16.2 「優秀な部下に囲まれて、僕は幸せだなぁ」
「ミール委員長殿、こんなことをしては……」
暗闇で、ハンス・オルロがおどおどと口を開いた。
ボルキスは「静かに」と
明かりが差し込むその部屋は、カスパー労働局長の執務室だ。
「秘書官は漁業組合の不祥事に追われて留守なんだ。今しかないと思ってさ」
「なぜカスパー局長なのでありますか」
「そりゃあ、あの人が一番脇が甘そうだったから……」
ボルキスがカスパー局長の机の上を漁ると、すぐにある資料が出てきた。
「奴隷のリスト……いや、ちょっと違うな。組合員ではありそうだ。ええと、あっ、印がある」
どうやら履歴書のようなものだった。
印が付けられたのはヨハン・オーという男で、モートガルド語、ザリア語に堪能とある。水魔術もそこそこ使える。
書き込みで『オーシュの銅像に酷似』とある。
「やっぱり脇が甘いねぇ。この人が偽オーシュの正体だよ」
「ははぁ。しかし偽のオーシュを立てて何をするつもりだったのでありますか」
ボルキスはさらに履歴書を捲っていった。
「さぁ、それは本人に聞いてみればわかるさ。皆外国語に堪能で……ああ、これはこないだ世話になったサン=オルギヌア駐在のホラン君じゃないか。どうやらこれは、スパイのリストのようだね。情報局長に隠れてこんなことまでしてたのか」
ホランからはモートガルド沖で起きたとされる海戦について、沈没船の資料を山ほど送ってもらったのだ。
かなりの数がいるのであります、とオルロは驚いていた。
しかしさすがに誰がどの国へのスパイなのかまでは判らなかった。
「作戦地のリストも欲しいね。それがあればカスパーを
オルロは絶句した。
彼にも解ったはずだ。スパイの素性と作戦地がバレることは、スパイの命に直接係わる問題だ。作戦そのものも、即座に失敗するだろう。
「……国に
「まさか。本当にばらまいたり他国に渡したりはしないよぉ。飽くまで交渉材料だよ」
ボルキスはへらへらと誤魔化す。
それは単にオルロを安心させるだけの言葉であり、国に背く行為であることは全く正当化できない。
彼は生真面目な部下が安心するまでは永遠にヘラヘラしている覚悟であったが、予想より遥かに早くオルロは飲み込んだ。
「リストを探すのでありますね。了解しました。しかし時間はあるのでありますか?」
「大丈夫。爺様達は、今頃僕のお
***
元老院の重鎮たちは、ボルキスの手土産を囲んでいた。
「信じられん。あの男、こんなことまでするとは……」
それは復元された海賊船の模型である。
モートガルド沖では皇帝を探し大規模な捜索が行われ、交戦したと
その完全な資料も模型には添付されていた。
「これは……どう見る」
「まずいことになった。海賊船の船尾側を縦に一刀両断――スカイウォーカーだ」
模写を見ると、衝突で千切れた木片の中に、明らかに切断された面を持つものがある。
それを組み合わせると、元の船のうち、どこに致命的な損傷があったのかがこうして浮かび上がる。
それは、あのとき絶海でどんな惨劇が起きたのかを雄弁に物語っていた。
***
実際の検証は逆の手順で行われた。
海で発見された残骸、これらはほぼただの木片に近いものだったが、それを映した写真が現地駐在のホラン経由でボルキスに渡っていたのだ。
写真は証拠にならないが、模型ならば話は別だ。
ボルキスは、海賊船と同型の模型を入手し、どうなれば資料と同じ壊れ方をするかを考える。
調査チーム全員を動員し、あらゆる可能性を洗った。
「後方に燃えた形跡があります」
「切断面が、船尾
「なるほどぉ。だいぶきれいに斬られたんだねぇ」
「斬撃は横から、この角度で入ったものと思われます。同等な特徴は軍用船にも見られます」
「こちらは別の船の木片です。縦に衝撃が加わったと思いますが、このような角度で衝撃が加わるのは、
「沈没や通常の衝突では考えられません。通常の衝突の場合はこちらの模型のように――」
「うんうん、君達は優秀だ。優秀な部下に囲まれて、僕は幸せだなぁ」
***
「模型だと!? こんな玩具が証拠になるか!」
そういきり立つ幹部を前に、ハマトゥ院長は冷酷に言い放った。
「現実を見たまえ。これ以上ない、動かぬ証拠だ。我々は、スカイウォーカー、否、聖痕の男を動かしてしまった」
「この場にディオニスも居たのか……これではもう――」
「ええい、止さないか。全てが明るみに出ればモートガルドの件もこちらのせいにされ兼ねん。皇室どころではなくなるぞ」
「しかし目撃証言が多すぎる。記録上でも構わん。何とか消せないか」
「先日受け入れた亡命者の中にもスカイウォーカーを目撃した者が大勢いる。ディオニスも見ている。彼らは不用意な発言はしないことになっているが――なにしろ皇室の権限だ。それ以上の対処は難しいだろう」
彼らがやいのやいのと声を荒げ始めると、ハマトゥ院長が一喝する。
「
「……偽の勇者を立ててマーリーンを奪おうとしたのがまずかったのか」
「それしか考えられんだろう」
カスパーが蒼白になって、テーブルに手を付いた。
