第9話


   ❅❅❅❅❅❅


 高校の教室での六花の席は、僕の右隣だ。この僥倖に、僕は素直にクラス編成と席替えの神様に感謝していた。そんなものがいるのかは知らないが。


 傷だらけの六花は、高校でも気味悪がられ、友人はいなかった。だから、彼女の話相手になれるのは僕だけだったし、その事に僕は安堵と自負を感じている。


 休み時間はいつも二人で、教室の隅でひそひそと話し、昼休みはいつも二人で、教室の隅でこそこそと昼食を食べ、授業中はいつも二人で、筆談の手紙を渡し合って会話していた。ともするとクラス内で異物扱いされがちな六花だが、いつも僕と二人セットでいる事で、完全に孤立してしまう事からは防がれていたと思う。その代り、僕にも友人はできず、二人ぼっちで孤立していた訳だが、そんな事は僕にとって些事に過ぎない。僕の人生は、明るく充実した青春時代を送るためではなく、傷だらけの幼馴染の女の子を守って幸せにするためだけに存在しているのだと、思っていた。


 佐伯六花と常に一緒にいる男として、陰でクラスメイトが僕の事を「旦那」と揶揄しているのを知っていたが、それさえも僕には、褒章のように感じられていたんだ。皮肉にもその嘲笑の言葉が、どうやら叶いそうにない願いを、一時の夢として見せてくれていたから。


  昨日は、お母さんになぐられなかったよ


 世界史の授業中、教師が黒板に向かってチョークを走らせている隙に、六花がそっと僕の机に置いたルーズリーフ。その一行目に、そのように書いてあった。朝から気になっていたけど聞いていいものか悩んでいた事に、プラス方向の回答が得られたので、僕はほっとした。


  それはよかった 「なぐる」は「殴る」ね


 とはいえ喜びを全面に押し出すのも何だか気恥ずかしいし、センシティブな家庭問題の刹那の平穏を手放しで喜んでいいのかも分からないので、そっけない返事になってしまう。


  さすが一帆 こまかい笑

  やっぱりお母さんには、すがれる人が必要なんだと思う


 返ってきた一文が、僕の心に影を落とす。


  やっぱりあの話は、このまま進んでいくのかな


 そう書いた後、その一行を丸ごと消しゴムで消した。佐伯家の事情が好転するかもしれない事に、僕が否定的な態度を取ってはいけないような気がして。


  そっか うまくいくといいね


 消した上にそう書き直してルーズリーフを六花に渡し、僕は窓の外を眺めた。雪は降っていないが、空は鉛色だ。

 六花に伝わらないように、そっと溜息をつく。ままならない。人生は本当に、うまくいかない。

 しばらくするとかさりと軽い音を立て、六花から手紙が返ってくる。


  海原六花になるかもね笑


 心がぎしりと軋むのを感じた。湧き上がる寂しさを奥歯で噛み殺す。

 それはいつか、僕が僕の力で成し遂げたいと思っていた事だ。彼女を苦しめる「佐伯」の鎖を、僕が奪って「海原」で塗り潰して、彼女を解き放ってやりたいと思っていた。自立できれば、家なんてさっさと飛び出して、他県の大学に入学して二人でアルバイトして小さなアパートで一緒に暮らして、やがて就職して、プロポーズして、ささやかでも暖かな幸せで六花を包みたい、なんて夢見ていた。生きる事の喜びで彼女の心を満たせば、無数のその傷も、やがて癒えていくんじゃないだろうか、と。


 でもそれには、将来人並みの生活を送るには、やはり高校は卒業した方がよく、そのためには今はお互いの家でじっと耐えるしかない。自分の社会的無力さを、僕は心底情けなく思う。様々なしがらみから抜け出すには、僕たちはあまりにも、子供だった。


 六花の母親と、僕の父親は、半年ほど前から再婚を見据えた付き合いをしているらしい。

 自分の全身を、じわじわと無力感が蝕んでいくのが分かる。僕たちの親が結婚したら、僕と六花は、義理とはいえ姉弟という事になる。

 それでも、それで六花の母親が心の余裕と優しさを取り戻し、彼女への虐待が止むのなら、僕にそれを反対する権利はない。


 六花は、どう思っているのだろうか。僕と姉弟になる事に、少しの寂寥も感じていないのだろうか。軽い調子で書かれた彼女の言葉に返事を出来ないでいると、六花が手を伸ばしてひらりとルーズリーフを奪い取った。


