいきされた磁界の発振だ。巨視的にはね。だが尺度を拡げて、量子スケールで考えてみよう。誕生したばかりの宇宙と冷えた現在の宇宙では、その振る舞いが異なる。宇宙誕生の秘密に至れるのは、電弱統一理論だと言いたい」

「電弱を統一するなら神も統一するべきなのではないですか」

「君は電弱統一という結果だけを得たいのかね? 神に結論だけをもたらされるのは科学ではなく神学だ。我々は、どのようにして光子と弱い相互作用が別れたのかを知るべきなのだ。それぞれの相互作用を、別々に検証する必要がある」

「先生は――そのために――宇宙誕生に至るのに神の力が必要だと言いたいので?」

「先生ではないが、しくもその通り。光の神は光線、それも特に可視光の神だ。古典的じゃないか? 我々の大統一理論――それはやがて魔力すらも統一する力だ。それを確立するために、量子スケールの神が必要ではないかね? 電子の神となるのはただの電子の神ではない。我々の先達、あの大賢者の知識を継承する者なのだ。大統一理論完成のための大きな支えとなる。その点について言えば、先ほどの質問の答えは『イエス。電磁気力のほうが優れている』といえる」


 ミハエラは下を向いて顔をおおっている。

 神学者らは驚きを通り越して、不機嫌を隠せないでいる。

 何を言われたのかははっきり判らないにせよ、とにかくコケにされたような気分になったのだろう。


「ありがとうございます。よくわかりました」

「私も質問が」

「僕もひとつ、簡単なことで」

「この分野は専門外なのですが――」

「質問は順番にお願いします。時間もありますので、この場でお答えできなかったぶんは後ほど――」


 ノートンの講義――否、儀式は彼の読み通り、成功した。

 若い聴衆は電子の神の必要性を認め、その降臨を心待ちにするようになる。

 ここだけのことではない。

 学徒を通じて、やがてそれは世界中のアカデミアに広まることになる。




***




「神聖な儀式の途中に質問など!」


 まったく度しがたい、と神学会のお歴々は嘆いたりいきどおっていたのであるが――。

 ハインツベルだけは「小賢こざかしい男だ」と笑っていた。


「君の説明と全く同じことを、私は神学的アプローチで説明したのだがね」


 ハインツベルは理論物理の研究者でもあり、量子的・・・神の体系化に功績がある。

 儀式は次のステップに移る。

 始まるまでと全く異なり、聴衆らは目を爛々らんらんと輝かせている。

 そんなものは信仰心ではない――と神学者らは言うのだが。

 スプレネムはじゃらじゃらと装具を重そうに引きって、中央に出た。

 入り江に移された泉は鈍く、怪しく輝いている。

 その水面を見下ろして、スプレネムは何かをボソボソと呟く。

 ミハエラはそのかたわらで、スプレネムの言葉を聞いた。


「『これはただの水ではない』とスプレネム様は仰っています」


 スプレネムは更に何かを呟く。

 あまりにも声が小さく、ミハエラは口元まで耳をもっていっても、入り江の波音でかき消されてしまいそうだった。


「――あ、あの、あのあの、この、これ、これは『天界に通じる門』――というか池――えっ『泉』? い、泉ですよね。あっ、あたしたちもそう呼んでいます。え? これ、これ、これは皆に言わないでも、よ、よかったのですか?」

