第2話

「平田 夕樹さんですね」


 丁度、夕樹が吉野家から出た瞬間だった。

 自動ドアが開くとは目の前に立っていた。

 壁のように立った男の姿に一瞬驚いて眉をしかめる。


 男は異様な成りをしていた。


 目もくらまんばかりの蛍光イエローのスーツに、男の190cmは下らない長身が綺麗に納まっている。ジャケットには所々、黒のラインがアクセントになっていたが夕樹が気づくのはもう少し後だ。それほどに男は強烈な格好をしていた。


 その姿に夕樹は強い既視感を覚え、舐めまわすように体を見た。

 だが、それが何であったのか瞬時には思い出せない。ぼやけたシルエットが脳内でチラチラと移動し、事態の特異性も相まって苛立ちを感じはじめていた。


「平田夕樹さんですね」

 落ち着いた、それでいてどこか威圧的な声。

 言葉につられて男の顔を見た夕樹はたまらず笑みをこぼし、たまにやる弱者を嘲笑する顔で男をじっと睨んだ。


 角刈りで黒縁眼鏡、キツネ目にうっすらと生えた青髭。純日本的なその顔立ちは彼の格好とあまりにもアンバランスで、コンマ数秒後には、夕樹は男を頭のおかしい奴だと決めつけていた。ギャップはある種の恐怖を掻き立てる不気味さだったが、彼の頭はそれを怖がることができるほど上等に出来てはいない。


「誰?」

 圧倒的に見下した発言。


「使用料の滞納の件で来ました。わたくし―」

「なに? 俺、ずっと探してたの?」

 笑いながら夕樹が男の会話をさえぎった時、彼の後ろを邪魔臭そうなうめきを上げてサラリーマンが通った。


 夕樹は首を半分振り向かせて、背後を見る。吉野家の自動ドアが開きっぱなしになっており、店員と数名の客が嫌そうな目でこちらを見ていた。


「歩きながら話そうぜ」


 109を右手に見ながら道玄坂を登っていく。

 肩にギターを引っ掛けた若者と、バスケットボール選手ほど巨大で黄色い派手なジャケットを纏った男が並んで歩く。周りから見ればその姿は相当面白いはずだ、夕樹はそう思った。


「3カ月ほど前から、文章をお送りさせています通り、当社の利用規約に基づきまして、滞納金に加えて、今後の使用料を―」


 どのだ。頭の中の会議室に彼の(とても優秀とは言い難い)脳細胞議員達が、集結し考えを巡らせ始めた。払っていない金など数えきれないほどある。滞納しているという事は借金か? 家賃か、それともカードローンか? (TSUTAYAは毎回返している)


いずれにしてもハッキリしているのはただ一つ。今はそんなものを払える余裕などあるわけがない(非常に重要な事実)

 会議終了。議事録には「」とだけ記され、脳細胞たちは解散。

 代わりに彼の筋肉が会議室に乱入し別の考えを話し始める。

 

さあ、どう逃げる?―

 


 丁度駅へ抜ける路地が見えて来た。路地と言っても少し道が細くなっているだけだったが、帰宅時の渋谷は人が溢れ、充分狭い。

 男はずっと料金がなんだとか、滞納がどうだとか、今の夕樹にとっては聞いたところで何の為にもならない会話を続けていた。


 こーゆーやつをつまらない男、と言うのだろう。

夕樹は男の眼鏡がネオンに反射して見えなくなっているのを確認すると、途端に路地へと身を躍らせた。


 肩に背負っていたギターケースが一瞬、中空に舞い重さが消えた。

 地面に足を踏ん張らせるとギターが圧し掛かって来たが、構わず走る。予備動作の一切ない、絶妙なタイミング。跳ねるように方向転換したのは我ながら良い動きだったと走りながら夕樹は思った。

 雑踏を押しのけ、進む。


 腹の中で消化中の牛丼が激しくバウンドし、呼気の中に肉々しさが混じった。

 井之頭線のホームへ飛び込もうとしたとき、例の黄色いジャケットが視界の隅で泳いでいた。目立つスーツはある意味夕樹にとってラッキーだった。追手がすぐそこまで迫っているのが一目瞭然だ。


 そうか―

 ミナミの帝王だ― 走りながら夕樹は直感した。あの派手なスーツ。既視感の正体はそれに違いない。ミナミの帝王で毎度竹内力演じる萬田銀次郎まんだぎんじろうが着ている派手なスーツ。その一つに真っ黄色のそれがあっても不思議ではない。

