平成31年1月7日
翌日の昼過ぎ、俺は役者仲間の出演作品を観るために、北区にある某小劇場の受付の列に並んでいた。
内容に興味はない。しかし、役者たるもの、知り合いの公演には積極的に足を運ばなければならない。自分が出演する時に観に来てもらうためだ。
この世界は美しい助け合いの精神で成り立っている。客席から演劇関係者を除いたらきっと二割も残らないだろう。
役者たるものその二。鑑賞後は次のようにつぶやく。
「今日は舞台『○○』を観てきました。○○くんの演技に爆笑! 最後はホロリときました」
正直な感想など決して口にしてはいけない。本音を隠せない役者はSNSをやってはいけない。
これは観劇ではない。営業なのだ。
「おつかれーっす」
「ああ、この回だったんだ」
後ろのほうから役者同士らしい会話が聞こえる。
俺は一人、文庫本を読みながら順番を待つ。前の足が進んだら一歩進む。
流れが止まった。
おや、と思って前方を窺うと、受付で何やら揉めている様子だった。
「当日券……」という単語が聞こえてきた。
ああ、なんだ。当日券か。
小劇場の客席はほぼ身内客で埋まるため、当日券の対応に慣れていない受付がしばしばいる。褒められたものではないが珍しくもない。
「じゃあいいです」と言って、男が受付に背を向けた。つまり、こちらを向いた。
満席って告知出てたっけ? という疑問は即座に、
(剣崎さん?)
という驚きに上書きされ、それが声に出そうになるのをすんでのところで飲み込んだ。
素早く目を伏せた。不自然でないように。
剣崎(?)は――俺に気づいたか気づかなかったか、いずれにせよ早足で去っていった。
平成元年、剣崎の劇団に俺は入らなかったが、それだけのことだ。しばらく手伝いは続けていたし、小菅と細川の一件があった時も俺と剣崎の間で確執が起きたわけではなかった。
他人の振りをしたのは、直観だったとしか言いようがない。
剣崎のことが気になって、公演に集中できなかった。意外に悪くない内容だったのでもったいないことをした。
その劇団は主宰も顔見知りだったので、終演後に訊いてみると、事情がわかった。剣崎(推定)は最近、某演劇クチコミサイトを荒らしており、利用者の間では有名人なのだという。ユーザー名は《くろの》。顔写真は秘かにシェアされていた。
本当は「荒らしている」というと語弊がある。彼は確かに低評価をつけまくるのだが、ちゃんと金を払って鑑賞し、批判の根拠も添えている。サイトの規約には抵触していない。
批評は本来、自由である。しかしこの劇団は、彼の入場を拒否した。ブラックリストに載せていたのだ。
「くろのの言うこともわかるんですけど、うちとしては楽しんでくれるお客さんのために芝居やりたいんで」
主宰者の言うことも筋は通っている。素直に楽しんだ客から見れば不愉快なクレーマーでしかない。
「あいつチラシのデザインにもケチつけてきますからね。チラシ見て期待しなかったなら来んなよ、っていう。何か、演劇に恨みでもあるんですかね」
疎遠になった後、剣崎亮がどんな演劇人生を送っていたのか、俺は知らない。検索してもよくわからなかった。彼の劇団はインターネットが普及する前に解散している。
思い返してみると、風貌だけでなく、棘のある声もよく似ていた。
《くろの》はおそらく、剣崎だろう。もしかしたら以前、《黒野◯◯》という芸名で役者をやっていたのかもしれない。現役なら《批評家気取りの役者》として知れ渡っているはずだから、現役でないことは間違いない。
(あの人よりはマシだ)
俺のほうが。
剣崎はもう自分では何も生み出していないくせに、他人を叩いて勝ったような気になっているんだろう。いい歳をして、くだらない。
惰性とは言え、俺はとにもかくにも生み出す側に立っている。
まだマシだ。まだ大丈夫だ。
アパートの狭い湯舟の中で、俺はかなり長い時間そう念じ続けた。
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