平成31年1月8日

「おはようございます!」

 演劇の現場では時刻を問わず「おはよう」と挨拶する。

 最初に現れたのは制作担当の春風紗弥佳であった。

 歳は推定二十五歳前後(俺の半分!)。ヒロインのような名前と容姿を持つ彼女が「制作」という裏方にいることが、劇団【刀】(カタナ)の大きな強みと言える。彼女に向かって「役者やればいいのに」と言うのは演劇をよく知らない人間だけである。

 裏方のほうが大事なのだ。脚本より演出より役者より。

 役者さえいれば発表はできるが興行はできない。

「すみません、お待たせしてしまって」

「いや、別に。まだ時間前だし」

 とは言え、一番乗りが俺とはさすがに拍子抜けした。初回の稽古場として指定された区営集会室の喫煙所で、これじゃやる気満々みたいじゃないか――と脳内で苦笑していたところだった。

「今回も引き受けてくださって本当にありがとうございます」

「ああ、うん」

「中井さんがいてくださって心強いです。よろしくお願いします!」

 もったいないな。春風が制作であることではなく、この劇団にいることが。

 彼女のような、快活で実務能力のある人間が専任の制作についていれば、劇団は飛躍し得る。けれど、中身が優れていなければ届くところはたかが知れている。

「牧は?」

「すみません、それが……ちょっと今、脚本が大詰めのところでして」

「……」

「とりあえず出来ている分だけ印刷してきました。牧は十九時半までには来るそうです」

「了解」

 この世界じゃよくあることだ。稽古初日に脚本を間に合わせようという気があるだけ、まともなほうだと言える。


 それから、開始予定時刻の十八時半までに、ばらばらと役者が集まってきた。総勢十六名。半分以上が見知った顔。

 遅刻する者こそいなかったが、概して「若手が遅い」傾向にあった。

 老害の戯言だろうか。定刻に間に合えば確かに問題はないだろう。けれど、昔は若手が早く来るのは当たり前のことだった。

 老害の戯言だな――と、自己解決する。「昔」が主語の一文にろくなものはない。

 折りたたみテーブルを長四角に組み、着席する。春風が牧の遅れを詫びる。

 無難な自己紹介の後、途中までの脚本が配られる。

 春風が申し訳なさそうに言う。「牧の到着まで、黙読で自由にイメージを膨らませておいてください」

「はーい」と、可もなく不可もないという色の返事が上がる。

 タイトル、『エンド・オブ・グローリー』。火・水・雷・土、四大元素を司る王たちの物語。俺の役は……環境破壊を憂い、大地震を起こして人類を滅ぼそうとする土の王。いわゆるラスボス枠。

 こういう世界観そのものを否定はしない。大人でもゲームはする。

 それにしても、もうすっかりこんな演目も「アリ」になったか。何年か前ならとても考えられなかった。


 ◆ ◆ ◆


「いいのかな、これで」

「え、中井くん、自粛派だったの?」

「いや、そうじゃないんだけど、中途半端だなって」

「どういうこと?」

 東日本大震災直後の自粛ムードは、昭和最後の日のそれとは少し違っていた。

 当時、俺はとある劇団の劇団員だった。四十を超えて「劇団員」。傍目には哀れでも、その劇団は全員三十五を超えていたから、わりと居心地がよかった。

 俺たちは震災のちょうど一ヶ月後に公演を予定していた。

 自粛、すべきか否か?

 娯楽は「必要」なものではない。それは間違いない。ただ、俺たちが公演を中止したところで被災地の助けになるわけではなく、中止して損失を抱えるぐらいなら募金したほうが余程いい。

 ――と、喉元を過ぎ去った今ならいくらでも理屈を言える。けれどあの頃は、被災地を憂う以外は身じろぎもしてはならないという雰囲気が確かにあった。崩御の当日にレンタルビデオ屋が大繁盛した三十年前よりも無言の圧力は強かった。失われた命の数が違うから、当たり前と言えば当たり前だが。

「演劇~ぃ? 今はそれどころじゃないだろ。東北が心配じゃないのかよ?」

 誰もそんなことは言っていないのにそう言われているような気がしたのだろう。うちの劇団の主宰は、さんざん迷った挙句、「東北にエールを送る」というメッセージ性を強引に後付けして、公演を決行した。

「届くのか?」

「え?」

「だからさ、こんな東京の片隅の劇場から《エール》送って、東北に届くのか?」

「……」

「演劇続けるための言い訳にしか聞こえないんだ、正直」

「意味はあると思うよ、私は」

 雪村千智は、剣崎の新しい劇団には加わらず、しばらく行方知れずだった。まさか二十年後にお互いフリーの役者として再会し、同じ劇団に籍を置くことになるとは思いも寄らなかった。

