銀翼の世界の果てで雨に濡れ
Rion
第一部・召喚 第一章 何もかものプロローグ
物語の主人公に憧れていた。
例えば、交通事故。
例えば、落とし物。
例えば、特殊な力。
日常に退屈した時、憧れる情景は漫画や小説だった。
ある日降って湧いた努力も無しに得た力で他人を救う英雄の想像は、蠱惑的なほどに甘い夢物語だ。
だが、それが本当に現実に降り掛かった時、幸せだと思えるのだろうか。
◆
目覚まし代わりとでも言わんばかりの音量でキンコンカンコンというチャイムがなった。
ふわふわとした頭をゆっくり回転させ始める。確かこれで放課後のハズだ。時計を確認すると規定の時間が過ぎたことを指し示していた。夢を見ていた気がする。内容は思い出せない。
「きりーつ」
日直の伸びた声にあわせ、先生に形式的な挨拶をして。
儀礼的に広げていた教科書やノートを片付け始める。
夏前の日差しはやたらと暑い。じわっとシャツが汗ばんでいて、動きに合わせて入った風がひんやりと体から熱を奪っていく感覚を覚える。
空は晴れ。気持ちの良い青が広がる。
しかし、外に出れば湿気で項垂れることだろう。
ぼーっと空を見た。なんとなくそうしたかった。
ガラスに薄っすらと反射して写った顔は間抜けな顔だった。
童顔で背も高くはない。知らない人間が見れば子供が空を眺めている姿そのものだろう。
そういえば、あの漫画の発売日だっけ。そんな事を思い出した。
その漫画はファンタジーな冒険物だ。
そこに描かれた登場人物達は、潔く、しかして己の目的に貪欲で、貫徹できる格好いい人物ばかりだった。
そうとなれば、急がなければ。
「おーい、雨城ー」
しかし、先生の今から呼び止めようという声が聞こえた。
「じゃ、先生、失礼します」
ひょいと軽い鞄を手に取り、すかさず走って逃げる。
校舎を出てしまえば勝ちだ。
学校から出る生徒の大半は駅がある方角へと向かう。
だが、その正反対へと歩き出した。
夏前とはいえ、既に日中は半袖でも暑い。
アスファルトの熱が空気を揺らす程度には町に熱がこもっている。
けだるさに、少しだけめまいを覚えた。髪が余計に熱を吸収して暑さを倍増させる。
目的地である商店街は直ぐ近くだ。以前は駅から続くこの通りを中心に広く栄えていたが、今はその殆どが居酒屋に成っているかシャッターが下りている。昼間は寂れていて、夜は半分歓楽街の様相を呈するといっていい。
幾つかの老舗だけが例外だった。
おばちゃん御用達の謎センスな服屋、いつもお世話になっている学生カットの理容室、埃を被ったプラモデルが山積みされた玩具屋。冷房があまり効かない喫茶店。
そして、狭い本屋。
この辺りで知り合いに会うことは稀だ。
学生には最近開発が進み増設された駅地下が人気である。だが、人が多く息苦しく狭苦しいのであまり好きではない。本屋もこじんまりとしたチェーン店であり、まるでゆっくりできる場所ではなく目的の本を買い、すぐに立ち去るという本屋というよりコンビニか何かのような場所だ。現代ではそれが好まれるのだろう。
だからこそ、こっちで友人と出会うのは、自分が好きな物を選んでくれているという驚きと嬉しさがある。
「あ、雲雀」
腰まである長髪を後ろで一つに束ねた少女が店から出てきた。
少し生真面目そうな顔立ちとは裏腹に、その足取りは軽やかでいかにも嬉しいことがあったような素振りだ。
「ん。水鳥も買いに来たの?」
「うん。うちは単行本派やで、楽しみにしててん」
若干の訛った口調。彼女もまた同じ漫画を買いに来ていたらしい。既に手には高木本屋の印鑑が押された茶封筒があった。
「そっか。今回も面白いから期待して読むが良い」
そうまるで自らの手柄とでもいうように言うと、
「そのつもり」
と彼女ははにかみながら応えた。少しだけその仕草に気恥ずかしさを覚えてそそくさと店内へと入る。
