第3話
それは綱渡りに似ていた。
夕樹にとって友人―
大学在学中に夕樹をバンドに誘ったのも辰也だったし、大学も彼に説得される形で辞めた。
諸木辰也ほど頭が良くて面白い男を夕樹は知らなかった。彼の勧めるものはなんでも聞いたし、何でも見た(読むのは無理だった)。タートルジャックのタトゥーを入れたのも彼のススメだ。
バンドマンと言う足元のおぼつかない人生を、それでも渡って来られたのは間違いなく彼のお陰だ。辰也というバランサーが夕樹の体の中で作動している限り、自分は決して足を踏み外すことはないという妙な安心感があった。尊敬などという言葉は恥ずかしくて(彼の中ではそんなジジ臭い言葉はダサい)言えなかったが、最もリスペクト(ほらカッコイイ)している人物は彼以外あり得なかった。
彼にリスペクト出来ない点が1つあるとすれば、それは自宅である。
これをマンションと呼ぶにはあまりにも無理があるといつも夕樹は思っていた。
出来た当時は恐らく、最先端のインテリアやデザインを組み込んだ最上の物であったに違いない。しかし、最先端と言う言葉は、時代が流れるという事をしばし忘れがちになる。
センスフルなデザインは30年ばかりたった今では陳腐で安価な装飾になり下がり、レトロと言うにはまだ若すぎる趣の無いただの古臭さを漂わせていた。
掃除や管理は行き届いておらず、外壁は所々ひび割れ、駐輪場の街灯はいつ見ても不気味に明滅を繰り返している。
ヴァンベール北府中― それが、諸木辰也の自宅だった。
今どきオートロックもないマンションがあるのか― エントランスを抜け、エレベーターを待ちながら夕樹は思った。入り口には監視カメラもなにもない。心底不用心なマンションだ。事件の一つや二つあった所で誰も気が付かないのではないか。ふと、そんなことを思った。
それでも、友人の家に変わりはなく、あの変な黄色い男が自分の家まで押しかけて来る姿を想像すると………そこよりは幾分安全な場所だと思える。
部屋のドアは安い肌色で冷たい金属質の表面は幾つか凹みが見られた。
インターホンを押そうと手を伸ばしたその時、ドアが軋みを上げながら開いた。暖色のライトが隙間から溢れ、ヤニの香りが外へ這いだして来て、夕樹は妙な胸騒ぎを覚えた。
そこに黄色いスーツを纏った長身の男がいて、表情のない顔で夕樹を睨みつける。怯える暇も与えず、首を締め上げてくる様子を瞬時に思い浮かべた。下らない妄想だったが、少しばかりゾクッとした。
ドアを開け広げ、コートを直しながら出てきたのは女だった。派手なメイクとボアの付いたマフラーを何重にも巻いている。女は戸口にいた夕樹に一瞬驚きの顔を浮かべたが、すぐに怪訝そうな目で彼を見つめた。
諸木辰也の彼女。彼女と言う言い方は間違いかもしれない。正しくは飼い主。ギターとBOOWYが大好きなペットに家と飯を買い与え、週に5回のセックスと辰也の軽快なトークをギブ&テイクしている関係。
夕樹が下がって避けると、女は礼も言わずそそくさと廊下を歩いて行った。コツコツとハイヒールが地面を叩く音が次第に遠のいていき、夕樹は開け放たれたドアを掴んで中に入ろうとした。
「ちょっと」
廊下の奥で声がする。夕樹は閉まりかかったドアから声のした方を覗き込んだ。
「冷蔵庫に入ってるゴディバのチョコ。あれ、私んだから。絶対食べないでね。どうせ、あんたらには買い戻してもらえないんだから」
ガチャッ― ドアが閉まる音。
ドアが閉まり切るのも確認せず、靴を乱雑に脱ぎ捨て、リビングに行く。
ソファの上に腰かけ何かを読み耽っている友人の姿が目に留まった。テーブルの上には数枚の封筒と缶コーヒー。(缶は灰皿代わりに使われ、立てかけられたタバコから煙が上がっていた)
「由佳理は? さっき出て行ったけど」
「夜勤」
辰也は手に持った紙の束から目を上げず、答える。夕樹は上着を脱いで放り投げると友人と対面のソファに腰を掛けた。かと言って何かを話すわけでもない。つまり2人はそーゆー関係だ。会話が無くても気まずくない関係。飼い主のいるペットといない野良。
スマホすこし弄ると夕樹はタバコに火を点けた。
ベッドに背中を預け、天井を見上げながら煙を吐き出す。顔を降ろす時に時計に目が入り、アメトーークを思い出した。