 三十年前よりずっと話しやすかった。かつては近寄りがたいお嬢様だと思っていた。

 言いたいことを腹の中に溜め込むタイプ――似た者同士だということがやがてわかってきた。それで、二人の間では結構腹を割った会話が成立した。

「意味って、何?」

「言葉ではちょっと言いにくいんだけど。東北の人だけじゃなくて、みんな不安なんだし」

「ごめん全然わかんない。被災地へのエールなんじゃないの? 身の回りの人、っつーか自分らの知り合い励まして何になんの?」

「主宰に言いなよ」

「そうなんだけどさ」

 男と女の間柄になりたいと思っていた時期もある。なりたいというか、なれそうな気がしていた。

 けれど結局、俺たちの間には何事も起こらなかった。

「中井くんてさ」

「何?」

「演技もそうだよね。この時はこうだからこういう風に喋るとか、こういう気持ちだからこういう風に動くとか」

「……」

「そういうのだけじゃないんじゃないかな、演技って」

「いや、えーと、何だろう。雪村と話しててこんなに噛み合わないと思ったの初めてだわ」

「……」

「とりあえず、取って付けたように《エール》送るのってどうなのって話をしてたのに、なんで俺の演技のダメ出しになってんのか全然わかんないんだけど」

「だよね。ごめん」

「ごめんじゃなくてさ。説明してよ」

「ごめん」

 話しやすい相手にだけ言いたいことを言って、主宰には本心を隠したまま、俺はその公演を最後に退団した。

《エール》には難癖をつけたくせに、潔く就職して義援金を送ったわけではなく、無意味に一年間沈黙した後にフリーで役者活動を再開したのだから、我ながら呆れる。

 せめて主宰と直接話すべきだった。三十年前から俺は何も成長していない。あの日、剣崎に引っ張り出されて立った舞台では、ひたすら受け身に回って、自発的な即興の台詞はついに一つも言えなかった。


 ◆ ◆ ◆


 配られた台本を読み終えて、顔を上げる。まだ全員が台本に視線を落としていた。

 することがなくなった。イメージを膨らませようにも、結末が見えていないところであれこれ考えるのは蛇足になりかねない。

 隣の席の若い男優は、自分のセリフにマーカーを引きながら読んでいる。

 やめたほうがいい。自分のセリフだけじゃなくて場面ごと流れで覚えたほうがいいぞ――と思うのだが、やはり俺は黙っている。初対面だし。うるさいジジイだと思われなくないし。

「もう読み終わったんスか」俺の視線を感じたのか、彼が言った。

 鼻筋の通ったきれいな顔をしていた。

「ああ、まぁ、慣れてるから」

 実を言えば、半分ほど斜め読みである。裏を返せば、それでおおよそ理解できる程度のことしか書かれていない。

 ――だったら何だよ?

 自分が嫌になる。

 そういう風に思うなら受けなきゃよかっただろ。何様なんだよお前は。

「かっこいいっスね、アシュフォード」と、彼が俺の役を褒める。

「責任重大だわ」と、堅実な答えを返す。

 俺たちの会話が引き金になったのか、少し雰囲気がゆるんだ。

 春風に許可を得て煙草に立つ者が現れる。じゃあ俺も……と、あとに続く。

 自販機で無糖のコーヒーを買い、錆だらけの灰皿を見つめながら、無難な会話を交わす。

 時刻は十九時五分。牧の到着予定まであと二十五分もある。いや、おそらく十九時半には来ないだろう。焦っている時の一時間は短い。

 ヒマだけどまぁもう一度最初から読むか――と考えながら部屋に戻ると、空気が変わっていた。

「だって、八時過ぎになるんじゃ読み合わせもできませんよね?」

 ヒロインを演じる女優の声だった。

 彼女は芸能事務所に所属し、普段はアイドルとして活動している。集客力は全出演者の中で彼女がダントツなはずだ。契約の条件も俺なんかよりはるかに上だろう。

 春風が恐縮しきって対応している。「あの、でも、このあと懇親会もありますし……」

「お酒飲んでる場合じゃなくないですか?」

 女優の声色は決して荒くはない。ただ、自分の主張は通るものと信じきっている波長だった。

 嫌いなタイプだ。お互い様だろうが。

「今日は帰らせてもらいます」

「あの、でも……」

「私も遊びでやってるんじゃないんで」

「みんなそうですよ」

 ん?

 今、「みんなそうですよ」って俺が言ったのか?

 声に出して。

 自分の娘でもおかしくない歳の女の子に、敬語で。

「稽古場がこんな駅から遠い区民集会室で、初日から脚本家が遅刻してきて、しょっぱい仕事だなと思ったかもしれませんけど、待ってやってくださいよ、今日のところは。やることないなら帰りたいってのはみんな一緒ですよ。足並み揃えろって言うより、とにかく待っててやってほしいんです。待ってたってことが大事なんです」

 何を言ってるんだ俺は。

「そりゃ、間に合うように仕事しなかったあいつが悪いです。てか、未完なら未完でとにかく今日は時間通りに来るべきでしたよね。でも、きっと、どうしても今日、完結したものを読ませたかったんだと思うんですよ。あいつ前に言ってたんです、脚本家が脚本配るのは公演の初日みたいなもんだって。役者の反応がすげー気になるって」

 止まらない。

 何だこれ。

「つーか、この本! 今んとこ面白くないですよ! アニメでやれって感じだしアニメでやっても売れないだろうし。この手のことやって二・五次元の舞台に勝てるわけないでしょ、予算が全然違うんだから。とりあえず役者が全員あなたレベルのビジュアルじゃなきゃキツいですよね。おだてててんじゃなくてマジでそう思います。あなたのファンと常連客は観に来るでしょうけどこれが演劇として話題になるとはとても思えないですよ。でも! まだ途中なんで、これ。もしかしたら、ベタベタでペラペラなここまでの展開ひっくり返して、誰もがびっくりするめちゃくちゃ面白いラストになるかもしれないでしょう? あってほしいんですよ、そういうことが」

「ないでしょ」女優が冷たく言い放った。

 ないよな。

 ないだろうな。

 俺もそう思う。

 でも。

「ないならないで、できることをやるだけです。力を貸してください。お願いします」

 深々と頭を下げながら、あの日、事務所を出ていく原の後ろ姿を俺は思い出していた。


 (了)

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この話いつまでするんだよ 森山智仁 @moriyama-tomohito

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