おじいさんの店長に軽く会釈してから目的の漫画を探すと直ぐに見つかった。数冊程平積みになっていた。
大した数は入っていない。この辺りで読んでいる人間は少ないのだろう。
全国的に見れば割りと人気作のはずなのだが。と少し落胆も覚える。
加えて周囲を一周見渡すが、今日は目ぼしい本は入ってきていないようで、そのままカウンターまで辿り着いた。
「雨城君だったな」
少し考えてからおじいさんが名前を言ってくれる。もう八十は過ぎているであろうその人が若輩者の名前を覚えていてくれるのは嬉しい。
「しばらくぶりですね、店長。これ、お願いします」
「おお、この漫画か。さっきもお前さんの友達の女の子が買っていったぞ。確か……水鳥ちゃんだったか。下の名前が思い出せん」
「和花奈さんですね」
「そうそう。和花奈ちゃんだったな。二人共よう来てくれて嬉しいなぁ。最近は駅地下のに客を取られてな」
「僕はこっちの方が好きですから」
「そう言うてくれると助かるよ。ほれ八百三十七円」
お金を払うと、丁寧に茶封筒に入れてくれる。
「来週あたりどさっとハードカバーの本が入荷するだろうからよろしくな」
まるでニヤリとしていると表現するべきような表情で店長が言う事に少し心が踊りつつ、
「お小遣いの交渉次第ですね」
と切り替えした。
「検討を祈っとるぞ」
そう言ってグーのサインをして送り出してくれる。
封筒を鞄にしまって外へ。落ち着きを意識してゆっくり歩いてはみるが、おそらく足取りは軽やかにみえただろう。
「あれ、待っててくれたのか」
外には手に茶封筒を持ったままの彼女。余程楽しみにしていたのだろうか、その姿がそのままで外に待機していた。だがそれならば何故ここに立っているのか。
「せっかくやし、ひまわり行かへん?」
その誘いを断る理由は無い。
「おっけおっけ」
高揚を覚え、紅潮していないかを心配しつつ彼女の横を黙って歩いて一分。
冷房のあまり効かない喫茶店、ひまわりは開店作業中の居酒屋に間口の狭いビルの中に入っている。その昔、立地面積ではなく道路に面した長さで税金が決められていたことを由来とする、いわゆるうなぎの寝床だ。
店内に入れば多少は暑さが軽減された気もする。うちわで扇げばそれなりに涼しい。
いつもどおり店内は少し薄暗く、十卓あるテーブルはガラガラだ。
椅子や机はアンティーク調で、雰囲気は悪く無い。
若干暗めの証明とゴッホのひまわりが飾られた壁が少しばかり憂鬱な雰囲気を漂わせる。流れている音楽は聞き感触のいいジャズだ。題目は詳しくないのでわからないが、ゆったりとした空気を作っている。ここでは同じ学校の生徒もたまに見るが、基本的に居るのは外回りの途中のサラリーマンか、原稿用紙を広げた作家さんか、少数派メーカーのパソコンをブラックコーヒー片手に大きな顔で広げている大学生か。通の人間か、一見さんかしか使わない。この喫茶店は少しだけ大人びれるお気に入りの場所の一つだ。
店内の奥の一席が定位置であり、他に誰かが座っていることは少ない。
何度か一緒に来ているからか、彼女はその場所へと自然と向かった。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
顔なじみである大学生の女性店員が注文を取りに来る。いかにも利発そうな顔立ちでキリッとした目元が特徴だ。
「今日のケーキは?」
「今日はいちごのショートケーキです」
「じゃあそれで。飲み物はキーマンでストレート。水鳥は?」
「うちもそれで。あ、飲み物はウバのミルクティーでお願いします」
注文を控えた店員さんがいなくなるや否や、彼女は茶封筒の封を開けた。慌てた様子に少し笑いを隠せず、誤魔化すために同じように急いで漫画を取り出し、まずは表紙の裏や最後の方についているおまけを見た。
「そっから読むん?」
不思議そうな顔で覗き込まれた。笑ったことには気づかれていないようだ。
「一度掲載誌の方で読んでるからな」
