第二章 君の生きるイミに
第7話
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佐伯六花は、僕の幼馴染だった。
産まれた家が近所だったという理由で、僕らの関係はまだ幼稚園に入る前から始まり(当然その頃の記憶は僕にはないのだが)、居住地によって通う先が決まる小学校、中学校は、当然同じ場所になった。1月生まれの六花と、7月生まれの僕。ちょうど半年だけ年上となる彼女は、幼い頃は僕よりも背が高く、性格もお姉さん然としてしっかりしており、しょっちゅう泣いていた弱虫でちびっ子な僕の手を、よく引いてくれていた。
ある程度の年齢までは無邪気に遊んでいたが、中学ともなると僕も年相応の、意味も分からない羞恥心や反発心などを持つようになり、男友達に囃し立てられる事が死ぬほど恥ずかしくて、僕に付きまとおうとする六花に冷たく当たるようになった。
「一帆、ちょっと相談したい事、あるんだけど」
中学一年のある日の放課後、僕の席までやってきた六花にそう言われた事がある。クラス中の目と耳がこちらに集中されていくのが、手に取るように分かった。
「僕だって色々あるんだからさ、友達に話せばいいじゃん」
ぶっきら棒にそれだけ告げると、僕はカバンを持って友人を連れ、教室を出た。
友人から「海原って佐伯さんと付き合ってんの?」なんて聞かれた時には、苦虫を噛み潰したような顔を作って、「やめろよ気持ち悪い。あいつとはただの腐れ縁だよ」なんて言ってみせたものだ。そのくせ心の内では、僕たちが恋人だと誤解された事を、飛び上がる程喜んだりもしていた。
六花は、綺麗だった。儚げに繊細な体つきと、肩まで伸びてふわりと内側にカールする、シルクのような黒髪。僕の面倒を見て培ってきたのか世話好きな性格と、魂のささくれを落ち着かせる優しい声。だから彼女に惹かれている男子生徒は、少なくなかった。そんな六花と、ただの同級生以上の関係であるという事が、そしてそれを鼻にかけていない(ように振舞っている)自分が、不思議な程の高揚感を僕に与えた。
今振り返れば、この時の自分は何てバカだったのだろうと思う。あの時に、もっと真摯に彼女と向き合っていれば、今よりもっとましな現在も、あったかもしれないのに。
いつの間にか眠ってしまっていたようだ。
暗闇の中でふと目覚めると、自分がどこにいて、どういう状況に置かれているのか、分からなかった。でも、薄汚れたレースカーテンから漏れる街灯の弱々しい光と、壁に背をもたれて座っている自分の、その左肩にかかる重さで、すぐに思い出す。
ここは、僕の秘密基地だ。「帰りたくない」と零した六花をここに連れてきて、二人で毛布に包まって話しているうちに、眠ってしまったらしい。左肩に頭を乗せる彼女も眠っているのか、定期的に静かな寝息が聞こえて、それが愛しくて僕は、自分の左耳を彼女の髪に押し当てる。それは寒気に冷たくなっていたけれど、その奥に暖かな命の温度がある事を感じさせた。こうして耳を寄せる事で、彼女の心の内や、抱えている苦悩が、一つも取りこぼす事なく聞こえてくればいいのに。
今は何時だろうか。この秘密基地には時計はなく、僕は腕時計が嫌いな方だったので、この状態で時間を知る術がない。離れた所に置いてある鞄に入っているPHSを見れば時間が分かるが、この状況から体を動かすのが惜しく感じた。
ずっとこうしていられればいいな。僕はふとそう思う。
僕たちを傷付けるもののない小さな箱庭で、心穏やかに二人で眠っていられるような、そんな世界があればいい。
でも、ここは違うんだ。
帰る時間が遅くなれば、六花にとっても都合が悪い事になる。惜しむ気持ちを押し込めて、僕はそっと彼女の肩を揺らした。
「六花、起きて」
「ん……」
ゆっくりと目を開けた彼女は、まだ眠そうに、小さくあくびをした。抱き締めてしまいたい衝動を抑える。
「ふあ……寝ちゃってたね」
「うん。時間大丈夫かな」
「あ、やばい……」
彼女は近くのバッグを引き寄せてPHSを取り出し、画面のバックライトを点ける。
「ああ、良かった、大丈夫。でももう、帰らなきゃ」
荷物を持って秘密基地を出ると、僕は思わず震えた。
「さむうぅ」
六花もそんな情けない声を出す。
ついさっきまで毛布の中で、二人体を寄せて眠っていたせいもあるかもしれないが、外の空気は頬に痛みを感じる程の切り裂くような寒さだ。雪国の冬がいよいよ本気を出てきたように思う。
「んっ」
その声に六花の方を向くと、彼女は左手でマフラーを鼻まで持ち上げながら、僕に右手を差し出していた。よく分からないまま、僕も右手を出してその手を握り、小さく上下した。
「違ーう!」
彼女は笑いながら僕の右手を振りほどき、代わりに僕の左手を握ると、体を近くに寄せてきた。
「一帆の秘密基地にお招き頂いたお礼に、手を繋いで帰ってあげよう」
「ありがたき幸せにございます」
右手を胸に当て、小さくお辞儀をしてそう言うと、ふふふと六花は嬉しそうに笑う。十数年ぶりに繋いだ六花の手は、僕より少し小さく、柔らかく、温かかい。
しばらく僕たちは、黙って歩いた。
会話するために何か言葉を捻り出すには、さっきまで二人で過ごしていた数時間が、幸福過ぎた。
「あっ」
ふと、六花が声を出した。
目の前を上から下に落ちていく白く小さな影で、僕も気付く。
雪だ。