テーブルの上に置いてあったリモコンに手を伸ばそうとした時、辰也がやっと顔をこちらに向けた。数秒見つめ合う形になった夕樹は堪らず、
「なんだよ」
「お前………大丈夫なのかよ?」
「何がだよ」
変な男に追いかけられたことは言っていない。ただ、いつもやる様に『今から行くわ』と一言送っただけだ。
不安気な友人の顔を見たのは初めてかもしれない。心なしか、眼が垂れ、頬が引き攣っているように見える。
辰也は何も言わず、スッと自分が持っていた紙の束を投げて寄越した。きっとこれを入れていた封筒はパンパンに膨らんでいたに違いない。三つ折りにされたA4の用紙は10枚を下らない枚数があった。
表紙には大きな文字。
【ガーデン・カンパニー・ジャパン】
無駄のない装飾に簡素なフォントで印字されたその文字は日本ならば誰もが一度は目にしたことがある社名だった。文字を小さく復唱すると、股間が疼くような感触があった。
亀のジャックで一代を成したエリオット・ガーデンが設立したアニメーション会社だ。今やアニメに留まらず、世界のあらゆる産業に入り込み、アップルやグーグルなどと並ぶ、世界的な企業の一つになっている。
紙をめくると今度はやけに小さい字でびっしりと横書きの文字が並んでおり、夕樹の脳細胞は読解を一瞬でやめてしまった。「アニメーション」「使用料」「キャラクター」「作者」「東京都」「著作権」「使用」「二次」「違反金」「犯罪」………目には知っている単語だけが断片的に飛び込んでくる。
読み終わらない内に(当たり前だ。夕樹がこれを読み終わるのを待っていれば人類は滅亡するだろう)彼は紙をパラパラめくった。ジャックの絵が乗っているかもと期待したが、数十枚の紙束の中にポップでキャッチ―なカートゥーンは一匹も紛れ込んでいなかった。
「で、なにこれ?」
紙を突っ返しながら夕樹は尋ねた。
「督促状だよ。ガーデンカンパニーからの」
素晴らしいことに夕樹は督促状と言う言葉の意味を知っていた。それが金を返せと言う暴言をカッコよくかしこまった形に言い換えたものだという事を。
「おまえ何やったんだよ」
夕樹は笑いながらタバコを咥えた。あんな大企業から金の催促が来るなんて大したもんだ―
「お前………見てないのか?」
「何をだよ」
青い煙が部屋の中に吐き出される。
「弊社キャラクターの無断使用とその使用料及び著作権について、とここには書かれてる!」
「おう………?」
上手く呑み込めず、夕樹は首を傾げた。なんでここまで友人は怯えている―そうだ、友人は怯えているのだ― のか理解できなかった。
「2年前、俺たち二人でタトゥーを彫ったよな?」
「ああ。彫ったよ。俺はちんちん、お前は乳首の下にな」
タバコの穂先で辰也の乳首を狙い据えた。
「二人とも、タートル・ジャックを入れた」
「女にモテるゾってお前が言ったんだ」
「その………」呼吸が荒くなって、辰也は痛そうにつばを飲み込んだ。
「その?」
「………そのタトゥーが著作権違反なんだよ」
タバコの煙を吐き出すのを忘れ、ぽかん(そう正にこの時の表情はこの言葉がばっちしだった)とした顔で辰也の焦る目を覗き込んだ。面白おかしい感触が胃の奥からロケットのように打ち上げられ、食堂を抜けて口から飛び出した。ランチ(打ち上げ)の衝撃で横隔膜が震えた。
ぼわっと煙が吐き出され、辰也の姿が視界に捉えられなくなった。
しばらく笑った。腹がよじれるほど笑った。友人があまりにも真剣な顔だったのも追い打ちを掛けた。
「それはとても悪い冗談だな、辰也」
笑い過ぎて落とすのを忘れたタバコの灰が床にぽてっと落ちた。涙目を擦りながら改めて友人を見たが、彼の顔は真剣なままだった。
「冗談じゃない。ここにそう書いてある」
「著作権ってのがどういうものなのか、詳しくは知らないけどよ。タトゥーに著作権ってのが間違ってるのは分かる。どう考えてもおかしい。じゃあ、洋介はどうなる。アイツは尻にハローキティが入ってるんだぞ?」
正確にはボンテージを着た、巨乳のハローキティだ。
「こんな話聞いた事ないか? ガーデンカンパニーは著作権に異常なまで気を使ってる。昔、とある商店街がシャッターにタートル・ジャックを書いたらガーデンから訴えられたって話」