「質問です。天界とは何ですか」


 学徒がそう挙手したが、スプレネムが凄い顔で睨んだのでミハエラはそれを押しとどめた。


「これより質問は御遠慮くださいますよう。質問は後ほどノートンを通じてお願いします」


 神学者らは「当たり前だ」と頷き合う。

 スプレネムはまた周囲を疑うような視線を投げ散らしながら、何かをぼそぼそと話した。


「『必要な手順』は――フィ、フィ、『フィレム神が済ませてある』のだ、のだ、そうです。――後はあた、あたし、あたしが『引き揚げるだけ』と――」


 スプレネムは、ミハエラを押しのけて泉の反対側に回り込んだ。

 つまずいて泉の水をこぼし、更に慌てて片脚をザバリと突っ込んでしまう。

 聴衆は「ああ~」とか「あっ」と言いながらそれを見守る。

 気を取り直した水の女神――それが両手を広げて天を仰ぐ。

 すると入り江の波がざわざわと騒ぎ出し、洞窟全体が少し揺れ始める。

 ノートンは身構えた。

 ――あの時と同じだ。

 足元の泉の、鈍い輝きの中にいくつか金属のような鋭い光が灯り始める。

 だが――波は荒ぶることなく、そのまま静まり返った。

 まるで無風の湖が空を映すように――ひっそりと。

 洞窟の振動も止まる。

 一方、泉の輝きは強くなり、ごぼごぼと音を立てて湧き上がるようである。

 スプレネムはかがんでそこに両手を入れると、「あれ」「どこ」などと言いながら中を探っている。

 ミハエラはその横に並んで、泉をのぞき込んだ。


「わたくしがお手伝いしても構いませんか?」

「い、いえ、いえ、あた、あたしが」


 水面は白く泡立ち、謎の煙のようなものが覆っているためにマーリーンの姿は見えない。

 しばらくそうしていると、不意に「あった!」とスプレネムがそれを掴み、引き出す。

 女神が引き出しているそれは――老いた大賢者。

 聖衣を着せられ、泉の中で転生を凍結していた殆どそのままの姿であった。


「う……重い……かも」


 だが、続けて泉から引き出されてゆくその肉体は、物質的に不安定な状態にあった。

 見る間に、泉のさざ波が空間に溶けて物質として収斂しゅうれんし、こまやかな鋭い光を発しながら肉体が構成されてゆく――。

 輝く織物のような。あるいは砕ける波頭の逆再生のような。

 学徒らは「おお!」と歓声を上げた。

 神への転生が始まっているのである。

 ハインツベルによれば――神とは量子的存在である。


「ノートン先生! これが観測者効果なのですか!」


 学徒の一人がたまらずそう声を上げると、ノートンは困った顔でたしなめる。


「ハインツベル先生の前で馬鹿を言っちゃいかん。これは観測者効果でも不確定性原理でもない。量子ゆらぎの獲得だ」

「量子ゆらぎの項を加えた修正ハインツベル不等式ですね」


 別の学徒――こちらは優秀そうな学徒である――がそう言った。

 ハインツベルは、自身の理論を『修正』されて少し不愉快そうに言う。


「私は間違えてなどおらぬ。この宇宙が生まれるまで、ハインツベル不等式は正しかった。量子は位置と速度を同時に測定できなかったのだ」

「あくまで仮説だが――宇宙が全宇宙集合空間を移動するとき、空間に波が生まれる。それが量子ゆらぎとして、空間中に物質を作り出す。それが目の前で起きている。天界の水と、魔力を使って――なんということだ。この現象を解明できれば、科学はもっと先へ進める」


 神は多くを語らない。

 しかし全てのことを知っているとされる。

 神を知ることは理論物理の事実を知るのと同じことだった。

 人は、『魔力』と『神』という二つを統合して研究するうち、理論物理の『正解』のみを先に与えられたのだ。

 よって彼らは神と科学の統合を果たしたが、その結果として彼らの研究は常に神の後追いに過ぎないという現実にもさらされていた。

 だが今――信仰でも神の意志でもなく、人がそれを行っている。

 好奇心が新たなる神を生み出す。

 いずれ好奇心が神の存在そのものを解き明かすだろう。


「――イェアアアアアアァァァアアァァアァアアッ!」


 スプレネムが叫んだ。

 輝く泉が高々と飛沫を上げ、光の柱とも見まがうほどの光量が地下の入り江を満たした。

 やがて――それが収まる。

 そこに、大賢者が立っていた。

 神を解き明かすのは人間と、そしてこの新たな神。


「――考えよったな。余計なことをしでかす者が、ここにもおるわい」


 マーリーンは、大賢者にして電子の神として入り江に再誕した。




***




 沿岸街道は三国――リトア、ポラント、デマルッシェを通ってジェミニへ続いている……らしい。

 オレの知っている地図とちょっと違う、ロードマップという道路専用の地図を買った。


「なぁ、そのブリタってのは遠いのか」

「地図を見ているのは――」


 ファンゲリヲンは流れる海の景色を眺めた。


「――君だ」


 たっぷり溜めて、そう言った。

 まぁそうなんだが。


「ブリタってのは、島国なんだろ? 船でも良かったんじゃないか」

「船旅は嫌いでな。酔うのだ」

「車はいいのか」

「自分で運転していれば大丈夫なのだ」


 そういうものか、と言うとファンゲリヲンはそういうものだと言った。


「それに――パルマから追手が来るだろう。海上ではとても敵わん。逃げ場もない。何と言ったか、かすみの、霧の――」

「『霧の船団』」

「そう、それだ。パルマ皇女は君を捕まえに来るだろう」

「ああ。お前もな」

「同じではないか」

「同じなわけあるか。オレは裁判して処刑される。お前はその場で射殺だ」


 くだらぬなぁ、とファンゲリヲンは言った。

 オレも言ってむなしくなりはした。

 輝くヴァニラ海を右手に眺めながら、風光明媚ふうこうめいびな沿岸街道を走っている。

 窓を開けてもいいかと聞くと、どうぞと言われたのでオレは変なレバーを回して窓を開けた。

 気持ちの良い風が入ってくる。

 悪くはない。


「音楽が欲しくなるな」


 ファンゲリヲンはそう言って、座席の間の箱から何やら紐を巻き付けたようなものを取り出した。


「これを前のデッキに入れてくれたまえ。それくらいはできるだろう」

「なんだこれ。黒い……テープか?」


 船が出航するときに投げるやつに似ている。

 それか、壊れた椅子の足を直すときに使う奴。


「まぁ、音楽だよ。デッキを開けて、上の金属のところを通してテープからちょいと引き出した部分を左に、残りを右のリールにセットしろ」


 言われた通りにデッキを開け、二つのリールを確認する。

 引き出したテープを左に引っ掛け、右のリールに残りを固定する。


「ヘッドを通すんだ。上の、金属の部品だよ」

「あっ、ああ、そうか。悪い」


 テープを上部のヘッドという部品に引っ掛けた。

 デッキを閉めるとファンゲリヲンが手を伸ばし、三角形のボタンを押す。

 するとリールが回転を始め――ドッド・ツッツ・タンタンと太鼓やらコップやらを叩くような音がし始める。


「なんだこれ」

「まぁ、音楽だよ」


 やがてすぐ低い音が重なり――色々な楽器が重なって、女性が唄い始めた。


「おお、いいじゃないか」

「いいだろう?」


 地図に目を落とす。

 どれくらい走ったか。

 車はリトア国境を抜け、ポラントに入る頃だと思った。

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