僕たちは足を止め、手を繋いだまま空を見上げる。天空は世界に滲む悪意を思わせるような漆黒だが、そこからゆっくりふわふわと降りてくる白い綿雪には、一つ一つに優しさが乗っているような気がした。
「あ、そうだ」と、頭に雪片がくっついている六花が言う。
「一帆、知ってる?」
「何を?」
「私の名前」
「……馬鹿にしてるのかな」
六花はふふふっと笑う。その長いまつ毛の上で、粉雪が踊る。
「ねえ、私の名前、言ってみて」
「え、何で?」
「いいからー」
まったく、何を企んでいるのか。少し警戒しながらも、僕は小さくその名を呼んだ。
「……佐伯さん」
「うーわっ、なんで苗字? ここは普通下の名前でしょー」
「……六花」
僕に名前を呼ばれた少女はにまりと口角を上げ、
「もう一回」
と言う。
僕は困ったような顔を作りながら、今度はちゃんとした声で、何よりも大切な名前を呼ぶ。
「六花」
「うへへ」
嬉しそうに笑った六花の鼻に、雪の粒が落ちて溶けた。
「つめた」
「……で、何なの?」
僕と繋いでいない左手でその雫を拭った彼女は、「ん?」ととぼけやがる。つい最近も似たような事があったように思う。
「だから……」
呆れたような僕の声に被せるように、六花は口を開いた。
「私の名前『六花』はね、雪の結晶を意味してるんだよ」
そう言って左腕を胸の高さまで上げると、ふわりと落ちてきた雪をひとひらコートの袖部分に乗せ、僕の顔に近付けてみせた。
目を凝らしてそれに注視すると、街灯に照らされた雪の結晶が見えてくる。ギザギザした六角形の、小さな花みたいなそれはすぐに溶けてなくなってしまったけれど、ただの細かい綿のように思われる雪の一つ一つが、本当はこうした結晶の形を取っているのだと、生まれて初めてちゃんと実感したような気がする。
「そうなんだ。なんで冬生まれなのに花なんだろうって思ってた」
「やっぱり知らなかったかー」
ふふん、と六花は誇らしげだ。
「でね、この名前を付けてくれたお母さん……」
そこで言い淀んだ彼女に、自分の心の底がちくりと痛むのを感じた。
「……が、昔、教えてくれたんだけど、雪の結晶って、同じものが一つもないんだって」
「ああ、それは聞いた事あるな」
「ちぇ、知ってたか……。でもすごいよね、こんなに綺麗な結晶が、こんなに沢山降っていて、今までの何万年の歴史の中でも、同じものが一つもないなんてさ、奇跡みたいだよ」
僕はまた、空を見上げる。
君と同じ名を持つ、白い奇跡が舞っている。
それはやがて街に降り積もり、視界の全てを柔らかく覆い、奇跡で満たすのだろう。
雪は全ての「角」を包み隠していく。角を失ったまろやかな世界はどこか綺麗で優しげで、そんな風景を眺めるのが僕は好きだった。
寒いのは、苦手。でも、雪は好きだ。
そして、隣で手を繋ぐ、雪の名を持つ儚げな少女が、好きだ。
やがて僕らの足は、六花の家の前まで辿り着いた。まだそこに灯りは点いていない。
足を止め、うつむく彼女が、繋いでいた手をきゅっと強くした。僕もそれを黙って握り返す。帰りたく、ないな。彼女が零した声が思い出される。
彼女はこれから、誰もいない冷たい家で夕飯の準備をし、風呂にお湯を張り、仕事から帰ってくる母親を迎えるのだろう。彼女のお母さんが、今日は優しいといいな。僕はそう願う。
六花は、母親から家庭内暴力を受けていた。父親の不倫がきっかけで両親が離婚し、父親が家を出ていった中学一年の夏頃から、それは始まっていたようだ。その時に気付けなかった過去の自分を殴りたい。
知ってから、児相や警察に連絡する事を提案した事があるが、六花は首を横に振った。学校の教師に言われても、結果は同じようだった。彼女の中にはまだ「優しかったお母さん」がいて、実際母親はいつでも暴力を振るうわけではなく優しい日もあるようなので、それを失いたくないのだろう。六花は信じているんだ。いつも優しかったお母さんが、いつか戻ってきてくれる日を。
「じゃあね、一帆」
そう言って六花が手を離すと、心の被膜が引き剥がされるような痛みが走る。
「何かあったら、連絡しろよ」
彼女は黙って微笑み、暗い家の中に消えていった。
母親から六花に向けられる暴力は、初めは腹部や背中などの服に隠れる部分、目立たない場所だった。しかし次第にそれはエスカレートしていき、腕や、足や、顔にまで及んだ。彼女の友達もその姿を見て心配していたようだったが、徐々に増え続ける傷や痣を不気味に思ったのか、次第に彼女から離れていった。かつて友人に囲まれて明るく笑っていた六花は、いつの間にか、傷だらけの身体で独りになっていた。
そして不思議な事に、彼女の体の傷は、「治らなかった」。
どんな原理が働いているのか分からない。消えない傷を刻むように、母親の手によって日々傷が更新されているのか、それとも、六花自身がその傷を抱え続ける事を望んでいるのか、絶望した身体が傷を治す事を諦めてしまったのか――。ともかく彼女の傷は時の経過によって消えていく事もなく、蓄積されていく一方だった。
爪ででも引っ掻かれたのか、彼女の美しい両頬にはいくつものミミズ腫れがあり、今も痛々しく桃色の隆起になっている。
彼女に憧れていた男子達も、腫れて変色した顔や腕を見て、熱を失ったようだった。結局外見しか見てないんだよな、と心の中で彼らを蔑みながら、僕は少しほっとしてもいたんだ。
六花を好きなのは、僕一人だけでいい。
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