そのままフラフラと会議室を出て行こうとする。
「どこへ行くカスパー」
「いや、少し気分が優れない……悪いがそろそろ戻らねば」
「君の不始末だぞ。今すぐここで対策を立てたまえ」
***
「――これは、ダイヤルロックでありますか」
十六桁の暗唱番号を入力するロックだ。
本棚にはめ込まれた小さな金庫は、厳重なロックがかけられていた。
執務室の奥の
そこは
「いくら脇が甘いといっても、最低限のことはしてたかぁ。いやぁ、老兵は死なないもんだね」
十六桁では手も足もでない。
「けどそこは老人の浅知恵さ。厳しすぎるセキュリティは、往々にして穴を作るもんだよ」
「と言いますと」
「十六桁も覚えられるわけはない。きっとどこかにメモがある」
「これでありますか」
オルロが取り出した紙には、数式が書かれていた。
『519,283,451*3,909,128=2,028,945,478,240,728』
「――519283451*390……ああもう、わからないね。計算は得意だけど、こりゃとてもすぐには計算できない」
「でありますか? 自分には最初の数字は49133407……に見えるのであります」
「ええ? いくらなんでも数字は見間違えないよ……あれ? さっきと変わってる」
認識阻害だ。
見る者によって、見る度に数列が変わっている。
「なるほど。いちいち計算はしないけどね、たぶん数式は間違っているんだよ。認識阻害をかけた本人だけに、正しい数列が見えるんだ。やるもんだねぇ」
「なるほど、何度見ても掛け算の答えは十六桁なのであります。しかしなぜ数式なのでありますか」
「検証用だよね。自分でも認識阻害の影響に入っていないか、誰かが更にこの紙に認識阻害をかけていないか。そんなことをされたら二度と開かなくなってしまう」
「別の紙を用意しておけばいいのであります」
やけに突っかかるねぇ、とボルキスは笑った。
「勿論スペアはあるとして、目の前に鍵がなくても検証ができるってことが大事な場合もあるんだろうねぇ。元々これを考えたのは情報局の人間なんだろう」
その時、コツコツと響く足音が廊下の方から聞こえてきた。
足音は、部屋の前でピタリ止まる。
「まずい。誰か来たかも。オルロ君、隠れて」
隠れるといっても――この附室には衝立が一枚あるだけだ。
身を
誰だか知らないが、この資料室まで来ないことを願うばかりだ。
極限まで声を
「窓から出られそうでありますが」
「三階だよ? 僕には君みたいな握力はないんだよぅ」
足音はこちらへ向かってきた。
資料室の扉が開かれる。
ボルキス達から見ると入り口は左手側にある。正面にある衝立の向こうで、直接入口は見えていない。
足音の主は入口のところでまだ中を見ているようだ。
巡回の警備だろうか。いや、それにしてはノックがなかった。
この部屋に用があるのは間違いないだろう。
コツッと一歩、部屋に入ってくる。
衝立の向こうを通り過ぎて右へ行くか、すぐに曲がって左へ出るか。
ゴクリ――と背後でオルロが息を呑む音が聞こえた。
足音、否、人影はゆっくりと衝立の向こうを、それに沿って進み始めた。
ボルキス達は衝立のこちら側を逆に――扉側を目指す。
衝立の端から扉が見えた。開きっぱなしである。
(やった。ツイてる)
ボルキスは、そこから出るようオルロに合図した。
オルロは一瞬
人影はゆっくりと衝立の向こう側の端まで歩いていた。
そのまま曲がろうとする瞬間――ボルキスは合図した。
音を立てず、しかし素早い動作で衝立から飛び出し、執務室へと戻るオルロ。
ボルキスも衝立の反対側に回り込み、人影を確認しようとしたが……いない。
既に衝立の先を曲がり窓際へ、先ほどの金庫の前にいるようだった。
衝立の上部は
背が高い。
カスパーではない。
――あの金庫を開けるところを見られないかなぁ。
振り向くとオルロは既に執務室を出、廊下からこちらに「出られます」と合図していた。
(悪いけど、僕はもうちょっとここにいるよ)
へらへらと首を振って、そう伝える。
まだだ。誰だか知らないがあの金庫を開けてくれさえすれば、その隙に魔術を撃って中身を奪う。認識阻害をかけて記憶を消せば、老人らを
――開けてくれぇ。
ボルキスは資料室の扉のところで、その瞬間を待つ。
しかし――人影は
駄目かぁ。
ボルキスは身を
慌てて机の下に身を隠す。
息を殺した。
足音も執務室に戻ってきたようだ。
そのまま扉のほうに向かってゆく。
ボルキスはその通り過ぎる足音を、
(――いったい、誰なんだ)
その後ろ姿を見てやろうと、机の上から顔を出す。
そこに、顔があった。
机を挟んで、反対側にあるその顔。その眼。
眼が合ってしまう。
(――!!)
だが――その真っ黒な目の中に、何の
ボルキスは逆に、その眼から自分の視線を逸らすことができなくなってしまった。
その右半身を覆った黒い模様は眼球にまで達し、その眼はさながら
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