第8話
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僕がこうなった時、校舎の屋上の縁に立っていた。六花に初めて声をかけられた時にいた、転落防止フェンスの外側と、同じ場所にね。
自分がどうなったのか、すぐには理解できなかった。霊魂や死後の世界のようなものを夢想する趣味はなかったし、そんなもの信じてはいなかった。人の魂の重さが21グラムという逸話も、ちょっとロマンチックなただの作り話だと思っていたよ。
数日間そこで突っ立ったままただひたすらぼんやりとして、いくつもの夕日と朝日を眺めて、少しずつ、真っ暗な洞穴に岩の隙間から光が差し込んでくるように、意識や記憶がはっきりしてきた時、僕はようやく絶望した。
――僕は、終わる事ができなかったんだ。
人は死んだら終わりだと思っていた。周りからどれだけ大切に思われていようと、どんなに偉大な事をして人類に貢献していようと、死んだらその瞬間にその人の全ては終わりで、精神も記憶も、何も残らない。功績や、遺産や、周りの人の記憶として胸に残るとか、そういう話ではないんだ。あくまでもその人本人の思念とか、思考とか、思い出とか、その人をその人たらしめているものは、何も残らずに、終わる。
それは虚しいようでいて、僕にとっては救いでもあったんだ。死は遍く皆に訪れる。そして死は、最高潮の幸福であろうと、最悪の地獄であろうと、等しく全てを終わらせる。その後は何もない。何も、ない。
そういう結末があると知っているから、そういう幕引きの権利があると知っているから、僕の心に一つの余裕が出来ていたのは確かだ。世界がどれだけ残酷に僕たちを追い詰めようと、その気になればいつでも終わらせる事が出来るんだぞ、という、諦観の電源ボタン。それを心に持つ事は、まるで拳銃を懐に隠し持っているような安心感を与えた。
でも僕の電源ボタンは、正しく動作してくれなかった。
終われなかったどころか、いつかは終われるという救いすら、僕は失ったんだ。
季節は春だった。桜が風に乗ってひらひらと舞って、僕のいる屋上まで吹き上げられてくるものもあったな。眼下には、新入生らしき緊張した雰囲気の生徒達が何人も歩いているのが見下ろせた。
僕はようやく、動いてみる事にした。世間での、僕のような存在に対して抱くイメージそのままに、僕はフェンスも扉もすり抜ける事が出来た。ただ不思議な事に、足はしっかり地面に接地するんだね。風も、雨も、その影響を僕に及ぼさないのに。でもおかけで、床をすり抜けてどこまでも落下していくということはなかった。それは僕の中の常識という概念が、そうさせているのかもしれない。
僕はひとまず、学校を出ようと思った。行く宛もないけれど、ここにはいたくないと思ったんだ。でも、校門の所に見えない壁みたいなものがあって、そこから先にはどうやっても行けなかった。学校の敷地をぐるりと回って他に出られそうな場所がないか探したけど、全てにその壁があった。そうして僕は理解したんだ。自分が、「地縛霊」というものになっていることを。
ひどい話だよ。僕はここが大嫌いだった。そんな場所に、死んでからも縛り付けられるなんて。
仕方なく僕は、かつて自分が所属していたクラスに行ってみた。もう授業は始まっていて、教室は静かだった。当たり前だけど、僕のクラスメイトだった人は、そこには一人もいない。でも、僕が座っていた席――教室の最後尾の、窓際の席。その場所にぽつんと、生徒が座っていない椅子と机があるんだ。
そこまで話した所で、ずっと静かに聞いていた六花が口を開いた。
「もしかしてそれって……」
屋上は六花には寒すぎるので、また屋上に繋がる階段の最上段に座って、二人で話していた。照明が落とす影は、六花の一人分しかないが。
「うん、君の席の隣。僕は死ぬ前も、あそこが自分の席だったんだ。僕自身だけじゃなくて、何故か僕の机と椅子までが、幽霊のようにあの場所に有り続けている。そして不思議とあの場所には、生きている生徒が配置されないんだ。無意識に避けられているみたいにね」
「そう……カズホがそうなったのは、どれくらい前の事なの?」
「ちゃんと数えてないけど……」
頭の中で計算した。
僕のクラスメイトだった人たちはその時3年生になっていたので、僕が死んでからこうなるのに、そう長い時間はかかっていない。現在の西暦から、僕が生きていた最後の年を引くと。
「ああ、ちょうど二十年前だね」
六花は目を丸くした。
「そんなに……」
「そう、そんなに。新生児が成人してしまうくらいの時間を、僕は大嫌いなこの学校に閉じ込められているんだ。いい加減、うんざりするのにも飽きたよ」
僕は冗談めかして笑って言ったが、六花は笑わなかった。
「当時のクラスメイトが、教育実習生として赴任して来た時には驚いたね。学生の時は教師の不満ばかり言ってるような人だったけど、同じように反抗気味の生徒の扱いに右往左往していて、笑ったよ」
六花はまだ、笑わない。うつむいて、自分の爪先を見ている。なぜだか自分の中に、焦燥のような感情が生じているのを感じる。
「そうだ、六花には特別に教えてあげよう。古文の根津先生っているじゃん。あの太ってて、いつも顔を油で光らせている中年の教師だよ。あの先生、職員室の自分のデスクに座ってる時、たまにわざと足元に物を落として、それを拾うために屈み込むんだ。その時に衝撃的な事をしているのを僕は知っているんだけど、何だと思う?」
彼女は下を向いたまま、静かに首を振った。僕はそんな彼女に耳打ちするように顔を近付ける。実際には僕の声は僕が視える人にしか聴こえないようなので、こんな事をする必要はなく、演出でしかないのだが。
「実はね……、あいつ、他の教師達から隠れて……」
たっぷりの間を置いて、重大な秘密を囁くような声で。
「マヨネーズ吸ってるんだよ」
ぶはっ、と六花が吹き出したのを見て、ようやく僕はホッとする。どうして自分がこの子を笑わせたいのか、いまいち自分でも分からないけれど。
「あははっ、そんな話、ズルいって」
でも楽しそうに笑う顔を見ると、嬉しくなる。
「本人は誰にも気付かれてないつもりみたいだけどさ、職員室にいる全員が知ってるんだよ。根津先生が授業に出てていない時、みんな彼をこう呼んでるんだ。『ネーズ先生』ってね」
「あっはははっ」
六花は破顔して笑う。
「いやあ、二十年前は、根津先生もスリムな体してたんだけどねえ。時は残酷な程に人を変えるね」
僕がここに捕らわれている時間を再認識させてしまったのか、せっかく笑ってくれた六花はまた表情を雲らせて、うつむいてしまった。
「……僕の境遇に関して、君が心を痛める必要はないよ」
六花は首を振る。
「だって、カズホは私のとも――」
そこで言い淀んだ。友達、か?
