第6話


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 この国は、同調圧力の国だと思う。


 「自分たちがこうなのだから、お前もこうあるべき」という水面下のプレッシャー、暗黙のルール。その「輪」から少しでも逸脱すれば、矮小なマイノリティは、偉大なるマジョリティにより圧殺される。多数という正義の名のもとに、無慈悲な鉄槌が無責任に振り下ろされる。なぜなら、輪を乱したそいつは悪だから。輪を構成する我々は正義なのだから。だから皆で然るべき罰を与えるのである、と。とりわけ、学校や教室という小規模なコミュニティであるほど、その傾向は顕著になる。


 「和を以て貴しとなす」という言葉を残した過去の偉人は、今の世をどう憂いてくれるだろうか。本来その言葉は、隣人の顔色を窺って空気を読んで、皆で足並み揃えて同じ方向を向きましょう、という意図のものではない。お互いの主張をぶつけあい、理解し合って共存する事が肝要と説いているのであり、「和」は「同」ではないのだ。


 「この国では空気が人を殺す」というような表現を何かで見聞きした覚えがあるが、実に言い得て妙だと僕は思う。医療も環境も十分に整った、先進国であるはずのこの国で、未だに「空気」が、僕たちを殺している。おかしな話だ。いや、でもそれこそが、現代社会の病なのかもしれない。


 息苦しい。生きるという事は、本当に、生き苦しい。



 昼休みにクラスメイトの誘いを断って僕を名指しで連れ出した六花は、やはりその日から順調に孤立していった。彼女はそれを望んでいたようなので、それ自体は彼女にとって歓迎する事なのだろうが、ただの孤立だけでは済まないのがこの国の空気だ。


 はじめから孤独を選んで群れようとしないクラスメイトも何人かはいる。そういう人達はうまく息を潜めて、「正義」の監視から逃れている。ただ、六花の場合は、その登場からしてイレギュラーであり、人の目を引く外見を持ち、またクラスでも活発な連中の誘いをことごとく打ち砕いたのが、よくなかった。彼らは「輪」を構成する側の人々であり、彼らの思想や言動が、ここでの「正義」になるからだ。それに離反するものは、即ち「悪」になる。


 正義が悪に対峙する時、彼らの中であらゆる行動は正当化される。それは我らに迎合しない悪者を懲らしめているだけだから。価値観の異常さを指摘してやっているだけだから。


 さらに彼らは、必ず複数人でやってくる。単身で来ることは絶対にない。徒党を組むことで身内を正当化し合い、さらに責任を上手く分散しているのだ。狡猾な事に、彼ら彼女らはそれを、ほぼ無意識にやってのけている。


 そして今日も、そいつらはやってきた。クラスの女子グループのいつも中心にいる和田という女を先頭に、三人の女子が従者のように後ろをついている。


「宮本さんてさぁ」


 自席に座ったままの六花は、無言で視線を彼女らに向ける。


「協調性ってやつがないよねぇ」


 六花の前に座る相田さんがそっと席を立ち、教室の出口に静かに向かった。これから降るであろう火の粉がかからないように逃げたのだろう。賢明な判断だと思う。


「……その評価に異論はないけど、それであなたたちに何か迷惑をかけた覚えもないわ」


 六花の言葉に、僕は溜息を吐く。そんな言葉で納得するような連中ではない。こいつらはただ、標的が欲しいだけなんだ。自分たちの結束を再認識し、自分たちの正義をより堅牢なものにするためだけの。


「は? 迷惑かけてない? ホンキで言ってんの?」

「転校生で寂しいだろうからって私達が声掛けてやったのに、それを跳ね除けるのは私達にとって迷惑じゃないの?」

「冷たくされてウチら傷付いたんですけどー」


 いつものように自席で頬杖をつきながら、自分の胸の中にどろどろとした黒い塊が発生していくのを、僕は感じていた。


「そう、それは悪かったわね。謝罪するわ。ごめんなさい」


 和田は舌打ちをした。素直に謝られた事で、悪を懲らしめるという大義名分が揺らいだのだろう。


「とにかくさ、協調性がない人がいると、クラスの空気が悪くなる訳」


 出た。「空気」。それを本当に悪くしているのが誰なのか、本人達に自覚はない。


「そうね、気を付けるわ」


 六花は冷静に応えた。その心の内がどうなっているかは、僕には分からないが。

 反抗するでもなく、怯えて黙り込むでもない、六花のその率直な応対は、和田たちにとって想定外だったのだろう。気に入らない転校生を悪に仕立てる為の言い分を失って歯噛みしているように見える。ざまあみろ、と僕はほくそ笑む。


 六花はこういう独善的な者達への応対の仕方を心得ているのだろうか。クラスに馴染むとまではいかなくても、こうして厄介な連中が「こいつは思い通りにならない」と諦めて、少しづつ六花に距離を置いていけばいい。そして六花に、彼女が望む静かな平穏の日々が訪れればいい。僕はそう、楽観しかけていた。


「だいたいさぁ!」


 苛立ちを隠さない声で、和田は言った。その手が、六花の顔に向けて伸びていく。


「何なのこの仮面、キモイんだけど――」



「やめて!」



 悲鳴に似た叫び声の後、教室が静寂に包まれた。六花が上げた声に、クラス中が驚いて注目する。和田も突然の事に驚いたように、彼女の半分の白面に伸ばしかけた手を胸元まで引っ込めていた。

