292.お気遣いはご無用に

 子供は、するりと青年の姿をとった。真っ直ぐに視線を向け、器用に頭を下げる。その視線を逸らさない所作に、敵意が滲んでいた。僅かに頭を右に傾げ、ぎりぎりまで下げた頭が戻される。


 格下の魔族が上位者に挨拶するなら、視線を逸らして深く頭を下げるのが礼儀だ。わざと視線を逸らさぬ行為で、完全に頭を下げずに挨拶した。その意味は挑発だろう。


「ウラノス?」


 答えない配下に声をかけるが、視線は青年から離さない。黒髪は手入れをしないのか、バサバサと乱れていた。黒に近い淀んだ血の、深い赤の瞳は白く濁る。死んだ魚の目に膜が張った状態に似ていた。


「……は、2代前の魔王陛下にございます」


 その表現に眉を寄せる。前の魔王は死んだと聞いた。当代は夢魔が魔王で、黒竜王を解放して地位を降りている。だが地下に眠っていたウラノスは、当代の魔王を知らない。ならば、さらにひとつ前の魔王という意味だった。


「戻るか?」


「いいえ」


 即答された。元の主君が蘇ったなら、戻りたいのであろう。息を飲んだウラノスを試すように告げると、アルシエルが唸った。彼は直接仕えていない魔王のため、特に向ける感情はないようだ。首を横に振り否定したウラノスだが、様子がおかしい。


 何より、かつて己が仕えた主君を……あれと表現するのはあり得なかった。多少口が悪く、物事を捻くれて表現する癖があるウラノスだが、他者を不当に貶めることはない。通常なら「あの方」と表現する相手だろう。


は満ちて亡くなられた。は魔王であった器です」


 唇を噛んだウラノスが絞り出した声は、怒りと混乱に満ちていた。戦いに敗れて死んだが満足して旅立った主君の器を、誰かが乗っ取ったのだ。そう言い放つウラノスの瞳に嫌悪が浮かんだ。


 ゾンビと同じだ。当人が望んだ状態ではなく、まるで衣を着替えるように何者かが入り込んだ死骸――物体に過ぎなくても、アルシエルやオレが攻撃する姿を見せるのは残酷だろう。


「お気遣いはご無用に。我は今や新たな主君を持つ身なれば……」


 外見が元の主君であろうと、中に巣食う黒い闇を倒すために打ち砕く。躊躇う気持ちはとっくに失った。そう告げるウラノスの口調に苦いものが滲む。


「あれの中身に心当たりがありますゆえ、引き摺り出して確かめさせていただきたい。我に先鋒をお申し付けくだされ」


 少年の姿で大仰な口調のウラノスは、片膝をついて願い出る。空中の魔法陣の上で、彼の眼差しは強い意志を感じさせた。


「よかろう。好きにせよ」


 下の街に生き残りはいない。救うべき者がなければ、向かってくる敵を叩きのめすのみ。許可を受けて、ウラノスが立ち上がる。ひとつ深呼吸して、彼は己の胸に小さな魔法陣を置いた。続いて額、両手、両足に魔法陣が浮かび上がる。


 魔法陣が示す文字は、封印を示すもの――いま、ウラノスの肉体を縛る鎖が解けた。

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