第3話


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「ねえ、スプリングエフェメラルって、知ってる?」


 ある日の通学路でばったり会った僕に、六花はそう聞いた。


 雪国とは言え、12月から雪が降ることは意外と少なく今年も初雪はまだ迎えていないのだが、冬の朝はやはり相応に寒い。僕はマフラーに鼻まで埋もれながらコートのポケットに両手を突っ込んで、外気に触れる箇所を極限まで減らしている。それでも、くじけそうなくらい、寒い。


 何で冬なんていう季節がこの世界にあるのか、そんな過酷な環境の中で毎日学校に通わなきゃならないのか、僕にも納得できるように、誰か教えて欲しい。


「何それ、知らない」


 自然と、ぶっきら棒な声が出てしまう。自分の肉体と精神のリソースが、寒さを凌ぐ事に大半が割かれているのを感じる。

 でも六花はそんな僕の無愛想な声音など気にもせず、いつもと変わらない調子で話を続けた。


「私も昨日知った言葉なんだけどね。エフェメラルの意味は分かる?」

「儚い、とか、短命って事でしょ」

「さすが一帆だね。じゃあスプリングは?」

「馬鹿にしてるのかな」


 六花は「ふふふっ」と笑った。小さく揺れる黒髪で朝日が乱反射して、キラキラと寒さの結晶が踊るように見える。僕はこんなに寒いのに、彼女の紺色のプリーツスカートからは、何も守るものがない素足が伸びている。女子という生き物は、我々男子とは寒さの感覚が違うのだろうか、などと考えてしまう。


「ごめん、愚問だったね。スプリングは、春。だから、スプリングエフェメラルは、直訳すると『春の儚いもの』『春の短い命』って意味」

「うん。で、それが何?」


 僕がそっけないのは僕のせいではなく、この不必要に寒い冬のせいなのだ。まったく、悪い冬め。そういう事にして、僕はようやくその頭頂部が見えてきた校舎を目指して、歩く足を早くする。隣を懸命についてくる六花は、頬を上気させて白い息を立ち昇らせながら答えた。


「スプリングエフェメラルは、ある特性を持った花の総称だよ」

「へえ、短命な春の花っていうと、桜とか?」

「ううん。カタクリとか。ショウジョウバカマとか。イチリンソウとか」


 そう言われて、それらの花の姿を頭の中に思い浮かべようとしたが、どれも想像の域を出ない。つまり、こんなのかな、という僕の妄想にしかならない。


「今、花を想像しようとして諦めたでしょ」


 僕は無言で応えた。顔が赤くなっていたとしても、マフラーで見えないはずだ。


「ふふっ、一帆は勉強は出来るけど、学校の授業以外にはほとんど興味ないもんねぇ」

「高校二年生という今の僕らには、学校の授業が一番大事なんじゃないの? それ以上に大事なものがあるなら、文部科学省が必修科目に入れてるだろうさ」

「すぐに屁理屈を言うなぁ」


 六花は楽しそうに笑いながら、「まあ、一帆らしいけど」と、声を白い息に変えながら言った。


「……で、何なのさ?」

「うん?」


 僕の問いに、六花は素で分からない顔をしやがった。

 学校の授業にしか興味がないという訳ではない。それがやらなきゃいけない事だから渋々やっているだけであり、さらに、それ以外の事に興味を持つようなきっかけや時間がこれまでなかった、というだけだ。


 ……いや、それも、「言い訳」なのかもしれない。

 今、自分が収まっている境遇から一歩踏み出す事で発生する無用なトラブルや軋轢を、僕は死ぬ程面倒臭く感じている。ただでさえ、生きる事は窮屈で、ストレスフルで、悩みは尽きない。腕の中に沢山の問題を抱えたまま、その上でさらなる悩みを抱えようとするほど、僕の腕も心も大きくはない。


 でも、踏み出さなければ変わらないという事も、理解はしている。僕がどこかに踏み出す事で、腕に抱えた沢山のストレスを放り投げるか、消化する機会を得る事も出来るのかもしれない。でもやはり同等に、今以上に沢山の不快を被るリスクもある訳で、だから僕はここから足を踏み出さない。出せない。


 でも、今に限って言えば、隣を歩く少女がふと口にした単語の意味をもっと知りたいという程度の興味であれば、そんなリスクを負うまでもないだろう。


「そのスプリングエフェメラルは、どんな特性を持った花なの?」

「ああ」


 六花は口を丸く開いて、そこに開いた右手を申し訳程度に添えた。


「脱線しちゃって肝心な所話してなかったね。でも、そうやって聞くって事は一帆が興味持ってくれたみたいで嬉しいな」

「そりゃ、あんな中途半端な紹介じゃ、続きが気になるじゃん」

「なるほど、敢えて大事な所を伏せる事で相手の興味を引けるのか。将来営業とかになったら使える技術かもね。覚えておこー」

「六花……」


 溜息混じりに名前を呼ぶと、その名の持ち主の少女は「あはは」と軽やかに笑う。


「ごめんごめん、正直そんなに引っ張る程の話でもないしね。音の響きが気に入ったってだけで、大した意味はないんだ」


 彼女は右手の人差し指を立てて顎に添えると、思い出すような顔をしながら話した。


「えっと確か、春先の短い間に花をつけて、夏には姿を消しちゃうんだけど、地中で茎だけが生き延びてて、また次の春になったら地上に顔を出す、みたいな感じだったと思う」

「……ふうん」


 六花が「大した意味はない」と言ったように、引き伸ばされて高まった期待を満たすような内容ではなく、またそっけない声が出てしまった。


「あー、興味なさそうな声ー。一帆は分かりやすいなぁ」


 悪かったな、と心の中でだけ返す。


「でも、なんとなく素敵な響きじゃない? スプリングエフェメラル」

「……その感覚は分かる」

「ふふ、やっぱり。一帆、こういうの好きかなぁって思ったんだ。儚さとか、脆さを感じさせるようなもの」


 跳ねるように楽しそうな声で、六花はそう言う。

 理由は分からない。年頃というものなのかもしれない。ただ何故だか僕には、そういったものたちへの憧れというか、シンパシーというか、愛着のようなものを持ってしまうのだ。


