昭和呪術師 神林稲子の霊媒旅行記〜戀獄呪いの巻〜

小谷杏子

霜夜の章 戀獄〜レンゴク〜

壱・色気よりも食い気

 色恋に忙しい年頃の男女のはなしをしよう。

 彼らは運命の糸を手繰り寄せ、あるとき実を結んだ。

 劇場の大スターと、子役上がりの女優が織りなす淡く清らかな恋は紛れもなく本物だった。彼らは人目を忍び、ときに甘く切なく恋焦がれ、愛に溺れたそうだ。

 しかし、純愛とは深まれば深まるほどドツボの奈落である。人は誰しも気づかぬうちに、因果の糸でがんじがらめに縛られているものだ。



 さて此度こたび師走しわすも佳境。

 敗戦後の日本では、この十二月という季節を祭りムード一色に染めあげた。クリスマスの解禁に伴い、二十四日から二十五日まで踊り明かすというのも恒例行事となっており、警察機構の規制も年々厳重化してきた。

 ぷぅーんと屋台のラッパが鳴る夜の町は、はしゃぎ騒ぐ若者と、子どもたちへプレゼントを買おうと百貨店を往復する夫婦がひしめく。

 そんな中、浮かれた連中に顔をしかめたサラリーマンたちが、おでんの屋台で、ある噂を垂れ流していた。世間の波に乗れない者たちは、片隅で侘びしくたむろうものである。

「あー、そう言えば、去年だったかねぇ。狸穴まみあな劇場の役者が死んだのは」

「新聞にも大きく出ていたもんな。名前はなんていうんだったか」

「えーっと……来島きじま哲志てつじ! 死んでから有名になった俳優だ。あれから一年か。早いなぁ」

「恋人の女優に! なーんて派手に報道されてたもんなぁ」

「しかし、あれだろ? 首がまだ見つかってないんだろう?」

 冴えない男たちは肩を寄せ合い、ヒソヒソと恐怖話に花を咲かせた。

 外は寒風吹きすさぶ霜夜である。グツグツと煮えたぎるおでんの汁と湯気が彼らの鼻を温めた。

「なんでも、赤い糸で結んだ小指を切り落としたとかで。しかし、裁判じゃ無罪。確たる証拠もない。ただ、呪っただけ。そんな嘘みてぇな話さ」

 一人の禿頭が、猪口をぐいっと一気に飲み込み「でへへ」と卑猥な笑いを浮かべた。これにつられて他の男らもわらう。そんな中で、唐突に凛と鈴音のような女の声がした。

ほど。法じゃ裁けない悪もあるってことさね」

 男たちは一斉に左側を見やった。

 あでやかに真っ黒なショートヘアーをお釜帽かまぼうのつばから覗かせた、白肌の妙齢の女が座っている。彼女は箸で大根を切り、真っ赤な口紅で彩った唇から白い息を吹きかけ、ぱくんと口に運んだ。出汁だしで溢れた口元を拭って宙を見上げる。熱かったらしい。ハフハフと喘ぐように、大根を喉に流し込んだ。

 突然現れた女に、男たちはどよめいた。高架下のしみったれたおでん屋台に、可憐な花が一輪とくれば、仏頂面のおでん屋も鼻の下を伸ばしている。

「お嬢さん、いつからそこにいたんだい」

「ついさっき来たばかりよ。なんだかこわーいお話をしているようだから、興味があってね」

 そう言いつつ、彼女はおでん屋に酒を要求した。ぐらつく鍋から白いとっくりを引き上げ、カウンターに置かれる。つんとほのかに甘い清酒の香りが、湯気とともに立ち昇った。

 彼女は猪口ちょこを持ったが、不意に隣に座る小太りの男を見つめた。大きな瞳に見つめられれば、男はあわあわと咄嗟にとっくりを傾ける。

「ありがとう」

 にこやかな微笑みに、男はアルコールで上気した頬をさらに赤く染めた。これに構うことなく、彼女はぐいっと猪口の酒を煽る。喉を焼くような熱燗あつかんに、彼女の目がギュッと固く瞑られた。

「さて、お話の続きなんだけれど、その女は一体どうなったの? 呪いで人を殺した女というのは、今もまだ劇場にいるのかね」

「なんでそう思うんだい?」

 妖艶な彼女の登場に呆気にとられていた禿頭が訊く。これに、彼女は「ウーン」と唇を蕾のようにすぼめて逡巡した。やがて、こくんと首を傾げ、カールしたまつげをシパシパしばたたかせる。

「……一杯付き合ってくれたらお話してあげる」

 男たちは惚けた面を見せた。酔いも手伝い、また彼女の思わせぶりな仕草に呆気なく悩殺された。


 ***


「ふふーん。チョロいもんだわ」

 味が染み込んだ卵を一口で食べるのは、先程までサラリーマンたちを誘惑し、酒を飲ませていた妖艶な女。豪快に猪口を傾ける横では、男たちがすやすやと安らかな寝息を立てており、彼女はそれをニヤリと笑いながら見つめている。