「あーそうや、雲雀は誌面の方で読んでるんやった」
そう言って彼女の目線はまた漫画に戻る。
十分程そのまま静かな時間が流れた。
じきに配膳しにきた店員さんに軽く会釈したかと思えば、また彼女は並べられたケーキセットも程々に漫画に没頭する。
紅茶を手にとり、読みふける彼女をたまに見ながら、ゆっくりと漫画に目を通す。
彼女はたまに思い出したかのようにぬるくなった紅茶に口をつけ、滑らかないちごムースの挟まったケーキを頬張り、また本に戻る。
自分が読み終えてもまだ彼女はそうやって読んでいて、少しだけ時間を持て余してしまい、彼女を観察する。
一言で言うならば窓辺の令嬢、といったところだ。そう断定できる。
容姿を端的に表現するのならば、可愛いというよりも綺麗という形容詞だろう。
手に持つ本が夏目か太宰ででもあれば、そのまま写真展にでも応募して最優秀賞を飾る事間違いない。そういうタイプだ。彼女は写真を恥ずかしがるが。
勉強はできる。正直同じ高校に居ることが不思議なぐらいだ。
運動は苦手。身体を動かすことはあまり好きではないらしい。
生真面目な文学少女。しっくりくる表現だ。
だが、話してみれば普段はのほほんとしていて、見ていてなんとなく和む存在だ。いつも笑みを浮かべ、楽しそうにしている。困ったことがあれば眉をハの字にして苦笑いし、嬉しい時は破顔して跳ねるように伝えてくれる。それがたまらなく愛らしいものだと気づくのには彼女と友人になる他はない。普通にしている彼女は澄ました優等生だ。
そんな彼女がこの漫画を好きだとと知り、意外だと思った。男子向け故か血や多少の性的描写がある。
だから、少し堅苦しいような、それでいてほわほわと浮いたようなイメージのある彼女にそぐわなかった。
聞く音楽も、意外な事が多かった。彼女の性格通りの、可愛らしいオルゴールの曲や、明るいポップスを好む。が、その上にハードロックと言うかメタルというかといったような九十年代ヴィジュアル系を聞いていたりする。洋楽はそこまででもないのが残念だと思うところだ。少し話が合わない。
そんな不思議な子だった。
名字の通り、鳥のような。自由奔放で、気がつけば何処かに行ってしまいそうな。
それでいながら、名前の通り、周りのことを気にせずにその場で咲く花のような少女だ。見つけないとその魅力の一端にすら気づかないかもしれない。
そうぼーっと考えながら見ていると、目が合った。
互いに少し照れ笑いして、ケーキに手を付ける。
「今日のは当たりやったね」
彼女はケーキをフォークで突く。ちょっと嬉しそうな彼女に反応するようにケーキが少し揺れた。
「たまに凄いのあるからなぁここ」
「なんやっけ、海鮮ミルフィーユ?」
「思い出させないでくれ……」
ぐええ、と苦しむような顔をとった。
それは普通のミルフィーユの間にいくらやマグロが海の生クリームこと雲丹と一緒に挟まり、極めつけに上にはサーモンの切り身が載せられていた、一言で言えば酷い物体だった。キッシュだとか、そういったちゃんと魚に合うような物をつかえばあるいはと思う。
だが、これはただの甘いパイ生地だ。普通に菓子として使うパイ生地だった。
二口ぐらいはなんとかしたが、完食は到底できず。
店長が先程の店員さんに残したら殺すと言わんばかりの凄い笑顔をしながら見張っている中で頑張って処理していたが、口に運ぼうとする度にまるでこの世の終わりとでも言わんばかりの死にそうな顔になっていたのを忘れはしない。
自業自得もいいところである。
「あれは強烈だった……内容を聞かずにいつも通り今日のケーキセットなんてカッコつけて一言で注文したのが間違いだった」
「店員さん、引きつった笑顔で笑って注文受けてたもんなぁ」
「教えてくれればいいのにな。甘さと魚の油で死ぬかと思った」
「あんときの雲雀の顔も忘れられへんね」
互いに笑う。そうしてまた、ケーキに手を付ける。
