第6話 空鯨の世渡り
「――よし、まずはクアールの病性鑑定から行くぞ」
「はいはーい。ただいま荷物を載せるねっと」
浅間がそう呼びかけると、ノトラが動いた。
この世界はせいぜいが千人程度の集落が散在する程度なので文化のレベルはもちろん低い。今まで数度外に出た折も馬だったので、馬車が来るだろうと推測していた。
けれどノトラが手綱を引くというのに動物がついて歩く音が聞こえない。
手綱が上向きに伸びているだけあって相当大きな動物でも引っ張ってきているはずだが妙なことである。疑問に思って目で追うと、そこには妙なものが浮いていた。
クジラだ。
二十メートル程度のクジラが宙に浮いていた。
OK。早速、予想の斜め上だったし、今までに学んだ常識にも含まれていない事態だ。
ぽんと常識外の事態が起こったことからして今後もすぐに予想を超えられそうである。浅間は目を伏せ、驚きの感度の再設定に努めた。
そんな仕草にノトラは首を傾げてくる。
「あれ? コトミチ、空鯨を見るのは初めてだっけ?」
「この一ヶ月、ずっと事務所に軟禁状態だったしなぁ」
思い出せば自由時間というものはほぼなかったかもしれない。
まず体調不良で倒れること一週間。その後はこちらの言語習得と基本情報の確認。
勉強に煮詰まってくると護身術の訓練だとノトラにどつきまわされたし、日本の食材に興味を持ったスクナは料理を知りたがっていたし、事務所の設備点検もあった。時間的余裕はこれっぽっちもなかったのである。
「……っ! 不自由を敷いてしまったのはすみませんでしたっ!」
軟禁という表現も含め、心苦しく思ったらしいスクナはポニーテールがひっくり返る勢いで頭を下げてくる。
二月辺りから様々な事態に見舞われていた浅間からすると、最早今さらな話だ。
罪悪感を抱いた様子であれこれ尽くそうとするスクナと、雇われの身として十分に愛想良くしてくれるノトラなのでディートリヒとは比べるべくもない。
「いや、俺の体調も外気に晒されても大丈夫かわからなかったんだ。徐々に慣らしたと思えば妥当な流れだったさ」
意図したところではないだろうが、理には適っている。
食事にしても、ディートリヒの言葉からするにいきなりこちらの飲食物を摂取し続けては症状が悪化の一途だったかもしれない。日本からの支給品と料理で徐々に慣らすのも必要ではあっただろう。
「……コトミチさん、我慢していませんか?」
フォローをしたつもりで言ったのだが、スクナは逆に不安げに問いかけてくる。
彼女は少し逡巡すると、ひしと手を両手で握ってきた。
「あなたにあらぬ重責を与えているのは承知です。だというのに優しすぎます。溜めているものがあれば、遠慮なく吐き出してください。そのためにもまず、何でもいいので私にお願いを言ってください。応えます!」
何をお願いされるともしれないのによく言えるものだ。しかも、こう口にしたからには本当に何を願われても有言実行だろう。
真っ直ぐな瞳で見つめられては断るのも難しい。
当初、ヤバい女だとは思ったがスクナは並々外れて生真面目で責任感のある少女とも言える。そういう点ではここひと月ブレていないので、好印象にも思えてきたところだ。
「――ともあれ、今は忙しいから後回しだな。ここぞという時に使わせてもらう」
「えっ、そんなっ!? コトミチさんはそう言ってうやむやにしませんか!?」
「しても困らんだろうに」
「困りますっ!」
食い下がろうとするスクナから、積み込み作業を黙々とおこなっていたノトラに目を向けた。
と言ってもこの鯨の背に載せているわけではない。馬と同様に鞍をつけており、そのあぶみに荷物を積んだ籠をフック掛けしていた。クジラが飛べばそれはあたかも飛行船の船体部分のように見えることだろう。
「任せっきりで悪いな、ノトラ」
「ふふん、お安い御用だよ。ウチら流浪の民にとってはこういう荷運びこそ家業みたいなものだしね。はい、この子へのご褒美。コトミチがあげてみたらどうかな?」
「コトミチさん~、私の話を聞いてください~!」
とうとう涙目になって縋りついてくるスクナをよそに、浅間は空のカップをノトラから受け取った。
彼女はサイドポーチから乾燥したブロック状の何かを取り出すとそこに水を入れて棒で混ぜ、ペースト状にする。
匂いや残骸からすると、これは干したカブトエビの塊とでも言うべき代物のようだ。釣りの餌になっているオキアミの冷凍ブロックを思い出す。
それを目で捉えた空鯨は口をあぐあぐとさせて擦り寄ってきた。
「この世界で鯨ってのは牙も鱗もない弱者でね、魔法を使って生存競争をしてもこの巨体じゃいいように襲われるだけだからって人間がいる空に逃げてきたって言われてる。頭は良いし、巨体の割にあまり食べないからって馬より人気の動物なんだよ」
「そんな進化を辿ったのか。ちょっと興味深いな」
「いやいや、進化というか生存戦略だよね。それはともかく舌の上に餌を出してやって」
ノトラが浅間の手を上げさせると、クジラはカバのように口を開いて待ち構える。水族館で芸をするイルカはその都度、魚を与えられていた。それと似たご褒美なのだろう。
ペーストを与えてやると、むぐむぐと飲み込み始める。
浅間はそんな鯨の顔を撫でた。
質感は普通の鯨類のゴムじみたものではなく、しっかりとした角質や皺を感じる。
カバとクジラは共通の祖先を持つらしいが、そのカバに近い皮膚に出戻るような進化をしたようだ。
カップを受け取り、サイドポーチにしまおうとするノトラにクジラはすりつくが、次のご褒美は到着後だろう。彼女は頭を掴まえて撫でるだけだ。
そんな中、浅間の目には不可解な様子が映る。
ノトラは催促で甘噛みをされてもどこか複雑そうな表情で受け止めるのみで、クジラの向こうに何かを見ているような様子だった。
けれどそれも長くは続かない。彼女は元の表情に戻ると、こちらを見つめてきた。
「あ、そうだ。こいつを見ていたら思い出した。実は近々弟がこの近くに来るらしくってね。軟禁に引き続き、故郷に帰れないコトミチには申し訳ないんだけど、その時は暇をもらってもいいかな?」
「気にするな。大切な身内だろう? 少なくともこの一ヶ月は会えていないだろうし、好きにしたらいい」
「ああっ!? ですから、コトミチさん!」
ノトラの言葉に触発されたスクナはさらに強く催促してきたのだが、さっきも言った通りだ。ひとまず用件があるので空鯨の鞍に乗る。
御者はノトラで、その後ろに浅間、スクナと一列の三人掛けで空に飛び立った。
「ん、そうだね。大切なんだ。身内と気楽に暮らせるなら、ウチは大抵何でもするかな」
この時、浅間はせがんでくるスクナに意識を向けていて全く気にも留めていなかった。
ノトラが空鯨を見て思い出したと言ったように、彼女の出身である流浪の民は何かに縋りでもしないとなかなかに生きづらい一族なのだ。
彼女がなんとなく吐いた言葉に重い意味が含まれていたことなんて露も気づかないのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます