337.正論だが泣かせるな

 魔法陣が全身を抜けていく。その速度はひどくゆっくりだった。激痛が走る身体が丸まろうとするのを、ぐっと堪える。


「もう抜けます」


 魔法陣を見つめるアスタルテの紫の瞳が瞬き、わずかに口元が綻んだ。ばちばちと火花を散らす魔法陣が後ろまで抜けると一瞬で消滅した。がくりと膝が崩れそうになり、文机に手をついて持ち堪える。膝をつくのは最大の敵と番いにのみ。それが魔王としての矜持だ。


「危なかったぁ」


 アナトがほっとした声をあげ、無事に残った異物を消去したことを伝える。手を叩いて喜んだバアルの隣で、眠いとぼやいたククルがソファに倒れ込んだ。


「もう、いい? 触っていい?」


 オレではなくアスタルテに確認し、リリアーナは両手で腰にしがみついた。


「やはり残っていました。早めに対処できたことをお喜び申し上げます」


 そこで一度言葉を切ったアスタルテが、深呼吸して姿勢を正した。


「私の失態です。腕を取り戻す許可を」


 魔王不在後の世界を統治した女傑は、自信を滲ませた笑みを浮かべて伺う。リリアーナを腰に巻きつけた状態では恰好つかないが仕方あるまい。引き剥がしたら泣くだろう。


「一任する。使う人材は自由に選べ」


「ありがたく拝命いたします。アルシエルとウラノスをお借りします」


「「ええ! 私達は?」」


 ハモった双子に、アスタルテは腰に手を当てて言い聞かせる。まだ戦えるほど回復していない魔王の護衛が必要で、ククルも放置すれば危険だ。人間の敵は排除したが、何が起きるかわからない。アルシエルの留守を狙って襲ってくる魔族への対応をどうする気だ? 硬い口調で切々と並べれば、双子はむすっと頬を膨らませて黙った。


 正論すぎて反論できない。


「リリーがいるじゃん、オリヴィエラも」


 ぼそっと吐いた小さな文句に、あっという間にアスタルテの正論が被せられた。オリヴィエラの実力では魔王の側近クラスが来たら太刀打ちできず、リリアーナも大差ないこと。


「私は戦える!」


 リリアーナが反論に加わる。側近が来たら負けると言われても納得できない。全力で噛み付いた彼女は、アスタルテの怖さを知らない。あっという間に論破され、鼻を啜りながら顔をくしゃくしゃにした。泣く寸前だがぎりぎり耐えている。


「そこまでにしてやれ。アナトとバアルは城の防衛を、オリヴィエラも周辺の警戒や探索に当たらせる。リリアーナは……」


「サタン様の護衛する」


 肩をすくめて許可すれば、あっという間に泣き顔が笑顔に変わった。感情が豊かすぎて、疲れないかと心配になる。


「陛下は城から出ないでください。守護の陣を敷いていきます」


 地下からの侵入を防ぐために城や拠点の地下に設置する陣を用意した。アスタルテの気遣いに素直に頷く。右腕がなく愛用の剣が折れる寸前だった。この状態で戦うのは、正直疲れる。休めるうちに体の疲れを癒すのも、必要なことだ。


「後宮へ下がる」


 寝るぞと言い放ち、リリアーナを従えて部屋を出た。後宮には温泉が引かれていた。いつでも入れるので便利だが、疲れを癒すのに風呂もいいか。思い立って足を向ける。文句も質問もなく後ろについてくるリリアーナは、風呂の前で立ち止まった。


「一緒、入っていい?」


「当然だ。護衛が外で待つ気か?」


 問い返せば、頬を染めたリリアーナは大急ぎで中に入って扉の鍵を閉めた。

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