救世主という存在について
たどり着いた村は案外近かった。何故先程まで見えなかったのか不思議な程度に近い。
気がつくと見えていた。まるで蜃気楼から現れたの如くだった。
しかし、近いとはいえ怪我をした水鳥の足取りは悪く、着く頃にはすっかり日も暮れ濡れた服が余計に身体を冷やした。
村の外周は二メートル程度の高さの木製の柵で囲われている。同じく、木で作られた門の前には二人の甲冑姿が立っていた。まるでファンタジー世界のモンスターに怯える村そのものだ。
先程のウィルと名乗った自称神様の猫は何も言わず門の前に座ると、甲冑姿の二人は顔を見合わせて門を開いた。
猫は尻尾を立てて進む。
「行くしかないよなぁ」
そうぼやいて、腰に据えた剣を硬く握った。軽かったはずのそれも、十分な重しのように思えた。
◆
家はまるでテントとでもいうべき簡単な物ばかりだ。支柱に布を被せただけ、のように見える。言ってしまえば見窄らしい作りだ。
どの家にも灯りは灯っておらず、まるで誰も居ないかのように静かだ。だが、入口付近で此方を伺っているのが月明かりでちらちらと姿が見える。
正直、気味が悪いとしかいいようがない。ぎょろりと覗く瞳は不審な物を見るものだ。声がヒソヒソと聞こえるのは隠れて見ていることが後ろめたいからだろうか。
一軒だけ、人が前に立っていた。日本人のような顔立ちの中高年の男だ。四十過ぎといったところだろうか。装飾は無くボタンなどもない上から被って紐で締めただけという簡素な服に身を包む若干の無精髭が目立つその男は、こちらを見ると笑顔を見せた。その裏に秘めるものは無さそうだった。
「やっと来たか」
「悪いが風呂と着替えの用意をしてくれ。医者を呼んでくる」
猫は早口にそういう。男は何の疑問も驚きも見せず、
「ん?おおかまわないけどよ。……しっかしひっどい臭いだな。一戦やってきたってのか」
と応えた。
「二人を頼む」
そう言うと猫は何処かへと走っていく。
「よろしくなっと、言ってる場合じゃねえな。お嬢ちゃんの方はまずい」
彼女の傷を見て彼は慌てて家の中へと入った。ついていこうと足を運ぼうとしたが、
「あー、君らは中に入らないでくれ。臭いが酷い」
と止められる。
「え、あ、すみません」
そういえば、さっきの化物と戦った後のままだった。既に鼻が麻痺しているからか何も思わなかったが、他の人にとってはそうではない。ご尤もだ。
「とりあえず消毒だな」
「お願いします」
入り口から見えた中は案外しっかりした住居だ。特に敷居もなく中心に柱がある一部屋の住居だが、ベッドもキッチンもきちんと用意されている。中央付近に備え付けられたランプの灯りだけだが、十分に中の様子が伺えた。
「あー、酒ってアルコールだよな」
「……そうですね」
「じゃあこれで洗えば一応消毒になるか」
などと言いつつ男は瓶を片手に出てくる。
そんなもので大丈夫なのだろうか。とはいえ、こんなところに消毒薬というものがありそうではない。
「ほれ、自分でしな」
そう言って瓶が投げられた。
ラベルなどは一切貼られていないただの瓶だ。中身はワインだろうか。
「ああ、あんまり使うなよ?今じゃ酒もそこそこ貴重だからな」
受け取った酒瓶をそのまま彼女に渡すと、地べたに彼女は座り込み、少し手にとって傷にかけた。
「いたっ……」
痛みに顔を歪めた彼女に大丈夫かと声をかけると、ちょっとしみただけと返ってくる。
その様子を見て満足したのか男は
「風呂は裏にある。沸かしてくるからちょっとまってろ」
と言って家の裏側へ行ってしまった。
傷口を洗い終えた水鳥は、瓶の中をしげしげと見ていた。
「使いすぎてへんかなぁ」
「大丈夫、だと思いたいが」
傷が悪化するほうがより心配だと諭す。そやね。という返事が返ってきた。
それから重い沈黙が流れた。逃げるように空を見上げると星がよく見えた。
人工の灯りが殆ど無いから、空気が汚れていないから、よく見えるのだろう。
