339.恐怖は身を助ける感情だ

 戦闘で腕や足を失うのは、何度も経験している。そのまま次の戦いに挑むこともあったため、休んでいられる今は恵まれていた。だが……リリアーナはそう考えないようだ。


 一から十まで世話を焼こうとする。風呂でもそうだが、部屋に入るときの扉も開けて待っていた。入ると閉めて、ベッドまで走っていく。先回りして上掛けを捲って、笑顔を振りまいた。


 あまりに楽しそうなので、自分でできると言い出しにくい。傷つけてその笑顔を曇らすのも、後味が悪い気がした。ベッドに座ると、回り込んで靴を脱がす。ベッドに横たわると枕の位置を調整し、当たり前のように隣に滑り込んだ。


「リリアーナ。世話は有難いが……お前も一緒に寝るのか?」


「そうだよ。だって狙われたら一緒にいないと間に合わない」


 手が届くところで守るのが護衛だ。当たり前のように言われると、反論は口の中で解けた。彼女の理屈も一理ある。風呂も一緒に入ったのだ、今更だろう。


 目を閉じて高ぶった精神を落ち着けていると、リリアーナは残った左手の指を探り当てて、絡めてきた。


「あっちは神、いきなり連れ去られると困る」


 手を繋ぐのは護衛の仕事と口にしたリリアーナの言動に、ようやく気づいた。誰かに策を吹き込まれたらしい。こういった手の込んだ悪戯はククルか、バアルだろう。アナトも噛んでいる可能性があった。どちらにしろ、色仕掛けには届かない未熟な策ばかりだった。


「誰に言われた?」


「言われない……たぶん」


 嘘がつけないリリアーナをあまり問い詰めると、泣き出すか。ならば仕掛けた方に問い質すとしよう。困ったような顔をして、絡めた指を握ったり緩めたりする黒竜の娘に、許可を与えた。


「護衛ならしっかり守れ」


「う、うん! わかった」


 ぎゅっと手を握り、そのまま横向きに体を擦り寄せた。目を閉じて、オレは魔力を薄く広く展開する。戦場全体を把握するときに使った方法だが、結界と違うのは相手を防ぐ能力はない。だがどこで何が起きて、誰がどこにいるか把握できる便利さがあった。


 感知より精度は落ちるが、範囲を広げて魔力を温存することができる。広げた魔力は拡散せず、ただ大地を覆うだけだった。今のように魔力を温存したい時に使える。アスタルテとウラノス、アルシエルが城内にいない。すでに動いたらしい。行動の早さはアスタルテの長所だった。


「サタン様は……強い敵も怖くない?」


 とっくに眠ったと思ったリリアーナの問いは、寝言ではない。不安そうに揺らぐ声に、どう答えたものか迷った。


「怖いのか」


「うん」

 

 素直に返された答えに躊躇いは見えない。腕がなくなるような激しい戦いを、彼女は経験してこなかった。それは世界で彼女は強者の側であり、己より強い敵と対峙せずに済んだ幸運を意味する。


「今のオレに恐怖はないが、その気持ちは大切にしろ。恐怖は身を助ける感情だ」


 怖いと思うから慎重になり無理をしない。勝てない相手に立ち向かう愚を犯さない。彼女がオレと出会った日、怯えて動けなくなったのは正解だった。あの時に恐怖を感じる心が麻痺していれば、今頃リリアーナは生きていない。


「うん……わかる、気がする」


 半分眠り始めたリリアーナは、ほわりと微笑んだ。完全に理解しなくても覚えておけばいい。知識はいずれ役に立つものだ。いくら蓄えても邪魔にならない。再び魔力を広げながら、オレは自然と弛む口元をそのままに眠りについた。

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