第5話 浅間の始まりから今へ ③
さて、状況を整理しよう。
新年度に向けて異動希望調査があった辺りから妙な動きがあり、二月には自衛隊で謎の基礎訓練をひと月も課せられた。その末、三月になったら例の“研修”とやらで異世界に放り込まれたわけだ。
(今までの話からするに、この異世界には死病とやらが蔓延している。前に俺の世界からやってきた人はそれへの抵抗性がなくて重症だった。一度来てしまえば数日は往来ができないから、十分な治療ができずに死亡。次の機会に当たる俺では、環境を整えた後に三十日間の慣らし期間を与える。それが“研修”とやらってところだったか)
何故こんなことが理解できなかったのか、今までどこかで見聞きしたはずの情報がようやく一つに繋がってきた。
異世界だのなんだのと信じがたい情報ばかりだが、認めざるを得ない。本物なのだろう。
浅間は窓に目をやる。
窓は土に埋もれているかのように黒塗りだ。風や鳥のさえずりすら聞こえない時点で本当に地中にあるかとも思われたが違う。この施設が地上に建っているのは確認した。光と音を遮断していることこそ魔法の力らしい。
「コトミチさん、気分が優れませんか?」
真横で尋ねてくるのはスクナだ。
歳は十七。こちらの世界の住人で、銀糸のような髪の少女である。
彼女は着物に似た装束を身にまとっており、気品や神聖さが感じられた。確か、魔狼の巫女と自称しただろうか。そんな子が真心込めて気配りをしてくれるだけで格別の気持ちが湧き上がる――ということもない。
怪しい。美少女。その二点で役満だ。警戒心の方が勝ってしまう。
「また窓だけでも開きますね」
彼女が指を振るうと、窓にかかっていた漆黒が払われて遠方に魔獣のオベリスクが見えた。あちらもこちらも彼女の魔法らしい。
その性質は“静止”。
パンと手を叩いた瞬間にあの黒で空気を包むと音は掻き消え、解除するなり音が元通りに流れる。浸透すれば光も熱も音も通さず、中身ごと全てが静止し、不動化する黒。時間停止能力とでも言えばいいのだろうか。
その能力を以ってこの施設――異世界に建てられた家畜保健衛生所に軟禁されているというのが現状だ。
窓に向かって歩こうとする彼女を呼び止める。
「いや、大丈夫だ……」
「ではお水……はその管から摂取されているんですよね」
「そうなる」
この世界に来て一日が経過したのだが、声に張りがない通り浅間は体調を崩して宿直室で寝込んでいた。それも単なる体調不良ではない。嘔吐と下痢に始まったかと思ったら、現在は腹水が貯まるという異常だ。
浅間は動けるうちに血液と腹水を調べたのだが、血液性状では脱水があるくらいで平均値からの変動がなく、腹水も炎症などの異常から生じる成分ではなかった。
病原体の感染にしてはいやに急性で、普通の病気とは異なる形で水分の局所集中が起こっている。
つまり――
「これが死病ってやつか……」
そういう不可解な諸症状を出すものらしいので間違いないだろう。
どうしようもないので輸液と利尿剤で水分を補填しつつ、腹水を排出する対症療法をしている。
スクナは浅間の横に座り、眉をハの字に寄せた。
「そう言っていいかは悩ましいです。状態がかなり軽微ですし、死病は自身の能力次第では抑え込めたりもするので症状の好転と悪化を繰り返します。あの、それに関してあなたが臥せったら手紙を渡してくれとディートリヒさんから言われていまして」
差し出されるのは、古風にも蝋によってシーリングスタンプが押されている手紙だ。
開けてみると、中身は日本語が印刷された用紙となっている。
『研修を開始した同志へ』
彼は自分にとって諸悪の根源だ。この冒頭部分だけでも手紙を破り捨てたくなったのだが、ぐっとこらえる。
『平穏な君の世界へ旅立った私にとってはさしたる障害もなかったが、君は死病に類似した症状で臥せっているだろう。それは魔法の神秘故だ。その世界は大気にも大地にも、人体にも魔法の源が満ちている。それを取り込んでしまったが故の軽い症状だと考えて欲しい。先にこちらに来て研究し、判明したことや今後の予定は報告しておこう』
前置きの後に続く言葉に浅間は目を通す。
この異世界では古くから魔獣が動植物を招き寄せていた影響か、動植物は非常に近い存在が多い。唯一の違いは魔法の源であり、その影響で変異をした種もあるが姿が似ていれば遺伝子的にも近い傾向があるようだ。だが、完全な固有種もいる。
これから三十日は体を慣らすことと一般常識の習得、最低限の護身訓練をおこない、活動を開始する。
国家間の交渉や家畜保健衛生所建設のために門を使い過ぎ、死病発症者の調査研究はまだ着手できていない。見つけたら保護して検査させてほしい。