知らない星空だ。小学生の頃にプラネタリウムで見たような星座は一切無く、不思議な色をした星々が天上に連なっている。それは不安を感じさせる光だった。ここはまるで知らない場所なのだと、はっきりと告げていた。
深い暗闇が気分までもを埋めていくような錯覚を覚えさせる。
「何処なんやろうなぁここ」
「本当にな……」
いつの間にか柄に手を乗せていた。
彼女は地べたに座ったまま、刀を両膝の上に乗せている。
それが自然とでも言うように。武器に安心を求めているように。
十分も経たない内に男が戻ってきて風呂に入るように言う。
水鳥に先に行かせ、男と二人その場に留まった。
「ああそうだ、自己紹介がまだだったな。石井竜介だ」
「雨城雲雀です」
差し伸べられたのは顔に見合わずがっしりとした手だった。
手を振って汚れている事を見せると、彼はその手を引っ込めた。
「突然違う世界に来て、しかも魔物に襲われたんだよな。大変だったろ」
その言葉に目を丸くした。
「違う世界……?嘘でしょう」
「ああまあそうだな……並行宇宙とかなんかそんな感じだと思えばいい。信じられんかもしれんけどな」
「……今の所信用に足るとは言い難いですね」
「そりゃそうだな……ま、とりあえず生き残ったんだ。万々歳だよ」
「そう……ですね」
諸手を挙げて喜ぶ気力はない。
「ところで、タバコ……なんて持ってそうなガラじゃないよなぁ」
「え、あはい。無いですね」
「真面目そうだもんな。元居た世界から来るって聞いてたから久々に吸えるかと思ったが、まあ仕方ないか」
そう言ってタバコを咥えるフリをした。
「強制的に禁煙させられるってのはたまったもんじゃないよ全く。すぐイライラしてしまう。もう三か四年ぐらい禁煙中だよ」
がっかりしているようにそういうが、おそらく冗談だろうと解る程度の軽さだ。
「そう、ですか」
「しかしまあこんな子どもが呼ばれるなんてな」
「さっきあの猫、ウィルも言ってたんですけど、何なんです?世界を救うって」
「あー、そうか。何もまだ聞いてないのか。だったら、二人揃ってからだ。同じ話を二回するのも面倒だからな」
「わかりました」
「ところであの子って君の彼女?それともお姉さん?」
「友達です」
その手の話は苦手だ。ぶっきらぼうにそう答えてそういう意図を含ませる。
「ふーん。あ、そうだそうだ。どうせなら今の内に元の世界が今どーなってるか教えてくれよ」
「別に良いですけど……」
”元居た世界”の話を、それこそ世俗から政治の事まで色々と聞かれた。
やれ芸能人が結婚しただの、首相がまた変わっただのと他愛もない事ばかりだったが、彼はそれを嬉しそうに懐かしそうに聞いていた。
二十分ほどして、遠くから水鳥の声がした。
「着替えってありますかー?」
「おー、ちょっと待ってろー」
男が返答し、家の中に入ったと思えば直ぐに布の袋を持って出てきた。
「よし。次お前入るわけだし届けてこい」
「……わざとやってるんですかそれ」
「俺は若人の青春ってのが好きなんだよ。それとも俺が持っていっていいのか?」
ニヤニヤと笑みを浮かべる男から袋をもぎ取る。
「俺の服で悪いが、まあ洗濯はしてある。二人分入ってるからお前も使え」
「ありがとうございます」
少し刺々しい言い方になった。
服を持って裏手に行くと、布の端から水鳥の顔が出ていた。
髪は乾ききっておらず濡れていて、早くなった鼓動の音を耳にした。
「中に二人分あるってさ」
あくまで平静を装いながら布袋を渡す。
「ん。ありがとう。直ぐ着るでちょっと待って」
布袋を受け取ると、顔を引っ込めた。
ごそごそと音がして、石井さんと同じ簡素な服装の彼女が出て来る。
少し上気した顔に安堵を覚えた。
「傷は大丈夫?」
「平気平気」
そう言って彼女は傷のある位置を撫でる。
「だが医者には見せたほうがいい。よって連れてきたぞ」
後ろから声がした。その方を振り向くと、猫がローブを纏う四十過ぎぐらいの真面目そうな女性を連れてきていた。
「診察するからとりあえず家の中に入れ」
猫はそう言ってスタスタと歩いていく。
女性もそれについていく。
「じゃあ交代」
そう言って水鳥は家の入り口の方へと向かっていった。
◆
風呂はしっかりとした木造の浴槽があった。
シャンプーのようなものはない。
石鹸も無く、しかし洗う用にと置かれた木綿のタオルらしきものはある。
風呂の構造に対して若干のちぐはぐさを覚えた。
しかし考えても仕方ないと身体をお湯だけで洗い始めた。
ぬるい。
あと中々臭いが取れない。拭い取れない気がしているだけなのかもしれないが。
◆
「さてと。色々と聞きたいことがあるだろうがまずはこちらから話をさせてもらおうか」
風呂から上がって一息ついたところで猫が話をはじめた。
台所には石井さんが立ち、かまどで調理をしている。
その後ろに机が用意されており、木製の簡素な長椅子に座った。
猫は机の上に座り、口を開く。
「まず解っているだろうがこの世界は元々の世界とは別の世界、此方からすればそっちが別の世界なのだがまあその辺は置いておくとして、兎も角異世界という事だが、そこはいいか?」
「ああまあそういう事にしないと話が進まなさそうだからな」
鵜呑みにはまだしない。が、飲み込みかけているといったところだ。
「で、だ。この世界はある危機に瀕している。さっきのアレだな」
先程の腐った犬を思い出す。若干の吐き気がぶり返し、顔をしかめた。
「魔物。そう呼ばれている。簡単に言うと動く死体なわけだが、アレが出るようになって早五年。人間はこの五年だけで十分の一ぐらいにまで人口を減らしている」
「十分の一……」
つばを飲む。
「そうだな。最早防衛設備の整った都市や運良くまだ襲撃されていない村くらいしか残っていない。このままなら一か二年以内に人間は人っ子一人いなくなるだろう。そこで、だ」
猫は前足を此方へ向けた。
「お前達を招いたわけだが」
「いやいやどうしろっていうんだ」
「まあそうだよな。そうだよな……」
猫は後ろ足で首を掻いた。
「救世主、英雄。或いはそうなるべき存在。そういった人物を召喚する儀式がある。古来から、幾度となく行われてきた儀式だ。そして、呼ばれた者は必ず何かしらの痕跡、偉業、奇蹟を残している。今回もまた、同じくこの儀式が行われた。そして、召喚されたのがお前達だったという訳だが」
「まてまて。そんなわけないだろう。俺たちのようなただの学生にそんな大それた事できるわけがないだろ」
慌てて否定する。そんな筈はないと。
「常識的に考えればその通りだ。さっきの戦闘とて運が良かったとしか言いようがない。相手は理性も本能もなくただ一直線に襲うだけの単純な物だから、数も少なかったから、あんな我武者羅な戦い方でもたまたま生き残れた。それは自身でよくわかっている事だろう」
だったら、
「だが、その力が無い、と否定することはできない。さっきも言ったはずだ。そうなるべき存在と。お前達が救世主足る力を秘めている、という可能性を否定できる根拠は無いはずだ」
「それは悪魔の証明だ。無いということを証明はできない」
「うちらはただの学生。仮にその力があったとして、人間が滅びるっていう一年以内にどうにかできるとは到底思えんよ?」
「確かにその通りかもしれん。だがしかしな、そもそもやらざるを得ない状況に立たされているという前提があると理解してもらわんとな」
「どういう事だ」
低い声で問う。
「雲雀。異世界からの召喚にどれだけの準備がかかると思う?召喚が行なえる者がどれだけいると思う?そして、元の世界に帰す準備も同様、どれだけ準備が必要だと思う?」
「脅すつもりか!」
机を叩き、立ち上がった。
「察しが良くて助かる。残念ながら俺達は世界が滅びるまでに他の人間を呼び出すこともできなければ、お前達を帰す事もできん。この世界とお前達は既に運命共同体だということだ」
勝手な話だった。
酷い話だった。
迷惑で理不尽極まりない話だった。
「さあ選ぶがいい。この世界を救って祀り上げられた後のんびり帰るか、この世界でいつ死ぬかもわからないまま毎日平穏無事な日々か過ぎる事を祈り、最後にはあの魔物に蹂躙されて死ぬか。とはいえ答えは明白だな」