正直な話、夕樹はタートル・ジャックやガーデンカンパニーの映画やアニメには微塵も興味はない。ただポピュラーで女が喰いついて来るから彫って入れただけ。そんな彼にしてみればガーデンカンパニーで知っているのはむしろこの手の眉唾な話ばかりだった。(亀のジャックが陰茎をモチーフにしているとか、ガーデンはまだ死んでおらずどこかで冷凍睡眠状態で眠っているとか)
「都市伝説だろ」
頭に浮かんだ幾つもの怪しい噂を一蹴するように言った。
辰也は少し黙り、目線を上げるとタバコを吸った。穂先が真っ赤に燃え上がる。
「俺が中3の時だ。卒業文集の表紙にクラスの奴がタートル・ジャックを書いた。他のキャラもいたと思う、カミーユ・タートルやハッチ、ヴァイパーもいた。そしてそれがいざ、皆に配られるという段階になって………すぐ回収になった。理由は教えてくれなかったけど、あらためて配られた文集の表紙は……文字だけだった」
辰也はもう一度タバコを口に運んだ。
「それがガーデンカンパニーの仕業だと?」
「………その、表紙を書いた奴は……………卒業式に出れなかった」
「なんでだよ」
「死んだからだ」
ふはっと夕樹もタバコを吐き出した。時計は既にアメトーークが始まる時間を指していた。
「なんで?」
「親は事故死だって言ったけど、本当の所は分からない。ただ、俺達の間じゃ……タートル・ジャックに殺されたって。俺もそんな話、嘘だと思ってた。だけど………」
何も言わず夕樹は紫煙を肺に詰め込んだ。もう入らないくらいに。
「この紙にはタトゥーを無断使用していることに対して使用料が発生するって書いてる。支払期限は今日だ! 一年間で120万。つまり、2年で240万。加えて今後もタトゥーを使用するのであれば、年間契約料が―」
そこまで言いかけた時、夕樹は堪らず怒りの声を上げるつもりだった。そんなバカげた話があってたまるか。自分の体に入ったタトゥーの許可をどうして他人に貰わなければならない。
しかし、不意に鳴り響いたチャイムの音がそれすら遮ってしまった。
夕樹と辰也は無機質な電子音に体を震わせ、お互いを見合わせた。聞き違いだったのでは? 淡い期待が起って沈黙の中を彷徨った。
果てしなく長い時間が経ったような気がした。部屋に音は無く、辰也はゆっくりとソファから半身を起こす。
再び鳴った。ピーンポーン―
ドアの向こうに誰がいるのか、2人はそれぞれが嫌な想像をした。
ピーンポーン―
脅しをかけて来るトドメの一発のようだ。
辰也はやおら立ち上がると、ブックスタンドの角に立てかけてあった金属バットを掴んだ。
友人は腰を引き、臨戦態勢とはとても言い難い恰好で玄関へ続く、廊下へ出ようとする。
変なことに気が付いた。
脅し―インターホンが鳴らない。代わりにドアノブが極めて平常な速度で回転する様子が、夕樹には見て取れた。
電撃に撃たれたようなショックが走った。それはドアから現れたのが、あの黄色い男だったからではない。
既視感の正体― 萬田銀次郎? それなら随分マシだ。彼はなんだかんだ言っても情に熱い正義の味方ではないか。この黄色と黒のスーツは難波の任侠などではない。血も涙もない、常にタートル・ジャックを狙う宇宙の殺し屋、ガービン・ヴァイパーだ。(ガービン・ヴァイパーの格好をしたイカレタ男だ)
ショックが彼のニューロンをスパークさせた。全てが繋がった。
この男こそ、ガーデンカンパニーからの取り立て屋ではないのか。
男は軽く会釈をしながらドアを潜ると真っ直ぐ、夕樹を見据えた。筋肉の無いお面のような顔だった。
男は廊下を進んでくる。フッと目をやるとリビングに続くドアの縁に辰也がバットを構えて立っていた。
彼はアイコンタクトを夕樹に送っている。
ドアをくぐった瞬間、バンッだ―
「また、会いましたね。平田夕樹さん」
抑揚のない声で男が会釈する。
リビングへ入って来る。
構えていた辰也がバットを振りかざす。
全てがスローモーションのように見えていた。
冷静な判断力など無くなっていた。辰也も夕樹も。
だから、男がズボンのポケットからおもちゃの銃を取り出した様子も、別段変だとは思わなかった。
つづく
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