  また、ひみつきち行きたい


 戻ってきた紙には、そう書かれていた。


  「秘密基地」ね


 そう書いて渡すと、


  笑


 とだけ返ってきた。




 放課後に二人で入った秘密基地は、今日も変わらず寂れていて、遠い昔の優しさの面影が冷たい空気の中で保存されているような気がした。ここに来るまでの帰路で六花は、一言も喋らなかった。


 部屋に上がると、六花はおもむろにバッグを置き、部屋の隅に畳んである毛布を手に取った。何をするのかと黙って見ていると、彼女は広げた毛布の両端をそれぞれの手に持ち、ふわりと翻して背中の方に回した。毛布を摘まんでいる両手は頭の上に上げているから、彼女の背後に毛布が広がり、飛膜をいっぱいに拡げたムササビのように見える。


 茫然とする僕と目が合ってにまりと笑った六花は、両手を頭上でクロスさせ、その毛布で全身を包んだ。薄緑に色褪せた毛布で、彼女の姿が見えなくなる。


「……なにしてんの?」


 僕の問いに、歪な緑の円柱状になった幼馴染が、声音を変えて答える。


「何という事でしょう。佐伯六花は消えてしまいました」

「え?」


 意味が分からない。六花はここにいるじゃないか。


「私は毛布の精です。今日は彼女に代わり、君の本音を聞きに来ました」


 そういう事か。彼女の思惑を知り、僕は少し切なくなった。僕という人格に与えられた僅かな演技力を発揮し、この茶番に乗ってやる事にする。


「なんだって……。六花を、どこにやったんだ!」


 僕の大根演技にくすくすと体を揺らし、毛布の精は答える。


「安心しなさい。私の質問に君が誠意を持って答えれば、彼女を返しましょう」

「本当だな! 彼女を傷付けたら、思い出の毛布とはいえ、許さないぞ!」


 毛布の精は少しだけ体を前方に曲げ、少し黙った。しかしすぐに元の円柱に戻る。


「では最初の質問です」

「何でも来い」

「佐伯六花という女性の存在は、君の人生にとって煩わしいものですか?」


 僕はその質問に驚いた。なぜなら、そんな風に感じた事がただの一度もないからだ。


「そんな訳ないだろ。もし僕がそう思ってると本気で考えてるなら、怒るぞ」


 毛布の精は数秒間黙った。


「……じゃあ、次の質問」


 どうやら先程の回答は、合格だったようだ。


「佐伯六花のお母さんが、君のお父さんと再婚するかもしれない事について、君はどう思いますか?」


 いきなり核心だ。僕は唾を飲み込んで、慎重に言葉を選ぶ。


「そりゃ……みんなが幸せになるんなら、それに越した事はないんじゃないかな」

「それは本当に君の本音ですか?」


 すぐに追撃が来た。今聞かれているのは、「僕の本音」だ。確かに先ほどの回答は、保身と臆病と無責任がない交ぜになった「僕の建前」だった。


 とはいえ……

 何て言えばいいんだよ。


 君は僕がさらって幸せにするから、親の再婚は阻止しよう、とでも言えばいいのか。そんな告白めいた事、こんな状況で出来るかよ。それに、高校生という子供でしかない自分の我儘で、僕の父親はともかく、六花の母親の幸せの可能性まで無下にしてしまっていいのか。母親が満たされれば、六花が待ち望んでいる優しい母親が戻ってきて、彼女への虐待だって止むかもしれないのに。それで六花だって幸せになるかもしれないのに。握りしめた拳が痛い。


「……答えられないのなら、佐伯六花は君のもとに戻らないでしょう」


 毛布の精が無慈悲に言う。ああっ、くそ!


