第3話 浅間の始まりから今へ ①

 浅間が異世界に異動になったのは四月のこと。その半年前に当たる十月末、彼は某県の県庁畜産課に勤めていた。


 畜産課にある課は大まかに言えば三つ。

 補助金や家畜改良増産などに関する畜産経営、その名の通りの畜産振興、防疫に関する家畜保健衛生所に指示をしたり、あちらの検査結果をまとめたりする家畜衛生だ。


 浅間が席を持っているのはそのうちの家畜衛生係だった。


「今度の防疫演習のスライドも作らないとなぁ」


 食後なのでインスタントコーヒーをすすって少しでも眠気を飛ばしながらキーボードを打った。


 冬にかけて水禽類が日本にやってくると鳥インフルエンザが発生する。

 まずは死亡した野鳥が見つかるので、その報告を受けると死体を検査キットで調査。陽性ならば結果を報告。各地で死亡野鳥の報告がどんどん増えてくると、ついには養鶏農場で発生というのが流れだ。


 死亡野鳥の報告受付と調査は同じ県庁の林業課も担っている。この流れを職員に説明するのが林業課の分野。続いて、有事の殺処分時における手順は畜産課や家畜保健衛生所の担当者が説明し、出動を求められる職員には参加してもらうという演習だ。


(正直、これは例年の催しを参考にすればどうにかなるんだけど、少し前が辛かった……)


 写真の更新と、説明の推敲、変更点などをチェックしつつ浅間は数ヶ月前を思い出す。


 俄かには信じがたいが、約一年前、富士山が大爆発を起こしたのだ。

 学術的に言うと水蒸気噴火――地下水とマグマが触れたことで水蒸気爆発を起こしたらしい。


 そのおかげで広範囲における畜舎が被害を受けた。

 山水や地下水を引いて家畜の飲み水にしている農家も多いのだが、地下水の分布変化が起こってしまったらしく補助金整備。さらには山の形が変わって風向きも変わったので、吸血昆虫の分布とアカバネウイルスの感染状況大きく変化した疑いが出て浸潤調査。


 大地震発生時もそうなのだが、こういった災害では後々に活かすために知識の共有も必要となる。そのため、影響を受けた各項目で業績発表をしろと指示が出て、学会発表じみた準備をするなどなど。

 思い出すだけでもため息を吐きたくなる業務が続き、ようやく落ち着いてきたところだった。


「おーい、浅間さん。次は君の面談だよ」


 課長がひらひらと手招きをして事務室の入り口に立っている。


「ただいま向かいます」


 年末や年始の準備同様、大事が終われば空気も切り替わっていく。この異動希望調査の面談もそれを象徴するようなイベントだ。

 浅間は自分の業務評価のシートを印刷し、上司が待つ別室に向かう。


 そこでは普段とは違う光景が待っていた。


(誰だ、この部外者? 人事が顔を見せることなんてなかったし、そもそも県庁関係者の雰囲気じゃないよな)


 家族の介護などプライバシーに関する要望も加味する場のため、畜産課長や参事など課内の管理職が面談することはあっても部外者が混じることはない。

 そのはずがフードを目深に被って顔を隠していた人物が混ざっている。


 こちらの評価シートを資料として用意しているからにはこの人物も面談に関わるのだろうが妙なことだ。

 この人物は女性なのだろうか。フードのせいでそれすらもわからないが、香水をつけているらしく、深い森のような甘く優しい香りを漂わせている。


「あの――」

「ん。何かあったかね?」

「いえ、すみません。なんでもありませんでした」


 はて。自分は何かに疑問を抱いた気がするが、思い出せない。

 視界の端にノイズがかかり、そこにいたはずの誰かがどんな特徴で、違和感を抱いたことすら頭から消え失せていく。

 ぼやっとしているうちに課長は仕事の講評を終え、異動に関しての話題に移っていた。


「さて、改めて聞こう。どこか希望の配属先はあるかな?」

「この四年、いろいろと体験させてもらったので改めて現場もいいかなと思います。それに独り身なのでどこに転勤してもさしたる問題はないですね」


 大学を卒業した時点で二十四歳。家畜保健衛生所で二年、こちらで二年だ。

 二から四年で各地域を転勤して回ることになるとは聞いていたので、数年以内にはまた異動があることだろう。


「なるほど。ちなみに家畜保健衛生所のような現場の雰囲気も好きかな?」

「条例が載った県報や規則と睨めっこも続くと息が詰まってしまって。ここで知った規則を基に現場で体験と結び付けて学び直すのも良い経験になると考えます」

「わかった。ありがとう」


 課長は自分の資料にメモをすると、横にいる人物に目を向ける。


「あなたからは何かご質問は?」

「そうだな――」


 初めて口を開いたその人物の声色は男のものだった。

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