ふざけるなよと叫びたかった。あまりにも脅迫的な話だ。怒鳴り散らしてしまいたい程に。
勝手に呼び出しておいて脅すのかと。何故、自分なのだと。何故、彼女も巻き込んだのだと。
轟々と湧き出る熱をなんとか抑え、拳を爪が刺さるほどに握り、
「俺達が、俺達にそんな力があるとはとても思えない。世界を救うなんてできるわけがないだろ」
震える声で言った。
「可能性に関しては、ある、と保証しよう。この未来を司る神であるこの俺がな」
「……そうだ、そういえば神様とか名乗っていたな」
得意気なこの猫を、どうして神と認められよう。傲慢なところは神様に通ずるのかもしれないが。
だとするのなら、疫病神だ。
「まあ信じられないのも無理はないな。どう信じさせるか」
「つっても俺たちが考えるような神様っぽいような事、できないんでしょう?」
調理を終えたのか、石井さんが割り込んできた。
「未来、っていう曖昧な概念の神様が故に」
「石井さんは、この猫を神様だと認めているんですか」
ぶっきらぼうに尋ねる。
「まあ座りな」
目の前にスープらしきものとパンが置かれた。
仕方なく座ると、石井さんはのんきそうな顔で言う。
「この世界は神様ってわりとその辺に居る存在なんだ。目に見えるし話もできる。で、それぞれが何かしらの概念を司っていてその力を発揮できる。例えば水の神様は王都の中心でカエルの姿で清潔な水を供給し続けているし、火の神様は妖精の姿で鍛冶工房の至る所に出現しては火力の調整に勤しんでいる。この世界の神様っていうのは謂わば精霊とか妖精さんみたいなもんだな」
「この猫も、同様ということですか」
「そうなるな。他にも犬とか兎とか、或いは道具やら武器とかに宿ってる事もある。まあ喋るなんとかってのは大体神様だと思えばいい」
ここに居るのは喋る猫。
「で、可能性の話に戻るとしようか」
正直納得はいっていない。が、猫は再び話し始めた。
「コインを投げるとする。表が裏が当然出るわけだが」
「それが当てられると?」
なら未来の神様だろう。百発百中当てられるなら。
「いや、そうじゃない。俺はコインを投げると、その結果表か裏が出る、ということが解る」
「……コインを投げればどちらかが出るなんて誰だって解るだろう」
呆れた調子で言う。
「あー、説明が若干足りなかったな。例えば、細工をしてそのコインが裏しか出ないものだったとしよう。投げるとどうなる?」
「当然裏しか出ないな」
「だが、その細工を知らずにそのコインを投げたとしよう」
「当然、表か裏のどちらかが出ると思って投げる……」
「が、俺はその細工をされていることを知らなくても裏しかでないと判るわけだ。同様にお前達が世界を救う可能性が全くないというのなら、お前達が世界を救う旅に出たとしても裏しか出ないと判ってしまう」
「表が出ることもある、と?」
「どれぐらいの人間が助かるのか、何かを犠牲にするのか。どういった力を持って、どんな方法で世界を救うのか。そういったことはこれっぽっちも示せない。だが、世界を救える。その可能性は確実にあるとだけは保証できる」
疑いしか持てない話だった。
何も解らないのに、それが成せると信じられている。
「故に、世界を救う気があるのならこの世界の全ての国家をあげて協力させよう。だが、臆するというのなら、連れてきた責任としてまだ無事な国の粋をあげ、可能な限り自由で豊かな生活を最後の日まで送れるよう努力しよう。まあどの国もロクな国力も残ってないがな」
だが、目の前に迫る選択肢はこの二つだけだ。
仮にこれらを全て嘘だと断じても、その後どうするのかという事になる。
路頭に迷った挙句、あの化物に蹂躙されて終わるというのなら。まだマシな選択肢を選ぶほうが良い。
ただ、
「なら、俺は行く。だが、水鳥はそちらで保護してくれ」
全員の視線が集まったのを感じた。
「それなら満足だろう」
水鳥には反対されるだろう。だから水鳥の方を向いた。
「残念ながら、それだと裏しか出ない」
だが、その前に猫に反対された。
