12.3 「これがイチかバチかっていうやつだ」

 海中――。

 水は澄んでいる。

 コンテナに入ったノートンは、掌に意識を集中した。

 左手で水魔術と、右手で空気魔術を同時に使う。

 水中で掌が鈍く光ると、ゆっくりとコンテナ内の海水と外気の交換が始まる。

 火魔術の苦手なノートンにとって、空気魔術と水魔術は多少の心得がある。

 それでも時間がかかる。

 水兵や海賊に敵うほどではないし、水魔術はすっかりなまっていたし、空気魔術も攻撃特化であったからだ。

 彼の魔術は、個人的に研鑽したものは電気魔術のみで、要素魔術エレメンタルはせいぜい官僚試験対策にした程度である。

 電気魔術は要素魔術と異なり、その有用性を広く認められてはおらず、一部の好事家の手なぐさみとされている。電子を司る神もいないのだ。

 一方で電気を使った機械の有用性は知られている。術者の向き不向きによらず一定の効果が得られ、近年では半導体を使った電導状態の自己遷移スイッチングは途方もない可能性を秘めている――とノートンは思う。それでも神がいない、攻撃に向かないというだけで一段劣るものとされていた。


(まぁ確かに――こういうとき頼れるのは要素魔術だ)


 そのうちに、肺の中の酸素が不足し、息苦しくなった。

 一旦水面に顔を出すと、ノヴェルとミラ、海賊達が見えた。


「ノートンさんすげえよ! すこし持ち直してきた!」


 乗ってきたコンテナは、三つのコンテナを回って人員を回収している。

 オーシュは――と見ると、黒い背ビレはやや遠巻きに、そのコンテナを襲うかこちらにするか、品定めをするように回遊している。

 使えるコンテナを増やさなければ。

 恐ろしく貧弱にはなってしまったが、今はこれが彼らの船団なのだ。

 息を吸って、再びコンテナ内部に戻る。

 せめて頭が出るほどに転換が進めば息継ぎの手間が省けるのだが――。

 まだ時間がかかる。

 気がかりなのはコンテナの、両開きの扉だ。

 充分に空気と水の転換が済んだ後、水圧に押されて閉じ込められるか、気圧が勝って締められなくなるか、そのどちらかだ。

 挟まれれば大怪我。閉じ込められても、やはり命はないように思えた。

 ノートンは官僚になってすぐ、民王部情報局で汚れ仕事を担当するようになった。

 密偵、拷問、買収工作。血を見るのも慣れてきたが、やはりジャックほどの割り切りはできない。情報局に欲しいと言ったのは、あながち軽口でもなかったのだ。

 だが今やそのジャックも消息不明。

 皇帝に働きかけて戦争を回避する目的も有耶無耶うやむやになってしまった。

 その皇帝も犠牲になったことが、皇女にとってどう働くのか、予想もつかない。

 今はノヴェルら皇女の密使団を一人でも多く帰す。スティグマら勇者の情報をもたらす。それが自分の使命と心得ていた。

 ノートンは、ある時書いた電気関係の論文が切っ掛けで皇女に拾われて、随分と救われた思いがした。

 スパイとしての報告は、屡々しばしば船上で行われた。霧の船団とも呼ばれる、皇女の船団だ。

 限られた者だけに乗船を許された皇女の船に乗るときは、いつでも誇らしく思ったものだ。

 幸運だった。

 今、いつ閉じるかもわからないコンテナの扉も、あのときの幸運のように彼の道を開くだろうか。

 どうにか首までは出た。

 そのとき、視界の隅を何かが横切る。

 折角せっかくできるようにした呼吸を止め、辺りを窺がう。

 再びコンテナ開口部の外を、何かが通った。

 気のせいではない。何かがこの周りにいる。

 オーシュだ。

 こちらに狙いを定めたのだ。

 水さえ、排水さえもう少し進めば――。

 頭を振って排水作業に戻る。

 絶叫が聞こえた。

 ノートンは再び気を散らされ、外を見る。

 ――そこへ。

 ドン、という衝撃と共に、黒く巨大な生き物がコンテナ内に突入してきた。

 強烈な水圧と共に、ノートンはコンテナの奥へ押し込まれる。

 再び彼は水没し、ぼこぼこと空気を吐き出しながら意識を失いかける。

 ほんの一瞬で、コンテナ内の体積の大部分をオーシュに占められていた。

 その真っ黒な鮫の頭が、目の前に迫っていた。


(気を確かに持て!)