「カズホは私のモノなのに、私に出来ることが、何もなくて……」
僕は小さく笑う。友達という言葉を使うのが照れくさかったのかもしれないが、「私のモノ」という表現の方が恥ずかしくないだろうか。
手を伸ばして、右隣に座る六花の頭に掌を乗せた。柵も扉もすり抜ける僕の身体は、当然彼女に触れる事は出来ない。けれどその頭を撫でるように、そっと手を動かす。触れられている感覚はなくても、視覚情報で僕が何をしているのか悟ったらしい六花は、静かに目を閉じていた。僕の掌の感触を、思い浮かべるように。
「そう考えてくれるだけで、嬉しいよ。それに、六花とこうして話しているだけでも、僕は救われてるんだ」
「そうなの?」と彼女は僕の目を見て聞いた。僕はうなずく。
「そうだよ。僕が視える人は、この二十年の間に何人か出会ったけど、僕を恐れて近付こうとしないか、恐れなくても関わろうとしない人ばかりだったから、実はこうして誰かと話すってことも、僕にとってはとても久しぶりで、楽しい事なんだ」
六花は目を細めて微笑んだ。
「そっか、よかった」
この、彼女が時折見せる素直な笑顔は、初めて屋上で会った時や、教室で見せるようなクールなキャラクターからは想像が付かないほど、愛らしく見える。他のクラスメイトより多少は心を開いてくれているらしい僕といる時の彼女は、この方向からは右顔を覆うあの仮面が少ししか見えない事も手伝い、普通のかわいい女の子だ。
僕はまた、六花の頭を撫でた。彼女はくすぐったそうに眼を閉じる。
僕が正体を打ち明けた事と、このやりとりが、彼女の心の扉をまた少し開いてしまったのかもしれない。
「ねえ、それで、カズホは、」
安心したような彼女の優しい靴音が、僕の錆び付いた扉に一歩近付く気配がした。
「何があって、自殺しようと思ったの?」
フィルターがかかる。
世界に絶望のフィルターがかかる。
視界が曇る。暗くなる。凍り付く。彼女の頭を撫でていた手が止まる。
踏み込んで欲しくない。触らないで欲しい。
僕の中の沼が胸を突き破って溢れ出し、慟哭の雄叫びを上げながら手に足に首に絡みついてくる。
触れるな。触れるな。近寄るな。
終われ。終われ。終われ。
沼の中で僕は、壊れた自分の電源ボタンを叩き続ける。
叫びは泥の泡になって、僕の耳にすら聞こえない。
終われ! 終われ! 終われよ!
「……ごめん、聞いちゃだめだったかな」
焦ったような六花の声が、僕を引き戻した。心配そうな彼女の瞳が、僕を見ている。
一度深く息を吸って、心を落ち着かせる。
「いや、大丈夫。……ただの、イジメだよ。よくある話だ」
嘘は言っていない。
「そう……」
僕の言葉を素直に信じたのか、六花はまた、うつむいてしまった。僕はもう、彼女を笑わせようとする気力はなかった。
ふと自分の左手に、何か重い液体のようなものがぼとりと滴ったのを感じ、そこに視線を向けると、泥がついていた。驚いて左手を振るうと、泥は僕の手を離れ、階段をすり抜けて消えていった。恐る恐る自分の口元を触ると、左の口角から顎にかけて、細かな砂のようなものを含んだ粘性の液体が線を作っているのが掌の感触で分かる。その泥の発生元は、やはり僕の口だった。途端に口中が不快な感触で満たされる。叫びたくなる心を押し込めて、これが六花に見られていなくてよかった、と、僕は思う。
破壊された愛は、呪いだ。
僕はこの呪いを抱えて、死の救いすらないままに、永遠に存在し続けなくてはならないのか。
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