はっと猫を見る。猫はまん丸な瞳をして、その目はまるで世界を写し取っているかのように宙を向いていた。
「二人共だ。二人共が必要になる」
「……ああもう!くそっ」
左手で机を叩いた。スープの水面が揺れた。
「今この場で決める必要も無いだろう。せっかくの飯が冷める」
石井さんはそう言ってパンに手をつける。
「早めにしないと何もかもが手遅れになるぞ」
急かすように猫は言う。
「だとしても、だ。どちらを選んで出立するにせよ、それは明日だろ」
猫は納得したようにうなづく。
「確かにそうだ。だが、可能な限り早めに決めてもらいたい。今こうしている間にも、無辜の命が魔物に奪われている」
石井さんはシッシとまるで普通の猫を払うような動作をした。
ウィルはそれに大人しく従った。家から出ていく。
それを見届けると、頭をポリポリとかいた。
「悪いな。お前さんらは混乱と困惑で沢山だろうが、ウィルもウィルで必死なんだ。信仰を拠り所にする神様だ。人間を守ることは自分の存在を守ることでもあるからな」
「いえ……」
それ以上、何も言えなかった。
◆
暫く沈黙が続いた。食事をする音だけが残っていた。
まとまらない考えが泡のように浮かんでは闇に飲まれていく。
そんなことできるはずがない。
そうだ。これは自分に都合のいい夢なんじゃないのか。幻覚でも見ているんじゃないのか。こういう世界に行きたいと思っていたから、こんな幻想に溺れるんじゃないか。
だが、味は確かに感じるし、口の中を軽く噛めば痛みを覚え、手を見れば指は五本。それが紛れもない現実なのだと言うことを確認させる。
酷く冷静な脳みそが、ウィルの言う使命を重圧にして肺を潰し、ため息を漏らさせる。
気不味さを覚えている中、口を開いたのは石井さんだった。
「俺がこの世界に来たのは大体十年前だったな。この世界はどうも他の世界と繋がりやすいらしくて、俺は君らのように呼ばれたんじゃなく偶然にも転がり落ちてきたっていったところだ。当時は大陸中を巻き込んだ戦争の真っ最中で酷いものだったよ」
そう言って彼は宙を見る。
「俺も当然巻き込まれてな。で、必死に戦って、戦って、戦った。で、酷い怪我を負って前線を離れる事になって以来、此処に住んでるってわけだ。後遺症で、未だに足が動かねえときがある」
「戦った、んですか」
つばを飲み込み言う。戦争で戦った。……それは、人を、殺めたという事だ。
「それなりに戦う才はあったらしくてな。それまで槍なんて握ったこともなかったし、銃とかあればとどれだけ思ったことか」
何と返せば良いのかわからなかった。戦争も知らなければ、殺人事件に関わったこともない。
殺す感覚を、彼は思い出すように手を握って開けた。
「あーいや、単に暗い話をしたいんじゃないんだよ。経緯は確かに暗かったが、俺はこの世界を割りかし気に入ってるんだ。よくあるファンタジー小説ってやつの世界だな。王都なんてマジで凄いぜ?大っきな城塞なんだよ。元の世界じゃ絶対役に立たねえ都を囲む木と煉瓦の城壁。中心に馬鹿でっけえ王宮があってな、そりゃもう見事なものだよ。城下町はそりゃもう繁華街さ。野菜から土産物まで出店が並んで食いもん屋の旨そうな匂いと人間の汗臭さが入り混じった喧騒の街だった。どこもかしこもうじゃうじゃと人が居てな。それこそ餌に群がるアリの大群ってところだ。王都にゃ神殿もあったから魔物が出るまでは石を投げりゃ当たる五割は巡礼者だ。そんな中に鎧を着た騎士団が巡回してるし、顔つきの悪い傭兵団が酒場に入り浸っていて、時折喧嘩にまで発展してたよ。ああそう、ドラゴンなんてゲームのCMでしか見たことなかったってのに騎士の友人だとか商人の護衛だとかで度々頭ん上を掻っ切って行ったもんだ」
彼の語る世界は本当にファンタジーの世界のようだった。おそらく、綺羅びやかだったのだろう。その声のトーンは楽しげで、童心から話しているような気がした。
だけども、次の言葉を紡ぐ前にその表情に陰りが見えた。