 確かに鮫そっくりだ。

 だがノヴェルの言った通り、眼がない。鮫は目が悪く、鼻先の器官で海中の臭いを頼りにしているのだ。退化したのだろう。

 つまりこれは鮫ではない。オーシュの理想とする海の究極生物ウルトラ

 その究極生物は、コンテナの高さ一杯に口を開け、ノートンを噛み切ろうと迫る。

 三列並んだ歯列の一番外側には、鋸のような鋭い歯。

 その口の中に、異形の男の顔が覗く。

 高潔のオーシュ。

 深海に長く住んだその人間は、水の抵抗と暗闇で異形へと変貌を遂げていた。

 アンコウのように崩れた顔面に、超然とした無表情を湛える。

 ――きっと弱点だ。

 口の中に見える奴の本体は、黒い鮫を模した外殻よりも脆いに違いない。

 魔術を撃とうにも、両手は左右に広げて体をコンテナ奥に張り付かせている。そうしていないと鼻先を噛み千切られそうだ。

 水中。

 息がもたない。

 オーシュがその黒い牙で一杯になった顎で噛み付こうとする。

 だが巨体がコンテナの入り口につかえて進めないのか、少しばかりこちらには届かない。

 二度、三度と噛み付く。

 そのたび僅かずつコンテナ内への侵入が深くなる。

 コンテナの最奥。

 壁に沿って両腕を張り付け、懸命に身を引き寄せる。


(ジニー・ロレンス器官――)


 鮫が臭いを嗅ぎ分ける鼻先の器官を、確かそう呼んだとノートンは記憶している。

 臭いだ、とは先ほど彼自身も説明していたが、これはだいぶ分かりやすく簡略化した説明である。実際は水に溶けた物質がイオン化することによる微小な電気的刺激のことだ。


(腕さえ自由になれば――)




***



 コンテナは押されていた。

 オーシュの突撃を受けて、逆方向へ進んでいる。

 ノヴェルはミラを抑えながら掴まっているのが精いっぱいであり、他の数名の海賊達も最初は同様であった。


「ガキ! メルを抑えていろ!」


 カトラスを取り出し、またある者はナイフを口に咥え、コンテナにつかえているオーシュのほうへ慎重に這ってゆく。

 オーシュの体躯の半分近く、丁度背ビレのある一番太い部分までがコンテナの入り口に引っかかっており、尾ビレの力強い動きに合わせてコンテナは激しく揺れ進む。

 コンテナ内で、ノートンに食らいつこうとしているのだ。

 海賊達はオーシュのところまで至った。

 すぐ足元に巨大鮫がいる。

 彼らは銘々にカトラスを突き立てようとしたが、黒い体躯には傷一つつけることができない。


「どうなってやがる! 刃が立ちやしねぇ!」


 そこへ。


「退け退け! 掴まれ!」


 一そうのコンテナに乗った残りの海賊達が、全速力でこちらへ来る。

 二名による水魔術の同時噴射だ。狭い足場に絶妙なコンビネーションでコンテナを駆り、コンテナからはみ出す鮫の半身目掛けて飛び込んでくる。

 四十五ノット以上。凡そ毎時八十キロを超えている。

 コンテナは小型高速艇のようにスピードを出す形状でないことも考慮すれば驚異的な速度だ。日頃海賊船を動かす水兵の実力だ。

 衝撃に備え――ノヴェル達は歯を食いしばり、身を低くする。

 数秒後、凄まじい衝撃があった。

 眼前を、横からオーシュに衝突したコンテナが飛んで行く。

 視界が回転する。

 振り落とされるノヴェル。落水するミラ。一人残らず宙を舞い、或いは転落する海賊達。コンテナから抜けて回転するオーシュ。

 真っ先に浮上したのは、コンテナ内でオーシュと格闘していたノートンであった。


「ノヴェル君! デルタ君! 無事か!」


 答える者はいない。

 誰一人無事ではないのだ。

 無茶をとがめようにも相手がいない。

 ノートンは苦々しい表情を作ると再び大きく息を吸って、海中へ潜った。

 水中は先ほどまでと異なり、泡ばかりで視界が悪い。

 両手両足を大きく使い、海水を一掻きして進む。


(どこだ)


 更に数度、水中を掻き更に潜る。


(頼む! 居てくれ!)


 また数メートル潜り、辺りを見渡すと眼球にも水圧が強く感じられる。

 水深にしておそらく十メートルと少し。何のトレーニングもなく二十メートル潜れる人間は少ないと聞くから、これでもかなり無茶ではある。

 そして奇跡的に、オーシュより先にノヴェルとミラを発見した。

 ノヴェルはミラを抱えて浮上しようともがいているが、そんなことは訓練を受けた大人でも容易ではない。


(ミラ君を離せ!)