彼女のめくったページを見ると、随分と分厚くなっていた。
主人公がピンチになったところへ離れ離れになっていた仲間がタイミングよく登場して反撃開始するシーンあたりだろう。
そろそろその巻は終わりだ。
「俺の事は気にせず続き読んで」
気の抜けた返事が返ってきたので、冷たくなった紅茶を口にした。
時間が経ち表れた少しの渋みが喉の奥の方を刺激する。
それから十分程、彼女の表情がころころ変わる様を眺め、その後少しだけ感想を興奮を抑えるよう小さい声で言い合ってから、店を後にした。
外に出れば、空は赤色になっていた。
彼女の横顔を夕日が染める。
凛とした顔立ちが映え、いつもの丸い雰囲気とはまるで別人のようにと思うほどだった。
そこにあるのは、完成された美しさだ。
哀愁と郷愁を混ぜたような、過去に吸い込まれるような感覚。
黄昏、斜陽、傾倒。破壊。
その先に何を見ているのだろうか。何を感じているのだろうか。
だけども、直ぐに柔和な笑顔になった。
「じゃあ、帰るね」
「駅まで送るよ」
家は商店街をそのまま言った奥。だが彼女は電車通学だ。
「家の方向反対ちゃうん?」
「細かい事はいいんだよ」
駅の方へと歩き出す。
遅れて、とてとてという擬音が似合う姿で追いかけてくる。
隣に並んで、そうして笑った。
良い日だった。楽しい日だった。
そう思っていた。
だが、不意に、前方から風が吹いた。
二人の間を銀色に光る羽がひらりと一枚、通り抜けた。
同時にその羽根に目を奪われ、一緒に目線で追った先にあったのは、闇だった。
「ッ――!」
それが何かは解らない。だけど、それが危険な何かであろうと確信する。
冷や汗が噴き出た。すぐさまに反転し、彼女の腕を掴んで、走りだした。いや、走ろうとした。
だがしかし、足が前に進むことはなかった。
圧倒的なまでの暴風。一瞬にしてそれは始まった。前から押さえつけられているのではない。後ろから引っ張られている。
足を前に出そうとすればガラスの壁にぶつかるかのごとく動くことすら叶わない。
もがこうとすれば足を引っ張られるように掬われるだろうというのは考えるまでもなかった。
銀の風が吹き荒れる。どこから現れたか解らない銀の羽が視界いっぱいに渦巻いていた。
恐らく、最初の一迅の時点で最早手遅れだったのだろう。
不思議なのは銀色の羽がまるでそこに何もないかのように身体をすり抜けて黒へと吸い込まれていくことだ。痛みも、何も無い。まるで幻影、ホログラムだ。
風だけは、ここに実在している。
後ろから引っ張り、前から押し返される。
なんとかして一歩一歩、足を運ぶ。
だが、視界の大半は銀色の羽がひたすら流れていくばかりで、果たして進めているのかを確認する事も出来ない。
暴風が音を潰す。頑張れという叫びも何もかもが風の音に紛れてしまう。
不意に、腕が急激に重くなった。
その力に耐えようと反転してみれば、既に彼女の下半身が黒い球体に飲み込まれていた。黒い球体は徐々に大きさを増している。
身体は風に押し込まれつつある。
「待ってろ!今引き釣り出すから!」
叫んだ。声が届いたのかは定かではない。
両腕で彼女の腕を掴もうとする。だが、彼女は掴まれていない方の腕で、こちらの手を引き剥がそうとした。
「おい!」
掴もうと伸ばしていた片手で離れようとするその手を掴み、腕を引き寄せるように彼女へと近づいた。
水鳥が何かを言っている。多分、「離して」と言っているんだろう。そんな、今まで誰に見せたことも無いような泣きそうな顔で。
そこで気がつく。
半身が飲み込まれているのに、彼女の力は衰えず、痛みがあるような素振りもない。
それは中に入ってしまっても問題はない、ということだろうか。
だが、それ以上に考える時間的な余裕は無かった。
引きずり出そうとする手を振りほどこうと暴れる彼女の腕を掴み続けるのも限界に近い。
ならば、さっき思いついた可能性に賭けるしかない。