 エフェメラル。フラジャイル。短命なもの。儚いもの。脆いもの。

 簡単に壊れてしまいそうなガラス細工や、すぐに散ってしまう花など、そういった短命のものたちが綺麗に光り輝くのは、その身に内包する儚さが、刹那的な美しさを引き立てているからではないかと、僕は思う。


 夜空に固定されて散っていかない花火など、それはLEDの電飾と変わらない。初めは物珍しくても、永遠にそこに存在するのなら、やがてそれは当然の事となって、人々の興味も関心も失われていくだろう。花は散るから美しい、というのは、よく言ったものだ。


 永遠ではないから、我々はその瞬間に着目するんだ。時限付きの存在だから、その輝きの裏にある、各々に与えられたタイムリミットを垣間見て、価値を感じる。意識的にしろ、無意識にしろ。


「でさ、」と、六花は言葉を続ける。

「日本語では、走るーとか、食べるーとか、動詞の最後が『る』で終わるものが多いでしょ?」

「そうだね」


 彼女が次に何を言うか、何となく分かった。


「『エフェメラる』って、なんか動詞っぽくない?」


 予想はできたけど、それでも少し笑ってしまう。


「なにそれ。どういう意味の動詞なのさ」

「だからー、エフェメラってるような時を指すんだよ」


 堪えきれず、噴き出した。


「回答になってないし、『エフェメラってる』って音が……もう……」


 笑いをこらえて震えていると、少し体が暖まってくるように感じる。


「動詞だと考えるとさ、色んな形態が作れそうじゃない? あの、中学でやった、アレ……」

「子音語幹動詞の五段活用だね」


 走らない、走ろう。走ります。走る。走るとき。走れば。走れ。というアレだ。国語教師の指示で「未然連用終止連体仮定命令」と何度も呪文のように唱えさせられたのを、今でも覚えている。


 六花は人差し指を立てた右手を、指揮棒のように楽しげに振りながら言う。


「そうソレ。じゃあ活用してみよう。はい、未然形」


 ピっと指揮棒を僕に向けて。


「エフェメラらない、エフェメラろう」

「連用形」

「エフェメラります」

「ぶふっ」


 噴き出した六花につられて僕も笑いそうになってしまうが、視線を逸らして堪えた。一つ咳払いして彼女は続ける。


「失敬。終止形」

「エフェメラる」

「連体形」

「エフェメラるとき」

「仮定形」

「エフェメラれば」

「命令形」

「「エフェメラれ!」」


 最後だけ六花も参加し、二人の声が一致した。さすがに堪え切れず、二人で笑い出す。


「あははっ、エフェメラれって! なにこのマヌケな音!」

「エフェメラらないってのも、大分やばいよな」

「あー私もうそこから笑い堪えてたもん」


 笑いながら歩いていると、校門が見えてくる。生徒達は皆寒そうに体を縮めながら、穴に流れ込む液体のようにそこに吸い込まれていく。この中の一人でも、本心からここに来たくて来ている人は、いるのだろうか。


「で、結局『エフェメラる』って何を表す動詞なの」

「うーん、やっぱり、儚さや短命さを感じさせるような動作をしている状態かな」


 僕はまた「なにそれ」と笑う。さっきの笑いでだいぶ体が暖まって、笑いのハードルが下がっているのを感じる。そういう時って、あるだろう。沢山笑うと、その後しばらくは些細なことでも笑ってしまうような、エンジンが暖まっているような状態。


「でもさ、それってちょっと、」


 六花が一歩踏み出して、そう言った。自然と僕の視線は、こちらに向けられたその顔に向く。少し悪戯っぽさを浮かべた微笑みで、彼女はその桜色の唇を動かした。


「私たちみたいじゃない?」


 ささやくような声で。

 その意味を正しく汲み取れず、僕は校門の前で足を止めた。そんな僕を置いて、六花は校門を通る。「じゃ、また教室でね」なんて小さく手を振りながら。


 真冬の風が彼女の髪を揺らす。黒のダッフルコートの後ろ姿が遠ざかっていく。飲み込まれていく。その先にそびえ立ち僕らを待ち受ける、巨大なモンスターに。


 僕は鼻から冷たい風をゆっくり吸い込み肺を満たした後、口からそれを吐き出した。息は白く、鉛色の空に立ち昇っていき、二人で笑って暖まった体が、内側から急速に冷えていく。エンジンが音をひそめていく。


 僕たちは、エフェメラっている。儚さや短命さを感じさせるような動作をしている。

 本来であれば、生命力や溌剌さといった真逆の方向性のエネルギーを迸らせているはずの、この青春と呼ばれる年頃に。

 僕たちは、命を削って生きている。それは誰でもがそうなのだろう。僕らは皆、命を削って火を灯し、この世界で今日を生きるエネルギーにしている。


 でも僕たちは、その削る命が潤沢ではないという感覚を、無言のうちに共有している。一日を乗り切るために命を削る度、歩み寄る死を静かに感じている。


 でも、だからこそ。

 いつか散る花は美しく、砕けるガラスは透明に輝き、いつか消えるから花火は人の目を惹き――



 そして君は、美しいのだと、僕は知っている。


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