Ep.8: 不思議の国のアウトロー

8.1 「すまねえクック」

 もうモートガルド大陸が見えている。

 今夜には着いてしまう。

 食事の作り置きを済ませ、メルセデスは貨物甲板に降りた。

 手にはランプを持っている。

 ポケットのナイフを確かめ、彼女はクック=ロビンの背後に立つ。

 彼は便所掃除をしていた。

 ブラシを持ち、緩慢な動きで床を磨き上げている。

 機嫌はよいらしい。暫く天候はつ。

 メルセデスはナイフを取り出した。

 後ろから忍び寄ると、メルセデスはナイフを突き立てた。

 便所を|ふさぐ板にだ。

 そのまま便所板を破壊し、いだ板にチョークで「便所修繕中。立ち入らないほうが賢明」と書く。

 それを貨物甲板の入り口に掛けた。

「いやぁ、一昨日の嵐で便所のふたが壊れちまってよ。ひでえ臭いだ。クックと直すから暫く入ってくんな」と、他の海賊らには説明してある。

 そもそも海賊らは便所など使わないのだが。

 戻ったメルセデスは、ナイフを構え、後ろからクック=ロビンに近付いた。


「クック=ロビン、こっちを見な」


 白い巨体がゆっくりと振り返る。

 でっぷりとした上半身、発達した脚は裸足で、腕は枯れ木のよう。

 尖った頭、顔は全体がぐったり崩れていて、表情などは読めない。

 彼は言われたことを理解したのか、それとも単に名を呼ばれたからなのか、メルセデスを暫く眺めて――昏倒こんとうした。


(すまねえクック。もうこうするしか――)


 メルセデスはナイフに自分を映す。


(頭の中を直接覗くしかねえ)


 ――認識術を使って、意識の海にダイヴする。

 息ぎなしの危険な海底探査だ。

 人語を解さないクック=ロビンから情報を引き出すには、彼の見たもの、その記憶に直接飛び込むしかない。

 それにはミラの意識を完全に同化させる必要がある。

 つまり、彼女の体は意識不明となる。

 実際にこれを試すのはミラほどの使い手でも初めてだ。この試みには多くの危険を伴うからだ。

 深層意識世界にあるのは、記憶に基づく心象風景だ。

 そこでは誰もあざむけない。それはこちらにとっても同じことだ。

 一番重要なことは、意識世界は自分だけのものではないことだ。

 共にダイヴする相手と共同で作り上げる世界だ。そこに何があるのかは自分でも予測できない。

 精神がダメージを受ければ、戻れなくなることさえあり得る。

 そうして二度と目覚めなくなった術者を、ミラは数名知っていた。

 ――どいつもこいつも半端モンだった。

 ナイフに映った自分の目を見つめる。

 ――あたいならやれる。

 しかしクック=ロビンにも同じ危険がある。


(巻き込んじまってすまねぇ。おめえも船長に命を拾われた仲間だってのに――)


 そう思って、メルセデスはハッとして頭を振った。


(まただ。何考えてんだあたいは。命を拾われたのはメルセデスだ。あたいじゃねえ。勇者なんかに関わるから)


 これも違うな、とメルセデスはきつく頭を振る。

 確かにクック=ロビンが不幸にも勇者に関わったことが発端だ。メルセデスはその記憶を探しに彼を巻き込むわけだ。

 だが彼女がその指導者の情報を求めるのは、彼女自身と、その仲間のためだ。

 ――とにかく、無事に戻ったらまともな言い訳をさせてくれ。

 ふっ、と彼女の精神は重力を失った。

 宙に浮かんだ彼女の意識は、異形のにごった眼を捉える。

 額を擦り合わせるようにしながら、彼女の意識は、彼の意識になった。



***



 ボルキスはぐったりと疲れて店を出た。


(看板を見て嫌な予感はしたんだ)


『インスマウスで一番の爆笑酒場』

 そう看板にはある。

 酒場などここにしかないのだから一番なのはわかる。

 だがまず酒がない時点で酒場なのか怪しい。


「まさか酢なんか飲まされるとはねぇ」


 ハンスは気丈に振る舞ってはいたが、流石に怒りを通り越して無口になり、以降はずっと目を泳がせていた。


(魚だけに)


