16.4 「ここに、車椅子の男が来ましたね……?」
『ドアを開けられました……』
――畜生、鍵をかけ忘れたのか?
『サイラスです。今、ミーシャが入り口に行きました』
「ミーシャ、相手の眼を見るな。難しければ眼を
二人は同時に分かりましたと答えた。
『――どなた?』
『車椅子の男を探し……こちらに……でしょうか』
ミーシャが訪問者と接触した。
微かに相手の声が入る。明らかに――官憲や警備兵ではない。
あまり声を張るタイプではないようだ。
すぐにサイラスの状況報告が入る。
『相手は女の子です。ミーシャよりもだいぶ小さい子で……十二、三歳くらい。ドレスみたいな服を着ています』
「はぁ!?」
――さっきの子だ。
「と、とにかく知らないと言え。何を訊かれても判らない、と」
『知りません。そんな人は来ませんでした』
『おかしいで……隣の家の……に入ったのを……』
『判りません』
ミーシャは指示通り答える。
『家の中にいた』『外のことなんか何も知らない』――何にも不審なことはないはずだ。
だがイアーポッド越しにも、相手の不審がる様子が伝わってきた。
『おか……ね。それに……た、わたしの眼を見てお話してく……か?』
『それが……目が見えないんです』
いいぞその調子だ、と心中でエールを送る。
サイラスが心配そうに
『なんだか様子がおかしい。普通じゃない。話しながら家の中を滅茶苦茶凝視してます。僕も見つかりそう』
「家の中を、か。まずいな。いいからサイラスは身を隠せ」
サイラスは小声で、しかし緊迫した声をあげた。
『まずい! 入って来ようとしてる! ミーシャの右を通り抜けて――』
『ちょ、ちょっと! 勝手に――』
ジャックは息を呑んだ。
上で何が起きたのか判らない。
ややあって、訪問者の声がした。
『あなた。お目目が見えないのではなくて……?』
『お――音で、目が見えなくたってそれくらい判るわ! 馬鹿にしないで!』
どうやら、ミーシャが侵入を阻んだようだ。
『わたしたちは……に危害を加えるつもりはありません。……車椅子の……探しているだけ……』
――何なんだ。誰なんだ。認識術どころか、そうまでして俺を探してるのか?
――待て。今、「わたしたち」と言わなかったか?
そこに、スティグマがいた。
路地に立って、二階を見上げている。
まさか――今二階にいる、あの少女が勇者?
だとしたら二人が危ない。
ミーシャ、そいつは勇者だ、と警告すべきか否か――。
『わかりません。引っ越してきたばかりなのです』
『本当に何も……か? ジェイク……ゼンという男で、危険な……です。あなたも騙され……』
『知りません』
『わたしたちは危害を……意図はありませんの。ただお話をしに……』
「こっちは話なんかない。お引き取り願ってくれ」
『知りません! 帰って!』
『本当に知らないのですか? 勇者殺しのジェイクス・ジャン・バルゼンです。脅かされているなら、わたしたちが助けます。目を開けてください』
囁くようだ。しかしやけにはっきりと聞こえる。
まるでイアーポッド越しに、ジャックに直接語り掛けてくるようだ。
『マーリーンを横取りし、銀翼のゴアを殺し、高潔のオーシュに辿り着き、あのお方の秘密にまで手を掛けた――』
はぁはぁ、とミーシャの息遣いが――途絶えそうだ。
『……まずい。あの子がミーシャに張り付いて……くっ付いている……首筋に、顔を寄せて……』
サイラスが震えた声を絞り出してそう告げた。
よく聞こえるわけだ。自分よりも小さな子供が、ミーシャに張り付いて耳元に語り掛けているのだ。
『ミーシャが膝を、床につけた……! おい、ミーシャ! しっかりしてくれ!』
「隠れていろ! 今行く!」
限界だ。
ジャックは音をたてないように車椅子を下りる。
床に這って、
階段を一段ずつ上がってゆく。足の激痛のことは何も感じなかった。
『わたしたちには、戦闘の意思はございません。勇者、無欲のソウィユノと高潔のオーシュの居場所が知りたいだけなのです』
『ゆ……』
「ミーシャ、もう少しだけ堪えてくれ。もうすぐ上がりきる」
一段ずつ……上がる。もう少しで二階だ。
声がはっきりと聞こえる。
透き通るような、人間離れした声だ。
女の勇者、子供の勇者――知らない。そんな勇者は知らない。
『もう一度聞きましょう。ここに、車椅子の男が来ましたね……?』
ミーシャは何も答えない。
代わりに、荒い息遣いと高まる心音が響いてくる。
ミーシャは目を瞑った真っ暗闇で正体不明の敵と
『ここに入るのを見た人がいたの。目をこじ開けて差し上げてもよろしくてよ……?』
ジャックは二階に着いた。
突き当りを曲がれば入り口が見える。
「もう少しだ……。魔術で弾き飛ばす。合図したら後ろに飛んで伏せろ。いいか? 分かったら、『わかった』と口に出して言ってくれ」
そこへ。
車輪の音がした。
「車椅子の男なら、きっと僕だ」
サイラスの声だ。
「……あなたは」
「その子とは病院で出会った。こうして隠れて会ってることは、秘密なんだ」
「……そう。……そう、そうでしたか。ええ……いいえ」
「僕に何か用?」
「あなたは……、ジェイクス・ジャン・バルゼンですか?」
「勿論、違う」
「では、ノヴェル・メーンハイム?」
「違う」
少女は
鈴を転がす音色のような硬質な嗤い声をコロコロと
壁の向こう、外廊下を足音が戻ってゆく。