 そう合図するが、ノヴェルは首を横に振る。


(見捨てろと言ってるんじゃないんだ! 私に任せろということだ!)


 続けて合図を送るが、上手く伝わらない。

 そこへ――オーシュが戻ってきた。

 煌めく水面の光を遮ってぐるぐると回っていた影は、やがてノートン達に気付いて降下してくる。

 オーシュは一直線にこちらへ向けて迫る。


(くそっ。これがイチかバチかっていうやつだ)


 ノートンは両手を広げて、魔術を構える。

 その掌が再び鈍く、薄暗い水中に輝く。

 オーシュが迫る。

 もう目前だ。


(食らえ……!)


 電撃を走らせる。

 弾かれたようにオーシュが全身をうねらせ、逸れてゆく。

 そのままノートンの後方へと過ぎ、見えなくなった。


(効いた!)


 あの様子。

 しばらくは嗅覚が戻らず、こちらを探せないだろう。

 ノヴェルは「ナイス」とばかりに親指を立ててノートンに合図を送った。

 ――そんなことしてる場合か。

 意外に余裕がありそうである。

 ノートンはノヴェルに肩を貸し、共に水面を目指した。

 そのまま数メートル浮上する。

 そこで不意に、ノヴェルが慌てだしたのが重心の揺れで判った。

 息が続かないのだろうか? そう思ったノートンが横を見ると、ノヴェルはある方向を指差している。

 ――何がある? と目を凝らすも、彼は近眼である。

 裸眼では二重になってしまって、白い何かが暗い水の向こうからふわっと姿を現した、としか判らない。

 だが眼を凝らすうちにもその姿はあっという間にハッキリした。

 鮫の姿ではない。

 オーシュ本体だ。


(馬鹿な! 早すぎる!)


 究極生命の殻を脱ぎ捨ててもその本体は異形。頭蓋の先端が、水の抵抗を軽減するよう細っており、その頭部には殆ど毛髪が残っていない。

 二本の貧弱な腕を、こちらへ向けていた。

 高潔のオーシュ、その本体だ。

 麻痺させられた嗅覚を捨て、視覚を生かすために鮫への変態を解いたのだ。

 発達した脚から魔術を噴出し、凄い速度で来る。


(まずい)


 慌ててノートンとノヴェルは浮上しようともがく。

 水面まであと数メートル。海面に散る太陽の輝きに手が届くような気がしたとき――。

 ぐい、と海中に引き込まれる力が働く。

 ノートンか、ノヴェルか。

 どちらでもない。

 二人が左右から抱えたミラの足を、オーシュは掴んでいた。

 ノートンたちはオーシュの背中を蹴る。

 ノヴェルも、苦しそうに顔を歪ませつつも、懸命に蹴る。

 二人が何度蹴ってもオーシュは怯まない。

 オーシュはミラの足を肩に担ぎこむようにし、足を水面側へ向ける。

 オーシュの足から出る推進力はパワフルだ。せっかく近づいた水面が、また五メートル、十メートルと離れてゆく。

 ――まずい。息が続かない。

 電撃を使うか。

 だがもし二人が感電し、水深十メートルで気絶すればそれは死に等しい。


(自信はないが――ウォータースピアを……)


 ノートンが放った水魔術は全く頼りなく、オーシュの背中に多少の傷をいくつか作るに終わった。

 だが、鋭いだけ蹴るよりは効果がある。

 問題は、もう息が続かないことだ。

 両手を使えれば片手に酸素を集めて、加圧して吸引することも可能だが――今手を離したら二人を永久に失う。


(くそ……! くそっ!)


 水面は遥か遠い。

 暗く、眼に見えるモノの輪郭がくなり、視界全体がブリンクを始める。

 単純な損得の判断ができない。

 自分の位置、姿勢さえ見失い――。


(く――)


 すると突然、周囲が、眩しいほど明るくなった。

 谷底へ滑り落ちるような潜水が、急に止まる。

 明るく照らされた周囲には、力なく沈んでゆく沢山の海賊達がいた。

 ――ここがあの世か。

 ノートンはもう、自分は死んだのだと思った。

 陽光も衰える海の暗がりを切り裂いて、数本の光線がノートンらを捉えていた。

 黒く、巨大な体躯。

 飛び出した二本の細い腕。

 ――なんてことだこれは。

 あの世にもオーシュがいるのか、とノートンは思った。

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