361.まさか本当に逃げると思わなかったぞ

 アルシエルの婚約者であったカルデアだが、他に惚れた男を作り逃げた。その過去を揶揄るように笑われ、カルデアの怒りが沸騰する。


「死ねっ」


 開いた口から覗いた牙が、毒を撒き散らす。霧となって森を枯らす毒は、吸い込めば体内から腐り果てる。強力な武器だが、アルシエルには効かなかった。この手の大蛇の毒は、竜種に効果が薄い。よほど力量差がなければ、吸い込んでも無害だった。


「毒なら効かぬ」


「知っているさ」


 吐き捨てたカルデアの言葉に、眉を顰めた。ならば何を狙って毒を撒いたのか。見回すが特に異常は感じられなかった。


 しんと静まった森は、小鳥の囀りすら消えた。なるほど、増援を呼べぬよう孤立させる気か。だが4人の味方も近寄れなくなるぞ。


 蛇の猛毒の霧が広がる中、ケガをした1人以外は平然と動き回っている。なにやら秘策があるらしい。こちらの増援を邪魔しながら、自分達は自由に動けるようフィールドを設定する。魔王の側近という実力者らしからぬ策のようだが、こういった絡め手を好む魔族は多い。


 力任せにすべて薙ぎ払う種族の方が少ないか。くつくつと喉を震わせて笑い、大きく息を吸い込んだ。毒の霧が鼻に刺激臭として残る。大きく羽を動かし、魔力と合わせて上空へ吹き上げた。


 後ろから忍び寄る3人を巻き添えにした竜巻きで、毒霧を消す。


「ひ、非常識な……」


「魔族に常識などない」


 種族ごとに常識も慣習も違う。まったく別の種族同士が集まる括りに、常識が通用するはずはなかった。ましてや彼女は竜種より非力な蛇なのだ。


 弱肉強食の掟を適用するなら、食われても殺されても文句は言えない。にやりと笑って、大きな蛇に森を指さした。


「見逃してやろう。新たな主人に泣きつけ」


 負けん気の強いカルデアのこと、反論して攻撃に転じるはずだ。そう考えたアルシエルの思惑を裏切り、大蛇は全力で森へ逃げ込んだ。


 拍子抜けして見送ってしまう。指さした手を下ろすことも忘れていた。しばらく固まった後、苦笑いして指さした手で頬を掻く。


「これは……我が君になんと申し開きすべきか」


 敵を排除すると言ったのに、自分で逃してしまった。自ら言い出した手前、追撃するのも気が咎める。ここは素直に主君に頭を下げるべきだ。


 謝罪を「構わん」と軽く受け流す魔王の姿を思い浮かべながら、アルシエルは空に舞い上がった。上空から方角を確認し、先程の湖へ向かおうとした彼の視界を、大きな影が横切る。


 釣られて左下に目を向け、巨大生物に目を見開いた。何度か魔王への助力を願って無視された――幻獣の最高峰である亀。レイキと呼ばれる亀は、一直線に湖を目指していた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る