「――だがな、魔物がそれを全部台無しにしやがった。何もかもを滅茶苦茶にしやがった。せっかく俺達が俺達で手に入れた平和も、決して楽じゃなくても楽しい毎日も、一端の人間に与えられたささやかな幸せも。……あれは本当に人類を滅亡させるだろう」
疑うように眉を顰めた。
「一度、戦いました。俺たちのような素人でも倒せるようなアレが、どうしてそこまで言われるのかがわかりません」
「まあ、単に一回戦っただけじゃな。魔物の何が恐ろしいのかは分かりづらいだろう。端的に言えば無尽蔵な戦力、昼夜問わず動ける活動力。そして腐った体液を撒き散らし辺りを汚染する間接的な殺傷力だ。どういうことかわかるか?」
指を一本、二本、三本と立てて言う。
「疫病の蔓延、ですか」
「それだけじゃねえ。作物は駄目になる。そうなると餓死も増えるし、病が広がると共に防衛力は当然落ちる。防衛力が落ちると当然死者も増える。ただでさえ減少一方だったのが戦いで更に死ぬ。基本的にまともに兵士をやれるのは若い奴だけだがその若い奴が子供を産む。子供を産める世代が減少すれば当然将来の防衛力の低下も目に見えている。とまあ、どこまでいっても悲惨なデフレスパイラルみたいなものだな」
いつの間にやら、彼は酒瓶を片手にしていた。
「飲むか?」
「未成年なので」
「この世界じゃ未成年が酒を飲むなって法律はねえんだがな」
そう言って彼はワインをラッパ飲みする。顔が赤くなりはじめていた。
「正直言えば、俺だって子供が世界を救えるなんて到底思っていない。お前達と同意見だな。可能なら王都に保護してもらうのが一番だろう」
そう言うと、彼は酒瓶を投げ出すように台所へ転がした。
「だけどな、前例があるんだよ。……俺が参加した戦争。その鍵というか決め手というか英雄は、当時たったの十五歳の学生だった。同じく召喚された英雄さ。十年前に既にそいつによってこの国が救われている。となると、だ。今度は世界を救っても良いんじゃねえかなと、そうも思う」
そいつはたまたまそうだったのだろう。
その言葉を、飲み込んだ。
それは既に否定された考えだ。
「今回も、ウィルが可能性があると言う以上、そうであると確信もできる。思えなくても確信しているんだ。お前達は、世界を救える。ただまあ、……戦うのは怖えよなぁ」
また宙を見ていた。
過去を見ていたのだろう。軽く口を開け、ふっと息を吹き出した。
「まあ別に途中で挫折しても構わない。手遅れになる前に下りてくれて構わない。だが、そうなれば滅びの道が待っているとだけ覚えておいてくれ。おっさんの話は以上だ」
そう言うと空になった食器を片付け、外に出るよう手招きした。
「商人が使う宿がある。今日はそこに泊まってくれ」
◆
簡素な木製のベッドに転がった。
視線の先には、水鳥の寝るベッドが見える。
月明かりが隙間から差し込む一棟の宿。
想像していた宿とは違い、単なる普段は使われていない家のようだ。
中は木材に布を被せただけのようなベットと棚。埃は被っていないが室内は埃の臭いが漂っている。
ベッドの寝心地は最悪だ。床に寝ているのとそう変わりはしないだろう。硬い寝床は身体が休まる事は無く、翌朝には痛みを覚えながら目を覚ますだろう。軽く叩けば扉をノックしたかのような音がした。
「寝れへんの?」
水鳥が顔を見せるように横たえた体躯を転がした。
はらりと髪が流れた。
隙間から覗く月明かりが彼女との間を照らす。
綺麗だった。そこには焦りや焦燥は無く、布団から覗く彼女の不思議そうな表情に、その揺れない水面に、どうしてそうも普段どおりなの様子で居られるのだろうと疑念が湧く。だが、それはまるで詰問のような気がして、到底聞けなかった。
「悪い。起こしたか?あんまりベットが硬いからつい」
だから、普段の調子で話す。
「ううん。ええよ」
クスッと彼女は笑う。
「いつも机に突っ伏して寝てるのに」
「授業中は日光が気持ち良かったり、子守唄が聴こえるからなぁ」
今は夜で若干寒いぐらいだ。聞こえてくるのは虫の音と彼女の吐息。
その上、不安でたまらない心境が余計なことばかりを脳内に巡らせ睡眠を妨げる。
「なぁ雲雀。さっきの話やけど」
打って変わったかのように、彼女の表情は真剣なものになっていた。いつものほわほわとした様子ではなく、鋭く刻み込むような眼差しだった。
だから、真剣に向き合った。
「うち、雲雀に置いてかれたらその方が嫌やでね」
「……俺一人で済むのなら、水鳥を危険に晒さなくて済むからと思ったんだ」
「一人、右も左もわからんとこに残されて、雲雀の帰りを待つなんて、できると思う?」
「できればそうして欲しかったんだがな」
だがしかし、それは否定された。当人ではなく、あの猫に。
「もし置いてかれてたら、きっと何とかして追いかけて、雲雀がピンチになったとこへ登場する」
「あの漫画だな」
また彼女は笑顔に戻った。
「それになぁ、雲雀。こういうの、憧れた事あらへん?」
憧れが無いかと言われれば嘘になる。
非日常、特別な力、使命。敵、武具、宝物。
憧れがあったからこそ、漫画を読んでいた。格好良いと思ったから、主人公達が好きだった。正義を伴っていたから、物語が好きだった。
誰しも思った事があるだろう。空想の物語の主人公になりたいと。
「そりゃ想像したことはある」
「やろ?うちもやねん」
そう言うと彼女は伸びをしてみせた。
「うちもなー、こういう別世界で旅とかして生活するのってなんか面白いやろなーって」
「だけど、それが現実になったら、危険と隣り合わせで、苦難しかないだろうさ」
「雲雀とやったら大丈夫」
「どうして言い切れるんだ」
「雲雀は責任感強いから、きっとうちが危なくなったら守ってくれるし、うちも雲雀を守る。だから大丈夫」
笑顔で、そう言い切った。その笑顔に答えを返せなかった。
さっきの戦闘だって、自分の事で一杯だったというのに。彼女の信頼に、応えられると、自分を信じる事は出来ない。
「大丈夫。さっきは雲雀が危なかっただけ。今度はうちを守ってくれるって信じとるから」
表情に出ていたのか。そう言って、彼女は顔を天井へ向けた。
「うちもまだ、世界を救うなんてできるとは思っとらへんよ。でも、何もせんと死ぬよりずっと、ええと思う。やから、一緒に頑張ろ」
「……そう、だな」
まだ気持ちは後ろ向きだ。
どうあがいたって、こんな勝手な、理不尽な事に巻き込まれて、憤らない訳がない。
だが、どうしようもない。起きてしまった以上、こうなってしまった以上、そうせざるを得ない状況に追い込まれたのなら。
耳を澄ませば静かな寝息が聞こえてくる。とりあえず、寝ないとだ。
◆
「悪いな、こんだけしか用意できなくて」
石井さんはぽりぽりと頭を掻いた。
「いえ、ありがとうございます」
翌朝起きた時にはもう準備は整っていた。おそらく旅立つものだと考えていたのだろう。
まあ、あの二択ならそうする他無い。
「この村だって生きるので必死だからな。護衛役すらつけられないのは本当にすまん」
石井さんは頭を下げた。
「解ってますって。顔を上げてください」
「一人戦力がかければその分村が滅びるのが早くなる。ただ、世界を救える確率が上がる。それが解っていても、目先の利益を取るわけだ」
「ウィル」
咎めるように呼ぶ。そんなことを言う必要はない。
「彼等を責めているわけじゃない。仕方ない事だと理解している」
「なら言わなくても良いだろう」
猫は不機嫌そうだった。
「どうせ、国家を上げて云々言ってた割に、こんだけしか用意できないっていうんだからカッコがつかないと思ってるんでしょう?」
石井さんが茶化すように言う。
「黙って準備を急げ」
猫はますます不機嫌になった。
用意されたのは身体の要所を守るレザー製の防具。バックパックには食料や水筒、換えの衣類なども少量入っていながらかなり軽い。グローブをぐっと嵌めマントを翻せば、いつかどこかで夢見た冒険者の姿だった。少しだけ、今からに期待を覚えた。
銀翼の世界の果てで雨に濡れ Rion @rion16
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