踏ん張るのを止めた。
彼女に抱きつくようにして、球体へと飛び込んだ。
一切球体に感触はなかった。表面を通過しても何も感じない。中と外で温度だけが違っていた。少しひんやりとしている。
ただ、暗闇の中に居るという事だけは解った。
不思議と自分の身体と彼女の姿だけがあって、他には何も無い。
浮遊感があった。どこかへ流されているという感覚もあった。
最後には、光が見えた。
◆
草の香りがした。
頭に手を添えられている。
誰かに膝枕されているようだった。
薄めを開けると、その先には緑が広がっている。
心地よい風が吹いている。小さい頃、これぐらいの気温の時は外でお昼寝したりしたっけか。
誰かが楽しげなメロディを鼻歌に乗せている。
このまま、このぬるさに浸っていたい。それと同時に疑問が燃料となって頭を回転させ始めた。
誘惑を振り切って地面に手をつき、草の感触を覚えながら上半身を起こす。
「大丈夫?」
水鳥が鼻歌を止め、不安そうな顔をした。
「えっと……何処だ此処」
「何処やろう……」
お互いに不安な表情を浮かべていた。
座り直して見回すも、辺りは草原でしかない。
少し離れたところに草が禿げた道のようなものも見える。
「確か、黒い玉に飲まれたんだよな」
確認するようにそう言うと彼女は不安そうな表情から一転、授業中にみせるような真面目な表情になる。
「なんやったんやろう、あれ」
「わからない。ブラックホール?」
「あんなとこにブラックホールおったらご近所さんみんな無くなっとらん?」
「まあ確かにそうだな。いやそもそもそうだったら今生きてないよな」
手を身体の至る所に当てる。感触は確かだ。怪我も無い。
服は制服のままだ。鞄が近くに置いてある。
ポケットから携帯を取り出すが、圏外の表示。
「駄目だ」
酷く落胆した声が出た。
隣では水鳥が雲雀のもかーと言いながら項垂れたかと思うとすぐに顔を上げた。
「今何時やった?」
「ん?……二十時だな。ひまわりを出たのが十八時過ぎだから、二時間経ったぐらいか」
「どうみてもまだお昼に見えるけど……」
彼女の言うとおり、どう見ても夜の空ではない。少なくとも昼過ぎぐらいだろう。
「とりあえず、人の居るところを探そう」
「そやね」
立ち上がった後にはひざ掛けが敷かれていた。
「良かったのかそれ地面に敷いてて」
「ひざ掛け?大丈夫。暖かいし」
「まあ確かにそうだが……」
気候は春ぐらいだろうか。麗らかな午後という表現がぴったりな天気と気温だ。
だが、半袖では夜は冷えるだろう。何かを用意しなければ。小石がひっかかるような不安が少しだけ積もる。最悪は野宿すら視野に入れる必要がある。
「じゃ、行こ」
彼女が先導立って歩き始めた。
◆
草原は広い。
少し勾配があるからか、周囲の地形を把握するには少し至らない。高い所に行っても変に緑が広がるばかりだ。遠景には山のようなものは見えるが、人工物がさっぱり存在しない。ただ、道らしきものだけは見えた。一体ここは何処だというのだろうか。まるで外国だ。
しばらく歩くと、その道には辿り着いた。コンクリート等で舗装されておらず、単に草が生えていないだけで土が剥き出しの状態だ。足跡は無く、轍もない。だが、かなり綺麗に道が残っている。その不自然さに疑念を呈するがその回答はでないので頭の片隅にやるしかない。
「どっちに行ったものかな」
見渡す限りでは、草原しかない。方針も何も立てようが全く無い。
「此処に拾った棒きれがあります」
得意気に水鳥が木の棒を地面に立てた。
「いつの間に……」
少し呆れたような声が出た。しかし彼女は意に介さずに棒きれに集中している。
「倒れた方向に行くん。いい?」
了承すると、手を離した。
すぐにパタンと倒れた。方向は右だった。
それを拾って、彼女は再び歩き出す。
肝が座っているというか。思った以上に平気そうだ。
その横顔は特に真剣な表情ではなく、柔和な笑顔だ。