 ガタガタと椅子を鳴らして六花は立ち上がり、顔を隠すように下を向いたまま教室の出口に向かって駆け、廊下に消えていった。


 唖然としてしまっていた僕も立ち上がり、その後を追いかける。


「六花!」


 廊下にはもう、その後ろ姿は見えなくなっていた。でも、彼女の行先に想像はつく。あそこしかない。



 校舎の屋上に出ると、やはり六花はそこにいた。階段を駆け上がって来たのか、転落防止のフェンスに指をかけ、肩を上下させて息を整えている。僕はそんな彼女の横に立ち、フェンス越しの空を見た。


 冬の空は今日も分厚い雲を広げ、陽の光を覆い隠している。今もこの星は、来月の近日点に向けて少しずつ太陽に近付きつつあるのだろうけれど、その恩恵は微塵も感じられない。またコートも着ていない六花は寒さに小さく震えており、上着でもかけてやりたいと思うが、そう出来ない自分の腕を、恨めしく思う。だから僕は代わりに、彼女の背中に言葉をかける。


「六花、あんまり気にすんな」


 僕に出来ることは、なんだ。


「ああいうやつらの言葉とか価値観が、世界の全てじゃない。君は君の思うように生きればいい」


 息切れは治まったのか、彼女は一度小さく深呼吸をして、顔を上げた。僕の方には向かずに、どこか遠くを眺めている。冷たい風がその髪を撫でて通り過ぎていく度に、りぃん、と澄んだ鈴の音が聴こえるような気がする。


「カズホ」

「うん」

「生きることって、苦しいよね」


 僕は息を吸って、細くゆっくりと吐く。その呼気は、白く立ち昇っていかない。


「……その感覚は、分かる」

「だから、生きる為には、何か理由が必要なんだ」

「理由、か」

「趣味とか、信念とか、夢とか、好きな人とか」

「うん」

「生きる苦しさが、その生きる理由を上回った時、人は死を選ぶんだと思う」

「……うん」


 君は、死なないよね?


 そう確認したかったが、口を噤んだ。言ってしまえば、六花に不要な選択肢を与えてしまうような気がして、言いたくなかった。それでも六花は、そんな僕の逡巡もお構いなしに、温度の乗っていない声で言ってのける。


「私は、死にたい」


 言葉が、錆び付いた包丁のような重さを持って、ずぐりと胸の辺りに刺さっていく。


「さっきの事とかは関係なく、ずっと前からそう思ってた。生きる事は苦しい。こんな苦しさの中で、何で生き続けなきゃならないのか分からない。趣味も夢もない。そんなのを楽しむ余裕も自由も今までなかった。でも私は、絶対に死ねない」


 独り言のような声量で、六花はそこまで一気に言い切った。そして息を吸い、言葉を続ける。


「私は、自殺する人が嫌い」


(私、自殺する人って嫌いなの)


 六花に初めて会った日に、彼女がそう言っていたのを思い出した。一体自分の体のどの部分に、そういった記憶が刻まれているのだろうと、不思議に思いながら。


 彼女は先ほどの自分の言葉を否定するように首を振る。


「違う。私は、自殺出来る人が嫌い。妬ましい。この苦しい人生を終わらせられるという事が、その自由を持っているという事が、羨ましい」


 少し、分かった気がした。六花の言いたい事や、苦しさの欠片を。


「……そうか、君には、生きる理由はないけど、死ねない理由があるんだね?」


 六花は体を僕の方に向けると、僕の目を真っ直ぐ見据え、静かにうなずいた。その目に涙が流れていない事に僕は少しほっとするが、彼女の瞳は光を宿しておらず、灰色の曇天をそのまま絵具にして塗りたくったような、濁った色をしていた。


「生きる事は苦しい。それを上回るような生きる理由を、私は持っていない。でも私は、死ねない理由がある。それは、とても、とても……とても、」


 言いながら、六花は少しずつうつむいていく。そして、両腕に抱えきれなくなったものがぽとりと落ちるように、その言葉を零した。


「とても、つらい」


 僕は、白くならない息を吐く。

 どうして僕ら人間というものは、ただ幸せに生きていくというだけの事が、こんなにもできないのだろう。


「……その、死ねない理由というものは、生きる理由に転換できないのかい?」

「できない」


 即答だった。


「死ねない理由が解決したら、私はすぐにでも死にたい」


 自分にとって大切な人が死にたがっているという事実がもたらす痛みを、僕は知っているつもりだ。だから、自分の胸がぐちゃぐちゃと音を立てて磨り潰されるように痛む事を、僕は不思議には思わない。


「ねえ、カズホ、教えて」


 彼女は顔を上げ、縋るような目で僕を見上げた。そういえば以前にも、この屋上で同じように彼女が躊躇いがちに何かを聞こうとしていた事を思い出す。あの時は、誰かが階段室の扉を開けてそれに六花が驚き、そこで話が逸れたんだ。


 六花は僕という存在が何なのかを認識している。初めて会った日に、屋上の縁に立つ僕に向け、危ないからこちらに来るよう指示した彼女にフェンスをすり抜けて見せた時から、知っているはずだった。それでもその経緯を聞かなかったのは、僕が彼女の仮面の理由を聞かないのと、きっと同じだと思う。「触れて欲しくない傷」が人にはあるという事を、彼女は知っているんだ。それは「遠慮」であったり、「配慮」であったり、「距離」であったり、「優しさ」などと呼ばれる。要するに、六花は臆病で、そして、優しいのだ。


 でも彼女は今、僕に踏み込もうとしている。


 躊躇うようにその桜色の唇を動かした後、彼女はようやくその疑問を声にした。



「あなたは、どうして死んだの?」



 今までも何人かに出会った事がある。時折いるんだ。


 僕のような存在が、「視えてしまう」体質を持った人が。


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