第5話
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「寒……」
独り言つ僕の声は、白い蒸気となって空に立ち昇っていく。僕はタバコは吸った事はないし、今後も手を出すつもりは毛頭ないし、おまけに喫煙者というものを嫌悪すらしているが、こういう時に少しだけ、タバコに嵌る連中の気持ちが分かるような気がしないでもない。口から発した声や溜息が、白い煙となって無限の空に昇華して散っていく様は、胸の中のモヤモヤやイライラなどのマイナスの要素が僅かながらプラスに転換されていくような、すっと胸に空気が通るような、そんな心地がする。まあ実際は、ニコチンだかのもっと現実的で麻薬的な理由で中毒になっているんだろうけれど。
12月ともなると、午後の授業とショートホームルームを終えただけで、夕暮れ時が近付く。校門を出て右折し、門の一部を形成するコンクリート壁の影になる場所に背中を預け、僕はオレンジ色の雲を見上げていた。この位置は、帰宅する生徒達の死角になるので、人の目を気にせずに人を待つのにちょうどいい。
マフラーを口元まで引き上げて、両手をコートのポケットに突っ込み、細かく震えて体温を維持しながら、空を飛ぶカラスの数なんかを数える。それにも飽きて、音楽でも聴くかとポケットのイヤホンをまさぐっていたところで――
「やあ、一帆」
六花の声が聞こえた。視線を向けると、黒いダッフルコートにぶかりと着られているような、いつもの小柄な彼女の姿がある。
「ごめんね、待った?」
と、デートの待ち合わせをしていたカップルのような声で言うので、
「いや、僕も今来た所だよ」
微笑んで乗ってやると、「いやデートの待ち合わせじゃないんだから」と笑われてしまう。些か不服ではあるが、君が笑ってくれるなら何より。
「じゃあ、行こっか」
彼女の声に「うん」とうなずいて、二人で歩き出す。
その日の授業の事や、嫌な教師の愚痴なんかを言い合いながら、早足で歩いた。
表面では普通に会話をしているようでも、僕たちは、疲れていた。今日を生きる為にまた一つ、命を削ったのだから。
それでも追い立てられるように歩くのは、背後にある校舎の形をしたモンスターの視界から、少しでも早く逃げるため。
角を曲がって校舎が見えなくなると、六花は歩調を緩め、ゆっくりと深呼吸をする。僕はその姿を、少し進んだ先から眺める。この人のために、僕が出来ることは、何だろうかと考えながら。
さっきの早足とは対照的に、僕たちの歩みはどんどん速度を落としていく。「早く帰りたい」のに、「帰りたくない」んだ。その中間の位置に、いつも僕たちは揺れている。「学校」と「家」の、その間。その茫漠とした空間と時間の中にだけ、僕たちの居場所はあるんじゃないかとさえ思う。
……いや、そこにすら、居場所を見つけられないのが、僕たちなのかもしれない。
「帰りたく、ないな」
速度を落とし続け、終いには足を止めてしまった六花が、うつむいたまま呟くような声を落とした。
僕は鉛色の空を見上げて冬の空気を吸い、それをゆっくりと吐く。立ち昇る白い息は、胸の中のモヤモヤを晴らしてくれない。
もう一度冷たい風で肺を膨らませ、掠れた声を出した。
「……秘密基地、行く?」
僕は空から視線を落とし、六花の反応を見る。彼女は顔を上げ、僕を見ていた。その瞳の中に、微かな光が揺らめいて見えた。
『秘密基地』は、いつものようにがらんどうだ。これで人が犇めいていたら、それはもう「秘密」基地ではないので、当然なのだが。
三年ほど前、僕と、僕の父親が当時住んでいた家を退去する際、黙って作っておいた合鍵をポケットに忍ばせて、こっそり持ち続けていた。やる気のない神様がコピー&ペーストで量産したかのような同じ外見の建物が並ぶ、単世帯用の小さく古びた集合住宅の端のその平屋は、新たな住人が入る事もなく、取り壊される予定もなくただ放置され続けていて、たまに忍び込んで外界の刺激から遮断されるにはもってこいのスポットだった。築何十年かも分からない、歩くだけで軋むそのボロくて小さな家は、それでも僕にとって唯一、優しかった母親の記憶が残る大事な場所なのだ。
暖房器具を持ち込む事は出来ないので、8畳の和室には、以前用意していた寒さを凌ぐ毛布が一枚だけ置いてある。それ以外には、机も、箪笥も、本棚も雑誌もテレビもゲームも何もない。「秘密」ではあるが「基地」と呼ぶには些か寂しすぎる。それでも僕はそこで、毛布に包まって文庫本を読む、何でもないような時間を愛していた。自分の体温で毛布が暖まってくると、母親に抱きしめられているような、そんな安心感を得る事ができた。
「……なんか、懐かしい感じがする」
六花は砂埃の溜まった玄関で靴を脱いで僕の秘密基地に上がり、小さく言った。
「そう?」
僕の問いに静かにうなずいて答えた彼女は、色褪せた畳張りの和室の真ん中まで歩いて、薄汚れたレースカーテン越しに差し込む、冬の冷たく白い光に包まれた。その優しい光が彼女の髪を梳き、柔らかな茶色に透かせていく。
僕は思う。季節によって受ける印象を可視光線に色として投影するなら、夏の光は、目の痛くなるような空の青だ。秋は、燃える紅葉の赤。春は、安直だがピンクだろうか。そして冬は、紛れもなく、白だ。そこに雪が降っていなくても、積もっていなくても、冬の太陽が投げかける光は、白い冷気を放っている。