「今のうちに食べとこう。おじさん、がんもと大根、こんにゃくを二つずつ。あ、あとお酒も追加で」

 色気は何処どこへやら。朗らかに快活で、酒をしこたま飲み干すウワバミ――その正体は、神林かんばやし稲子いねこである。

 おでんを食らい、酒を飲み、彼女もだんだん陽気になってきた。「うひゃひゃ」と奇妙な笑いを上げ、それからようやっとベンチを立つ。千鳥格子ちどりこうしの厚手コートをひるがえし、ブーツの底をかつんと鳴らした。

「お嬢さん、お代は」

 おでん屋が慌てて言う。これに、稲子は眉をしかめた。

「そこのおじさんたちが払ってくれるって」

 そんな約束はしてないのだが。

 おでん屋は肩をすくめて「毎度」と声を掛けてきた。これに稲子も機嫌よく「ごちそーさまぁ」と手を振った。その時、目の前が急に暗く陰った。

 行く手を阻まれ、稲子は酔いが回った足をふらつかせた。それを抱えるように、温かい手が彼女の腰にまわる。

「おっと、危ない」

 ハンチングにトレンチコートという出で立ちの男だった。稲子は気まずさを湛えて元に居直った。

「急に出てくるんじゃないよ」

 礼よりもまず飛び出したのは叱責だった。ツンケンとした態度を見せると、大体の男は追い払える。しかし、彼は愉快そうに笑った。

「あははは。相変わらずですね」

 稲子は眉をひそめ、その顔をよく見ようと背伸びするように覗いた。瞬間、彼女は顔をひきつらせて仰け反った。

「げっ」

「お久しぶりです、稲子さん。随分と探したんですからね」

 ハンチングを取り、あらわになった顔は丸い目と尖った鼻が印象的な好青年。その実、好いた女を悪癖あくへきを持つ都会の学生。

見弦矢みつるや陽司ようじ!」

 稲子は指をさして大袈裟に叫んだ。

「今年の一月以来ですか。早いですねぇ。あの恐怖の村であなたに出会い、それからすぐに追いかけてきたんです。それなのに、全然見つからないし、見つけたと思えば見知らぬ男たちと酒を飲んでいる。ハレンチですよ。このロクでなしの浮気者。惚れ直しました」

「なんでよ! 意味がわからない!」

 稲子は髪を振り乱した。今年の初め、とある呪いが息づく村で二人は出会った。仕事のためとはいえ、彼の悪癖を利用したが裏目に出てしまい、今日こんにちまで逃げ回っていたのである。

「――見弦矢」

「はい?」

「次に逢ったら、あんたを呪い殺さなきゃいけなかったんだ。忘れてた。それが今なのね」

「え? えぇ? ちょっと待ってください、稲子さん!」

 問答無用。稲子は目を光らせ、三日月のように口の端を緩ませた。

 おもむろにコートを脱ぎ捨て、ワンピースの袖をたくし上げる。途端、彼女の左目から怪しい桜色の煙がまばたきと共にくゆり、見弦矢は両手を上げた。

「待って、何をする気ですか」

「アタシの宿は、十二月になると力を増すのさ。これに触れるとあんたは、

 情のない脅しに、見弦矢はごくりと喉を鳴らして唾を飲んだ。

「そんな大袈裟な……ほら、仕舞って。はしたないですよ」

 ゆらりと距離を詰める稲子に、見弦矢は慌ててなだめすかそうとした。

 今や、彼女の目は電灯のように爛々らんらんと光っている。その目から、しなやかな枝葉が左腕へと巻きついた。

 追い詰められた見弦矢は電柱に背をくっつけて息を殺した。稲子の手が見弦矢の頬をつつっと撫でる。

「あんた、アタシに惚れてるんなら、死ねるくらいの誠意を見せなさいよ」

「嫌ですよ。だって、まだあなたのことを抱きしめてもいないんだ。たとえあなたにだって殺されたくはない」

 彼は息をひそめるように早口で喋る。

 しかし、触れられたのに死なないとは。これに気がついた見弦矢はキョトンと目を丸くした。

「あれ?」

「冗談よ、じょーだん。ちょいとからかっただけじゃないの」

 稲子は袖をおろし、脱ぎ捨てたコートを拾いに走った。大きく叩き、すぐに肩に引っ掛ける。右目はすでに正常だ。見弦矢は納得がいかない様子で、じっとりと目を細めた。

「はぁ。酒に酔った勢いで殺されちゃかないませんって。それに僕は、理由もなくあなたの前に現れたわけじゃないんですよ」

 そう言って、見弦矢はコートの内ポケットから名刺を出した。訝る稲子の前に掲げる。そこには『私立探偵 見弦矢陽司』とコンパクトな文字が並んでいた。

「ふうん? ストーキング術を生かした天職ってわけか」

「えぇ、まぁ。つい先日、一人の女性から依頼を受けまして。なんでも、そうなんです」

 皮肉をものともしない見弦矢だが、その言葉に引っかかりを覚える。稲子は彼のコートを掴んだ。

「それって」

「はい。今しがた、噂の渦中にあった笹本ささもとかほさんからの依頼です……ところで、稲子さん。お金に困ってるんでしょう?」

 まったく、食えない男だ。したり顔の見弦矢に、稲子は何も言えずにいた。

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