「実現性も明確なプランも、周りへの配慮もない、最低な僕の本音を言うぞ!」


 薄緑の円柱がピクンと震えた。大きく息を吸って、僕は言葉を続ける。


「僕は! 僕の手で! 佐伯六花を幸せにしたい! その為には、親に再婚されたら困る!」


 毛布の精の中から、「ふえ……」という情けない声が聞こえた。


「でも! そんな我儘で! 六花のお母さんや六花自身の幸せを奪っていいのか! 僕には分からない!」


 毛布が震えながら、ふええぇ、と小さな声を上げる。洟をすする音が聞こえた。その頂点がもぞもぞと動いて、円柱の歪さが増す。数秒の後、少し落ち着いたのか毛布の精が続けた。


「……じゃあ、次の質問」

「どうぞ」


 自分の殻が一つ破れたような感覚がある。今なら何でも素直に答えられる気がした。


「君は、佐伯六花の、何になりたい?」


 何になりたい?

 僕はその質問を頭の中で繰り返した。


 半年だけ年の離れた「義理の弟」? 違う。

 「恋人」? そりゃあなりたいが、本質とは違う気がする。

 クラスメイトに揶揄される「旦那」? これも同じだ。今言う事ではない。


 考えていると、不意に、自然に、思念の泉からぷかりと浮かび上がるように、ごく当たり前の真理のように、一つの言葉が湧き上がった。そうか、


「僕は、」


 笑っていて。悲しみに潰れないで。

 絶望に折れないで。痛みに屈しないで。

 いつでも頼ってくれ。縋ってくれ。

 そばにいて欲しい。一緒に歩き続けて欲しい。

 触れていたい。触れられていたい。

 僕と二人で、生きていて欲しい。

 僕の為に、生きていて欲しい。


 僕がいつも六花に対して思っている事の、これらの全てを詰め込むと、つまりは、こういう事なんだ。


「僕は君の、生きる理由イミになりたい」


 毛布の精が――いや、もういい。六花がすとんと畳の上に蹲って、「うあああぁ」と嗄れた声で泣き出した。薄緑の円柱が、薄緑の球体になった。


 明るく振舞っていたとは言わない。それでも僕の前では、こうして溢れる程の悲しみや戸惑いを、極力隠していたのだろう。


「一帆は……一帆は」


 薄緑の球体が泣きながら僕の名を呼んだ。


「うん」

「どうしてこんな私に、そんなに優しいの! 一帆に優しくされたら私、生きたくなっちゃうよ! こんなにボロボロで、気持ち悪い生き物なのに!」


 彼女の「本音」は、僕の心をめちゃくちゃに引き裂いた。彼女がそのように考えている可能性は憂慮していたけれど、本人の口から聞かされると、立っていられない程の感情の波に襲われる。


「気持ち悪いなんてことない!」


 僕は六花の前に膝をつき、彼女を覆う毛布を掴んだ。抵抗するように六花は、それを掴む力を強める。


「嫌! 見ないで!」

「僕は六花を見たい! 誠意を持って答えれば帰ってくるって言ってただろ!」

「やだよ! 今涙と鼻水でぐちゃぐちゃだよ!」

「僕だってそうだ!」


 力を込め、毛布を引き剥がした。短い悲鳴の後に両手で顔を隠した六花は、指の隙間から目を出して、同じように涙と鼻水でぐちゃぐちゃの僕の顔を見ると、ゆっくりと手を降ろして小さく笑った。


「なんで一帆が、そんなに泣いてるの」

「君が泣いてるからだよ」


 僕の言葉に、六花がまた顔を歪める。けれどそれをぐっと堪えて、僕に笑ってみせた。


「私、普段はいい子ぶってるけど、めんどくさい人間だよ?」

「知ってる」

「ものすごく嫉妬深いし、独占したがるよ?」

「望むところだ」

「気に食わない事があったら、すぐ拗ねるよ?」

「かわいいじゃん」


 六花は一度うつむいてふうっと息を吐くと、顔を上げて真剣な目を僕に向ける。赤くなっている目と目元に、僕の胸はずきりと痛んだ。


「一帆の為に、生きていいの?」

「当たり前だ」


 僕は彼女の涙まみれの右手を取り、沢山の傷や火傷ででこぼこになっているその甲に、傷が痛んでしまわないように体中の優しさと祈りを集めて、そっと唇を重ねた。


「僕の為に、生きて下さい」

「……はい」


 冬に咲いた花のように柔らかく微笑んで答えた六花に、古びたレースカーテン越しの白い光が降り注ぎ、彼女が纏うぼろぼろの毛布を輝かせていく。


 それを見て僕は本当に、「ウエディングドレスみたいだな」と、思った。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

君なき真冬のエフェメラル 青海野 灰 @blueseafield

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る