 金貸しというのも辻褄があう。

 おかしくなってきた。あのか弱そうな男は竹内力に憧れ、見かけに合わないスーツを着ている。そう思い始めると、まだ微かに残っていた恐怖心が消え去り、男から逃げる(いわば鬼ごっこのような)楽しさが芽生えてきた。



 鬼さんこちら、ここまでおいで―



 このままホームへ飛び込んでしまえば袋小路にぶち当たってしまうも等しい。(無論、彼は袋小路などという言葉は知らなかったが野性的な直感がそう思わせたのだ)

鬼ごっこがそれではつまらない。


 彼は方向を変え、そこから一気に道玄坂を下り始めた。

目にはパチンコ店の激しい明滅。耳には意味をなさない人ごみからの会話。鼻は中華料理の匂い。それらが少しの間に五感を突き抜け、彼は渋谷駅へ続く、地下道に走った。




渇いた口に唾を必死に絞り出し、荒い呼吸を整える。

気持ちのいいものではなかった。呼吸をする度にアンモニア臭が粘膜に張り付いて来る。掃除は決して満足に行われているとは言えなかった。


口を押え、臭いと音を少しでもカットする。

2度、3度、個室の鍵がしっかりかかっていることを確認すると夕樹は大きく息を吐いて、やっと便座に腰を掛けた。


地下道を駆け下り、しばらく走って見かけたトイレへ逃げ込んだ。これで絶対安心。

 座って、呼吸を整えている間、昔サッカーをやっていた時のことを思った。多少息は乱れたがまだまだ体は若い。余裕をもって男を撒けるだけの足を持っている自分に夕樹は新たなステータスを感じた。


 トイレの中で彼は友人に数通、LINEでメッセージを送り終えるとドアに手を掛けた。金属の冷たい無機質な取っ手を掴むコンマ数秒前まで、彼はこのまま改札を抜けて電車に乗り込むつもりだった。ベッドでウトウトしながら、アメトーークを見る。今日は何芸人だ?―


皮膚に金属が触れた瞬間、冷たさと一緒に、トイレに入る時、男の姿を確認していなかったことに気が付いた。

もし、トイレに入った所を見られていれば鬼ごっこは終わり(とまではいなかいが、彼の予想通りに事は運ばないはず)だ。

 ギターケースのベルトループをきつく締め、体に密着させる。耳を澄ましても人の気配は感じられなかった。

 


 それが取り越し苦労だと笑っていられたのは、自宅に向かう電車に乗り込み、運良く空いていた座席(優先席)に座って顔を上げるまでであった。


 隣の車両に黄色いスーツのジャケットを見止めた時、夕樹は心臓がこのまま爆発してしまうのではないかと思った。胸の動悸が一気に早まり、口をあんぐりあけたまま、胸を押さえる。

 男は別の車両から、窓越しにこちらを見つめていた。顔に表情は無く、遠目には薄く透明なマスクをかけているかのようだ。やっと見つけたという嬉しさも無ければ、逃げやがってと言う怒りも無い。ただ、当然のようにそこに立ち、二つの目で夕樹を凝視している。


 さすがの夕樹も手にじわっと汗をかき始めていた。

 男から視線をスマホの画面に戻したが、なぜか画面が見えなかった。視界が少しぼやけて見えていたからだ。


 うつむいたまま、目線を左右に数回流す。

 発車ベルがけたたましく鳴り響き、雑踏の中、駅員の低い声が駆け込み乗車をやめるように促し始めた。


 今しかない―


 懐かしい感覚が蘇ってくる。高校生の時によくやったやつ。発車ギリギリで電車から飛び降り、相手を置き去りにするというアレだ。

 ベルトループを握りしめ、腰を微かに浮かせると一瞬男を見た。

 男もこちらを見ていた。(先ほどまでと何一つ変わっていない)

 ドアが音を立てて閉まりかけたその時、僅かな隙間に夕樹は身を滑り込ませた。


 万事うまくいった。

 飛び出した瞬間にドアが閉まり、電車が発車したので夕樹は黄色い残像しか確認することが出来なかったが、それで充分。


 ホームには黄色いスーツはない。

 しばらく、男を載せた電車の風を背中で感じていたが、すぐに踵を返し、ホームを後にした。

 計画は変更。

 今夜は家に戻らない事に決めたが、アメトーークは観るつもりであった。



つづく


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