息を殺して音を聞くと――足音は廊下の角を曲がってザッザッと土を被せた階段を下りていった。
緊張の糸が途切れ、ジャックは息を吸い込みながら床に転がった。
「ミーシャ、よく頑張ってくれた、ありがとう、済まない。サイラスも……」
ミーシャは零れ出る涙を掌で拭きあげながら、こちらを向いて首を振った。
すぐにサイラスが車椅子で駆け付けた。
「ジャックさん! 動いたらダメじゃないですか!」
「あ、ああ……それより君、その車椅子は」
「奥にあったので借りてきました。階段の土、床の傷――きっとこの家にも、あるはずだって」
サイラスが奥のドアを指差す。
ドアは開いていた。その向こう、ベッドの上で寝ている老人と目が合い、軽く会釈を交わした。
――全く、本当に勘の鋭いガキどもだ。嫌いじゃない。
***
辞令。
ゴア殺害事件調査委員長職の解任。
ディオニス捜索委員長就任。
「こんなことになって残念だよ、ミール君」
ハマトゥ院長は、先ほどと同じ席に斜めに腰かけ、指先でテーブルを叩いて言った。
「いや、君は実に、よくやってくれた。その結実を見ずに辞令を出すのは、我らとしても無念だ。だがこれは、先程全会一致で決定したことだ。従ってくれるな?」
はい、とボルキスはへらへらした。
ようやく庁舎を出られたと思った矢先に、すぐに使いの者がボルキスを探しにきたのだ。
オルロはこの場にいない。
「宜しい。すぐに身辺の整理を。明日にでもモートガルドへ発ってもらう」
「あのう、随分お急ぎのようで。ああ、
モートガルド駐在となればしばらくは戻れない。
ディオニス捜索ともなれば――下手をすれば一生戻れないかも知れなかった。
親戚? とハマトゥは片眉を上げた。
「初耳だ。どこの者かね。追ってこちらから文書を出そう。民王の署名をつけて」
「はぁ」
まぁ、そういうことだ、とハマトゥは言った。
他の元老院は、笑いをかみ殺すように下を向いていた。
「あのぉ、立ち入ったことを聞くようですけど、ディオニスについて、僕は何にも知らないので、そのへんを」
「安心したまえ。我々も知らない」
外交チャネルがないわけではない。
しかしオルロをして「ならず者国家」と言わしめるような国である。
全ての対話は大使を通じて行われ、格下と見られる民王は元より皇女陛下すらも、ディオニス二世との会談は叶っていない。
「またまた御冗談を。そんなことはないでしょう」
ボルキスが笑うと、ハマトゥは目に見えて不機嫌そうに言った。
「何がだ。何が冗談だと? ディオニス二世が海軍を持つに至って、
「そのことは、民王様も?」
「当たり前だ。話の途中に割り込むな。このような事態となり、対話の準備を進めるつもりで、いたところ、このような」
「このようなことって何です?」
ハマトゥは、まるで馬鹿を見るような目でボルキスを見る。
「行方不明だ。海に散った」
「だからそれは噂ですよねぇ。そこまで噂を信じるなら、
「噂かどうか、それを確かめろ」
「よその国のことじゃないですかぁ。何をそんなに怖がっているんです? もしかして報復? そこのカスパーさんがやらかしたことの?」
「憶測で元老を侮辱するのは許さんぞ、ミール。不服なら出て行け。承服するならこれを持ち、明日までに支度をしろ」
いいな、とハマトゥは封書をテーブルに叩きつけ、立ち上がった。
元老達はぞろぞろと会議室を出てゆく。
後にはボルキス、船の模型、そして辞令が残った。
「――やれやれ、本当に失礼な人たちだ。君に対してもそうかい?」
ボルキスはへらへらと、部屋の隅の暗がりに語り掛ける。
暗がりから――スッと歩み出す者がいた。
スティグマだった。
ボルキスは最前、カスパーの執務室で初めてスティグマに遭遇した。
父から聞かされていた通りの男だった。
「僕は君のお仲間殺しの捜査から外された。今度はディオニス捜索だってよ」
スティグマは何も答えない。
「本当に無口だな君は。まぁいいや。今、この席に座っていた
「……」
「……それだけじゃない。君も気にしていたあの金庫――まだ何か、別の計画にも関与してる。スパイでもない。見当はつくかい?」
スティグマは、薄く首を横に振った。
真っ白な髪、真っ黒な右目。何を考えているのか、
「僕が調べてあげよう。その代わり僕を勇者にしろ」
「……」
「資格は充分なはずだ。君は僕の頼みを聞く義理がある。それに、
スティグマは首を縦に振った。
「すばしっこい奴だ。僕もすぐ
「……」
何を迷うことがあるんだい、と迫るボルキスの笑いの奥には、鬼気迫るものがあった。
「僕は元老院をこの世から消す。
スティグマは、ボルキスを
汚らわしいものを見るような、
「なんだい、騙し討ちじゃないぞ。僕はさっきちゃんと宣戦布告した。親戚にお礼と挨拶をするって――僕は」
そう言いながら、ボルキスは自らの胸に当てた自分の掌を離して、少し見た。
そのまま掌を頭の横でクルクルさせながら、続ける。
「この僕が直々に彼らを処刑するんだ。これは、道徳的な行いだ」
へらへら笑いは消えていた。
不敵な、自信を持った笑みで、ボルキスはスティグマの正面に立つ。
「――道徳は嫌いか? それでも君は従うべきだ。君は、我らが真なる王カイザル十五世に借りがある。僕の頼みを聞いてくれ。聖痕の者よ。僕はあの
ボルキス・ミール・ノートルラントだ――と名乗った。
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