その白光に包まれる六花を眺めながら、「ウエディングドレスみたいだな」と、僕はぼんやり考えていた。彼女の向こうに見えるレースカーテンの存在が、よりその印象を強めているのかもしれない。カーテンはみすぼらしく汚れていたが、そこから降り注ぐ光は幾重ものフィルターを通されたように、外界の汚れや憂いのようなものが取り払われた、尊く美しいものに感じられた。
宿題とか、虐めとか、家庭問題とか。
欲望とか、暴力とか、命とか、時間とか、生に伴うあらゆる苦痛とか。
そういったものから超越して切り離された、静かで優しい空気になって、この光景をただずっと眺めていたい、と、僕は思う。
そんな僕の心の内とは裏腹に、六花はくるりと振り向いて、僕を見る。
「で、」
その頬には、僅かな悪戯っぽさを含んだような微笑みと、仄かな朱を浮かべながら。
「こんなひとけのない荒涼とした所に女の子を連れ込んで二人きりにして、一帆クンは一体何をするつもりなのかな?」
僕は小さく笑うように息を吐き出して答える。
「いや、別に、何かを企んでるなんて事はないよ」
「ちぇっ」
六花は唇を尖らせて、「マジメかっ」と小声でいいながら僕の腹部を柔らかく殴った。前髪で隠れて目元は見えないが、その口元は優しく弧を描いている。君が笑ってくれるなら、何より。
部屋の隅に腰を下ろし、一枚の毛布に二人で包まって、肩を寄せて背を壁に預けながら、ただひたすら窓の光を眺めていた。秘密基地は左隣にいる六花の呼吸が聞こえるほど静かで、暮れかけの空は色彩の変化が早く、オレンジから赤に、赤から紫に、紫から紺、そして黒に、古びたレースカーテンを次々に染め上げていった。この簡素な秘密基地に照明なんてものはなく、太陽が落ちればほとんど真っ暗になる。外の電柱に取り付けられた街灯が部屋に落とす光が、彼女の輪郭を辛うじて浮かび上がらせている。
「ねえ、一帆」
実際には数十分程度なのだろうけど、彼女が囁くように言った声は、数時間ぶりに聞いたような気がした。
「ん?」
「何か面白い話、して」
その唐突な無茶振りに、僕は真面目に「そうだな……」と考える。
「……君の誕生日は、1月4日だよね」
「うん」
彼女は静かに答えながら、僕の肩に頬を押し当てた。それが、僕が誕生日を覚えていた事で喜んでくれた故の行動ならいい、と思う。
「1月4日は、季節で言うと何に当たる?」
「馬鹿にしてるのかな?」
いつか僕が口にした覚えのあるセリフを、六花は真似するように言った。
「冬、でしょ?」
「そう、冬だ。じゃあこの国の冬は、暑い? 寒い?」
「え、今私、ホントに馬鹿にされてる?」
クスクスと笑いながら六花はそう言う。その小さな揺れが、僕の体にも心地よく伝わる。
「冬は、寒いよ。幼稚園児でも分かるよ」
「うん、冬は寒い。だから今僕たちは、こうして毛布に包まっている。じゃあ次の質問。冬は、どうして寒い?」
「え、そりゃあ、」
六花は少しだけ考えるように間を置いて答えた。
「太陽が遠いからじゃないの?」
狙い通りの回答だった。
「そう、大抵の人はそう言うと思う。でも実は、そうじゃないんだ」
「え?」
「君の誕生日1月4日は、実は『近日点』という名前が付けられている。これは、一年をかけて楕円軌道を取る地球が、太陽に最も近付く時を意味しているんだ」
「え、1月4日に、地球が太陽に、一年の中で一番近付いてるってこと?」
「そういうこと。冬に寒くなるのは太陽から距離が離れるからじゃなくて、地球の自転軸の傾きによって、この国がある北半球に太陽光が当たりづらくなるからなんだ」
「へえぇ、そうなんだぁ」
素直に関心する六花に、僕が言いたかった事を言ってやる。
「君は、僕たちの星が太陽に最も近付く日に、産まれたんだよ」
フフ、と彼女は小さく笑う。
「なんかそう言うと、ちょっとロマンチックな感じするね」
「でしょ」
「あ、キンジツテンがあるって事は、その逆もあるのかな?」
「そう、遠日点」
六花は少しだけ体を離し、僕の顔を真っ直ぐに見上げる。開けられた二人の体の隙間に冷たい空気が流れ込んだが、その瞳に小さく映る街灯の灯りが、星のように見えた。
「もしかしてそれって……」
「うん。僕の誕生日、7月4日だよ」
「おおやっぱり! じゃあ一帆は、私たちの星が太陽から最も遠くなる日に産まれたんだね」
「そう。僕という人間の暗さを示唆するかのようだよね」
彼女は「あははっ」と楽しそうに笑った。
「一帆は夏生まれのくせに夏っぽくないなぁと思ってたけど、そっかぁ、太陽から一番遠かったのかぁ。じゃあしょうがないねぇ」
嬉しそうに弾む彼女の声を耳に心地よく感じながら、「うん、しょうがない」と応じた。
「でもそれを言ったら、私だって暗いし、キンジツテンに見合わないなぁ」
「いや、」
レースカーテン越しに分散して見える街灯の頼りない灯りを見上げながら、僕は言う。
「君は光だよ」
彼女の体が、一瞬止まった。
「僕にとって、君は光だ。夏の日のヒマワリのような存在だ」
「冬生まれなのに」
照れ隠しのように、六花は笑った。君が笑ってくれるなら、何より。
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