主にそんなところだ。
「ほほう。国家間の交渉なんてものもやっぱりあったのか」
「その件は……」
呟いてみるとスクナはやましいことがありそうな反応を見せた。
目を向けていると、観念した様子で口を開く。
「言葉も通じない状況でしたので接触が上手くいかず、最初の使者は逮捕されたそうです……。尋問で門のことを聞き出され、日本から兵が数人入り込んだところでこちらも門の接続を切りました。その後、きちんとした話し合いをするため、魔法を秘めた道具で富士山という山を吹き飛ばす力を見せて、ようやく交渉の席を持つことができたんです」
「あの水蒸気噴火にそんな背景が……」
異動希望調査以前から実は影響があったとは驚きだ。
けれども少しは理解できる。
狭い日本としては様々な資源が眠る異世界という土地が魅力的だが、門は多くの人を運べないので自衛隊を送り込んでどうこうはできない。
一方、こちらは魔法のおかげで個人戦力が高くとも争う余裕はない。
両者とも力に訴えるのは得策ではなかったのだろう。
だが、それにしたって巻き込まれた浅間の立場からすればとんでもない。そもそも一体何で白羽の矢が立ったのだろうか。
それについても手紙に書かれているかと思いきや、本文は終わってしまった。最後に残った一枚に、追伸があるだけだ。
一応、これにも目を通しておく。
『こちらの世界の女性は良いものだ。エルフは種族的に細身ばかりな上、豊満なダークエルフとの交流は世間体が非常に悪かった。今は非常に楽しい夜を過ごせている』
(こいつは絶対に一度殴ろう)
本当にどうでもいい追伸だった。しかもこの文にはさらに続きがある。
読む気が失せることだが、万が一ということもある。破り捨てるのは目を通してからだと浅間は続きを読んだ。
『君に至っては私と違って替えが効かない。この国が私に多くを融通してくれるように、そちらでも可能な限りは融通されることだろう。夜でも何でも満喫し、職務を果たして欲しい。同じく命を張って異世界に身を投じた者として幸運を祈る』
自分はちゃっかりと楽しんでいる文章だったというのにこの締め括りだ。何か胸にもやっとしたものが残ってしまう。
そんな表情が気になったのか、顔を覗き込んでいたスクナはおずおずと問いかけてきた。
「あのう、もしよろしければ私も拝見していいですか?」
「夜の生活が充実しているって与太話があっただけだぞ」
隠すものでもないので渡してみると、彼女は最後の一枚を目にしたところで耳まで赤くなり、手紙で顔を隠してしまった。
立場や身分は高そうだというのに初心な反応である。
非常に危険な任務の代わりに美女を付けられた言える状況だろうか。裏社会ではあるのかもしれないが、一般人たる浅間には馴染みのないことだ。
それはそれとして、思考を巡らせる。
(さて、どうするのが得策か……)
信じ難い内容ながらも、ある程度は状況を説明された。
今回の事態にはこちらの国と日本も関わっている話も聞いたし、異世界で軟禁状態だ。はっきり言って普通の人権では語れないだろう。
(俺は替えが効かない……か)
手紙の中、唯一役に立ちそうな言葉だ。
こんな無理を通せる権力者には反発するより、望まれる通りの仕事と成果を上げて理想的な駒となる方が賢いのではなかろうか。その上で人的支援をしてもらい、新人の指導者となることで徐々にこの立場から脱却する。
そう、それこそ着実な脱却ルートだろう。
(怪しかろうが、この子たちとは仲良くやらなければいけないわけだ)
うむと結論付けた浅間はスクナと、ちょうど飲料水を取ってきてくれたノトラに目を向ける。
「まだまだ事情はよくわからないが、できる限りは協力するからよろしく頼む」
そう言ってみるとどうだ。彼女らとしては歓迎する状況だろうに、スクナは驚いた様子を見せた。
「えっ!? コトミチさん、その……いいんでしょうか。この状況はあなたも混乱されているでしょうし、もう少し時間をかけてご説明することになると思っていたんですが……」
「説明はもちろん頼む。ああだこうだと言い立てても仕方がないだろうから、こちらとしても最大限理解に努めるって話だ」
「はいっ、助かります!」
最大限の譲歩をして伝えると、彼女は満面の笑みで喜んだ。こちらのことを見直して、少し尊敬でもするような目の輝きまで混じるので少しばかり心苦しく思えてしまう。
ノトラはそんな調子に乗ってこなかったが、ふーんと観察するような目を向けていた。
計算もあれば誤解もあり、一歩身を引いた観察もある。
こうして、浅間の異世界生活は始まりを告げるのであった。
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