どうしてそう元気でいられるのだろうか。
どうしてそう楽しげにしているのか。
どうして。その言葉を飲み込み、目的地もわからず歩き続ける。
だが、いくら歩けど、そもそも現在位置すら掴めない。
そもそもの地形としてこういった場所を知らない。
見る植物は知っている物とはどこか違う。虫はまるで見たこともないものばかりだ。いや、そもそも六本足ではなく、八本足だ。内前二本が手のように器用に動いている。それらは蜘蛛では無いだろう。羽もある。
空にはうっすら月のような白い物が浮かんでいるが、知っている物ではない。サイズも二倍近い。
そう、まるで異世界のような場所。
今までの常識が通用していない場所だった。
そんな場所を、彼女は少し楽しむかのように歩いていた。
何かを発見しては立ち止まり、二人で相談し、また歩き始める。
植生、気候、地形。学校で習った知識を頑張って思い出したり教科書を見てみるが、大した事は推測できなかった。
なにせ何もかもがよくわからないとしか言いようがないのだ。
一応は、ヨーロッパに近い気候のような気がするとは結論づけはしたが。
しかし、進めども進めども何かにたどり着く気配はない。
「何も無いねぇ」
一向に何も見えないことに、いい加減耐えられなくなったのか水鳥が少し不安混じの声で吐露する。
「だなぁ……いい加減何か見えてもいい気もするんだが」
「そやねー」
更に少し時間がすぎると、丁度いい感じに椅子になりそうな岩があった。其処へと並んで座り、お茶のペットボトルを取り出して中身を確認してから飲む。もう、あまり量は残っていない。体力と同期するように中身は無くなっている。
「流石に疲れたな」
「結構歩いたもんね」
辺りをもう一度見回した。日が傾き始めていた。
電灯は無く、車が走るわけでも無く。夜は星の光だけが頼りになるのだろうか。
彼女を見ると、目を閉じ座っていた。少し首を傾けて。喫茶店で音楽を聴いていた時の彼女の姿が重なる。風を聞いているのだろうか。それとも、何かを想い出しているのだろうか。
「このままだと野宿だな」
懸念が現実の物となりつつあった。
「今の格好やと寒いやろなぁ」
「心配する所はそこなのか……」
「へ?あー、後、お風呂入りたい」
「お、おう」
その言葉に少しドキッとして、それを隠すように周囲を観察する。そんなことを気にする彼女ではないが。
「家にも連絡できへんし、心配しとるやろなぁ」
「だな……せめて人の居る場所があればいいんだけど」
見渡す中、遠くで何かが動いた気がした。気の所為かと思ったが、だがしかし目をこすってみてもそれは見えている。
背の低い動物のような何か。
「なんだろうアレ」
二人で目をこらして見るも、何かは判然としない。この暗さでは、どうとも見えない。
「変な匂いがする」
彼女の言葉でその臭いに気づいた。
これは……腐臭だろうか。
……そう、腐った臭いだ。夏場に弁当を直射日光に晒しっぱなしにした時の事を思い出す。
そう、これは何かが腐っている時の臭いだ。
風は蠢く影の方から流れている。
ならば考えうるに、あれがその臭いの原因ではないだろうか。
そう考えている内に、それはだんだんと視認できる領域まで近づいていた。
「犬?」
”それ”は犬だ。頭数にして十も居るだろうか。
それらは脇目も振らずに此方へと向かってきているのが見て取れる。
「逃げよう!」
もうだいぶ近く、はっきりと見えたそれらの犬は端的に言えば腐っていた。
焦点の合わない虚ろな瞳は何処を見ているのか判らず、黒い腐肉と体液を散らしながら、骨がはみ出た足で転がり跳ねるかのように草原を駆けていた。
おぞましい。
どうして、あんな姿で走っているのか。あんな姿になって。身震いするような吐き気と憎悪が湧き上がる。身体を震わせ、奮わせる。逃げろ、と諭すように。
水鳥も見え、理解したらしく、その顔が青ざめた。