 そう思ったが、ボルキスは言わなかった。これ以上部下の士気を下げてはいけないと思ったからだ。

 ボルキスはへらへらしていたため、ウケていると思ったマスターの海賊ジョークが止まらなくなった。


「まぁ、収穫はあったよ。一杯やろうって目論みは外れたけどねぇ」

「その、なんとか島でありますか。自分は、その、途中から、戦況のことを考えておりまして」

「気持ちはわかるけど仕事だからちゃんとやろうよ」


 ハンスのいう戦況とは、モートガルド大陸で起きた小さな民族蜂起ほうきだ。

 帝国の圧政に北部の小民族が蜂起した。それだけならよくあることだったが、鎮圧にディオニス三世が動いたというのだから大事だ。

 北部で動きがあるということは観測されていたが、いかんせん小民族である。

 まさか皇帝ディオニス自ら進軍するというのは予想されていなかった。

 勿論ボルキスも、なぜそんなことになったのかは知らない。

 いずれにせよ、あのディオニスが自らの軍隊を動かしたのなら、蜂起は悲劇的な結末を迎えるだろう。

 どこの国もモートガルドを恐れて態度を明確にしないが、国際的な関心事になっている。


「でもあそこからだと旧ザリアの国境が近いね。もしかするとディオニス王も、ザリア地方に用があるついでかも知れないよ」

「はぁ」

「海軍を編成するって話も、どうやら現実になったみたいだしさ」

「……ミール中隊長殿、それは良い話なのでありますか」

「あーいや、サン=オルギヌアに行くついでに寄ったってだけなら、もしかしたらそんな民族浄化みたいな話にはならないかも知れないよって」

「でありますか」

「……希望的すぎるかな。ディオニスの軍隊に殺されるのは……あれだけはいやだなぁ」


 ディオニスの軍隊は、攻撃魔術のようなスマートな方法を使わない。

 火魔術の爆発力を極限まで高めた内燃機と、驚異的な地魔術の鍛冶技術。

 重戦車だ。

 ただ走るだけで前部の巨大なローラーが、森を原野に、人家を更地にしてしまう。


「ああ厭だ。僕らが心配しても手が出せないよ。それはそうと、まずは逃亡した二人組を追おう」

「二人組は、その島へ何しに行ったのでありますか」

「海賊を頼ったんだろうねぇ。だとしたらもう、海だ。逃げられちゃったよ。困ったなぁ。帰って報告しようか」

「一応、島を捜索しないとまずいのではありませんか」


 それなぁ、とボルキスは口を尖らせた。


「一応ね。そう思ってここへ来たんだけど――」


 インスマウス漁業組合。

 看板にはそうあるが、どうも活気がない。

 念のためドアを叩いてみたが返事がない。


「どうやら留守みたいだ。僕らだけじゃあ、船を出せないこともないけど、さすがに不案内だからねぇ」


 ボルキスはへらへらしてきびすを返そうとした。

 そのとき、ドアが開いた。

 下働きらしき老婆が立っていた。


「なんぞあんたら」


 波で流されてきた古いパパイヤのような老婆は不審そうに言う。

 ボルキスは引き上げるつもりでいたのだが。


「自分たちは民王部調査局の者であります。事件の捜査に、船と船員をお借りできないものかと思いまして」


 優秀な部下だなぁ、とボルキスはため息をく。


「はぁ? 事件たぁなんで。なんでぇ海なんぞ出よる」

「島であります。海賊を追って海へ」

「あぁ? 海賊ぅ? 今頃来て何ゆってんのかね、このお人らは。そげもんとっくにモートガルドに決まっとろうが」


 ――モートガルド。

 それだけはない。それだけは絶対にない。

 今の一触即発のモートガルドに行くなんて、そんな馬鹿はいない。

 しかもここから向かったとしたら、まずサン=オルギヌアだ。

 知らなかったとしても、まず港に入れるわけがない。


「いえ、ご才女。自分たちはまずカナル島に行くのであります」

「あーあー。バカンスな。男二人で無人島でバカンスたぁね、たぎるもんがあるねぇ」


 げへへと異様な笑いを漏らしていた老婆は、急に真顔になった。


「でも無理なもんは無理さね。皇女陛下んお触れが出とぉもん。つい今朝がたよ。船は出せん」

「あぁ~、それは残念。一歩遅かったねぇ。帰ろうか、オルロ君」

「なんじゃやる気ねぇ兄ちゃんだな。そんなっとイイ男逃すんぞ」

「お触れとは、組合にですか」

「んだ。なんぞ実験とかいうてな。たまにあんのよぉ」

「では船をお借りすることは」


 そりゃコレ次第だな、と老婆は右手でカネのマークを作った。

 ――それにしても実験とは、なんだろう。


(いかんいかん、これ以上これに首突っ込んじゃいけない気がする)


 帰ろうよオルロ君~と懇願しながら、ボルキスはまた――ため息を吐いた。

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