そして、走り出した。
「くっそ今日はこんなんばっかりかよ」
「なんなん、あれ!」
それの速度は早くはない。基本的に、四足歩行の動物は人間より早く走れる事が多いが、アレ等の速度は自分たちの走るスピードと同等程度だ。おそらくあの身体ゆえに、走るのに難儀しているのだろう。
助かった。その点だけは。
だがしかし。大半の動物は長距離走が苦手だという。そんな中、犬はむしろ得意な方だったはずだ。あれらがどうかはわからないが、そこが同様だとすれば。
そもそも体力という概念があるのだろうか。
目は見えていない事は確実だろう。大半が腐り落ちているかあらぬ方向を向いている。
耳は聞こえているのだろうか。耳が動く様子はない。
鼻はどうだろうか。匂いで追っているような素振りは見せない。
触覚は無いだろう。痛覚があればあんな身体で動けるはずも無い。
味覚は……。
何にせよ、おそらく相手はやばい。まず間違いなく近寄ってはいけない。それだけは解る。
「わかんねえよ。ホラー映画かよ!」
「うち、そういうのあんまり見ーへんけどこんなんなん!?」
「大体こうやってゾンビが襲ってくるんだよ」
「あの犬ゾンビなんかな」
「見た目はそうだな!」
「犬やったら餌欲しいだけで、鞄投げたら食いついたりするやろうけど……」
「あれの餌は人間とかそういうオチだろうからぶつけて足止めとかに使ったほうが良いだろうさ」
「噛まれたらゾンビになるんかなぁ」
「あれと同じ状態はいやだな」
こちらには武器も何もなく、為す術はない。せいぜいそれなりに重い鞄とボールペンと定規ぐらいか。
草原を駆けるが、三分も走れば限界が近づく。
運動は苦手だ。彼女もそれは同様だ。
だが必死だ。追いつかれれば死ぬ。
だが恐怖だ。諦めが迫り始めていた。
そして絶望だ。どうしてこんなことになったんだ。
冷たい水が胸に注がれてくる。脳までそれは達し、逃げることでいっぱいだった頭を冷やして別の考えが浮かんでくる。『せめて水鳥だけでも』と。
そう思い彼女を見る。彼女も息切れしかかっていて体力の限界が近いのが目に見えて判る。
どうする。
どうすればいい。
囮になるか?
成れるのか?
成ったとして、彼女は逃げ切れるのか?
暗闇と脅威が差し迫る。もう、これでお終いなのか。
「こっちだ!」
声がした。
焦る中、人間の声が聞こえた。
急に身体が熱を持つ。
考える余裕も時間もない。
隣を走る水鳥と顔を合わせ、頷き、声の方へと向かう。
「やっと見つけたと思ったら魔物に追われてるとはな。まあ武器を用意しておいて良かったと言うべきか」
男の声だ。少し低音が強めの若干の野太さを感じさせる声だ。
「この身体だと二本を引きずるのが限界だったからな。どっちかを使え」
声が近い。そう思った時、地面に何かが転がっているのが見えた。
剣だ。鞘に収まった剣と刀だ。左手側に剣、右手側に刀。水鳥の左を走っていたのでそのまま剣を取った。
鞘を投げ捨てるように刀身を引き抜く。両刃の長剣。幅は二十センチ、長さは一メートルはあるだろう。立てれば腰のあたりまで届く長さだ。分類するなら大剣に属するぐらいの大きさだが、その割には軽い。剣の実物なんて持った事無いが、この大きさの鉄は本来、予想以上に重いだろう事を知っている。だが、まるで塩ビのパイプでも持ったかのような軽さだ。
水鳥の手にも似たような長さの刀が握られている。片手でそれを持ち、不思議そうな顔を見るに同じような感想を得ているようだった。
「構えろ!来るぞ!」
目の前には襲い来る六頭程の腐った犬だ。
ふう、と息を吐いた。
手にある武器からか。恐怖ではなく、どうすればよいのかという思考だけが頭を巡った。
今あるのは、冷静さだ。今必要なのは、確かな対処だ。
心臓の鼓動を感じる。
だんだんと、ゆっくりになっていくのがわかる。
落ち着け。
相手は猪突猛進してきているだけだ。それを避けて……どうする?
「いいか、頭を狙え。アレは頭を破壊しないと動きは止まらん」
声に従う他ない。
「うおおおおおおお!!!」
叫びながら剣を振り上げた。
酷い腐臭と共に先頭のソレが襲いかかってくる。ソレは跳ね、覆いかぶさろうとするかのように宙を舞った。
それを下に掻い潜りながら剣を振り下ろす。それなりの反発力を腕の力で押さえつけ、真っ二つに切り捨てる。
嫌な感触だった。
水がパンパンに入ったビニール袋を棒で叩いた感覚が一番近かっただろう。
案外すっぱり切れるものだなとも思ったが、感触を確かめている暇は無い。
ドサリと落ちた音を少しずれて二つ聞いて、しかし他の個体が怯える様子はない。
ただ真っ直ぐに向かってくる。威嚇無く、恐怖も無く、感情さえ無く。一切の躊躇を見せず立て続けざまに襲い来るそれらを捉え、我武者羅に剣を振るう。
横に、縦に。傷つくことをなんら恐れずに向かってくるそれらは牽制や間合いを考える必要はなかった。ただ来た順に捉えて振るうだけだ。とはいえ、周りを見る余裕なんてものはなかった。ただ目の前から襲い来る其奴らを切って捨てて切って捨てて。たった一分ですら圧倒的な長さに感じた。
剣の使い方なんて習った試しはない。包丁ぐらいしか刃物は使ったことはない。
一切の心得無いその剣筋は相当に無茶苦茶だったろう。
必死に守り、必死にぶった切った。が、ただ単に胴を切った、足を切った、それだけでは動きは止まらない。それらはただひたすらに噛みつこうとし、引っ掻こうとする。這いずり、蠢き、襲いくる。
犬の姿をするそれは襲いかかる為にまず口を開ける。口の中の牙が見える。肉が剥がれ、剥き出しの歯を曝け出す。それは犬の攻撃手段そのものだった。しかし、一直線にしかこない以上、その軌道は見ていればわかる程に単調で、避けることはたやすい。
避ければそれらはどさりと地面へ衝突する。前足で着地をして身を守るような事はなく、噛み付けることが前提の体勢。
中にはそれで顎が砕けた固体もいる。そうなると次は爪だ。
しかしそれは服や防具を切り裂くほどのするどさは無い。だが、自身の骨が砕けることを厭わないような力で振り下ろされるそれを、まともに食らうことは得策ではない。
叫び、振り回し、切るたびに酷い腐臭が更に飛び散る。
制服は返り血と体液で黒く汚れ、鼻は麻痺し、ひたすらにこの場を切り抜け早く立ち去りたいという思考が脳を支配し始めていた。
ぐちゃぐちゃだ。腐肉を重ねた地獄だ。
兎に角、相手の動きも自分の動きも遅い。
遅い。
世界が拘泥に漬かったような錯覚を覚える。一秒一秒が長い。
敵の姿が遅く見えても、身体が思うような速度で動かない。何もかもがスローだ。
思考さえ、思っている以上に緩やかに組み立てられる。ただただ体感だけが、ゆっくりと噛み締めさせるように流れる。
息が足りない。
息をつく暇がない。
口で息を吸えば吐き気が同時に襲いかかる。
だが身体が酸素を求める。
この状況を投げ出したい思いだけが重しのように積もる。
「だああああああ!」
叫びながら、ひたすらに。
眼の前の景色がまるで二重にも成ったような。
色が混然としたような景色を網膜に写し。
幾千秒にも感じられた瞬間を。
「最後っ‼︎」
地面を砕くように剣を突き立て、やっとのことで終わらせた。少しジタバタして、やがて動きが完全に止まった。
急激に時間が加速した。動揺に、疲労が吹き出した。
息が切れていた。剣に寄りかかるようにしゃがみ込んだ。
切れた息を整えようと口を開くと、喉の辺りまで胃液が逆流するのを感じた。口を覆おうと左手を添えると、べっとりとしていて、直ぐに手を払い除けた。
手は黒く、ぬちゃりと汚れていた。とりあえず服で拭こうとしたが、服は服で汚れていてどうすることもできない。
そうだ、
「水鳥‼︎」
顔を上げてその名を口にする。
彼女もまた、地べたに座り込んで息を整えていた。
その左足のスカートは一部が裂け、傷が見えていた。
「水鳥!!」
「大丈夫、かすっただけやから」
慌てて駆け寄ると、彼女は笑顔を見せてそう言った。どうしてそんな笑顔ができる。
「ともかく、此処を離れよう。この汚れは絶対まずい。消毒しないと」
「ならばこっちに来い。村がある」
反応したのは先程の野太い声だった。だが、周囲に人影は無い。草陰は隠れるには低すぎる。キョロキョロ見回してもそれらしい姿は何処にもない。
「何処を見ている。こっちだこっち」
足元だった。一匹の猫が居た。毛並みは不思議な事に青い。まずあり得ない若干蛍光色に近い水色だった。
「見事な戦いだった。世界を救う戦いの緒戦に相応しい。ああ、自己紹介が遅れたが未来を司る神、ウィルだ」
「ね、」
二人で何もかもを忘れ、同時に叫んだ。
「猫が喋ったー!!??」
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