71.命令だから、今は殺さない

 クリスティーヌは手にした魔法陣を王城の庭に焼き付けた。頼まれたのはここまでだ。終わったことを眷獣であるジン経由で伝えようとして立ち上がり、突然入り込んだ人間に首をかしげた。


 手にした剣を突きつける男、その後ろの数人は槍の穂先を少女に向ける。その表情は歪んでおり、心あたりがあるクリスティーヌは顔をしかめた。これは人間が魔族へ向ける感情だ。嫌悪と恐怖に彩られた彼らの顔は、どれも同じに見えた。この表情を浮かべたとたん、個体の区別がつかなくなる。


 剣を持つ男だけが別の感情を滲ませた。怒りだ。どこまでも黒く好ましい感情の香りに、クリスティーヌの腹が小さく音を立てた。怒りを持って襲ってくる人間は、最後に後悔して泣きながら許しを乞う。その響きと、絶望に染まる血の味を思い出した。ごくりと喉がなる。


 目の前にあるご馳走は、手をつけてもいいのだろうか。命令されたのは、魔法陣の焼き付け……そして許可なく入り込む異物の処理。ならば、これは異物に分類すればいい。そうしたら食べても構わないはず。


 ごくりと喉を鳴らして唾を飲む。その動きは、槍を持つ人間達には怯えた少女の仕草に見えた。武器を向けられ、殺される恐怖に震える少女……外見は整っている。愛らしい少女を凌辱したら楽しいだろう。化け物退治を命じられた彼らの精神は、ぎりぎりの綱渡りをしていた。


 クリスティーヌの見た目は、人間と変わらない。今は蝙蝠の羽もなく、無力な人間の少女にしか見えなかった。痩せた細い手足も、嗜虐心と哀れを誘う。魔王サタンの血を得た彼女は、その魔力を満たし肌艶を増していた。


 黒髪を揺らす愛らしい顔立ちの少女は一歩前に進む。逃げるために後ずさると思っていた男達が、怪訝そうに顔を見合わせた。


「ふっ」


 息を吐いてタイミングを取ったクリスティーヌは、彼らの前から消えた。


「化け物だっ!」


「散れ、仕掛けてくるぞ」


 迎撃態勢を整えろと叫んだ指揮官の剣が、ぼたりと地面に落ちる。その剣は赤く濡れ、柄に日に焼けた指や手がついたまま……。肘から先がついた剣は、持ち主の血でぬらぬらと光った。


「ぐぎゃああああ」


 聞き苦しい悲鳴が上がり、両腕を切り落とされた男が蹲る。喪った腕で止血しようと両腕を擦り合わせ、激痛に倒れ込んだ。槍を構える3人はじりじりと後退し、互いの背を合わせて円陣を組む。


「遅い」


 消えたのではなく、素早く距離を詰めたクリスティーヌの黒髪がふわりと風に揺れた。右手の爪が長く、真っ赤に染まっていた。その爪を長い舌で舐めながら、少女は無邪気な笑みを浮かべる。


 久しぶりの人間――主君から食べてもいいと許可を得た、狩りの獲物だった。


「まずは武器、それから足」


 攻撃の順番を確認する。リリアーナやオリヴィエラに比べれば戦闘力に劣る少女だが、クリスティーヌの潜在能力は高かった。まだ成長過程であり、長寿種族の中でも特筆して成長に時間がかかる吸血種だが、獲物を狩る実力はすでにある。


「く、くるな!」


 先ほどまで下衆な妄想や欲望の対象とした少女が、人外特有の壊れた笑みを浮かべて近づく。履いていた白いサンダルで、歩きにくそうに距離を縮めた。


「サタン様、命令……だから、今は、殺さない」


 上司であり騎士である男の腕を落とした子供の担保など、信用できない。がくがくと手足を震わせ、壊れた人形の様相で首を横に振る。兵士の拒絶への返答は、無造作に振るわれる鋭い爪だった。


 一閃して彼らの槍を折り、続く攻撃で武器を持つ手首を裂き、足を体から切り離す。手足を落とされた男達の苦痛と懇願が響く庭で、クリスティーヌはうっそり笑う。


 両手を濡らす赤を舐め取り、動けずに転がる獲物の首に牙を突き立てた。すべて吸い殺したりしない。これは獲物なのだ。狩りの成果は主人に見せて褒めてもらわなければ価値が下がる。


「ジン、サタン様に、伝える。魔法陣、できた……あと、侵入した奴」


 足りない主人の言葉をすべて理解し、吸血蝙蝠は空に羽ばたく。伝令役の眷獣を見送り、クリスティーヌは獲物を無造作に一ヶ所に積み上げた。魔族らしい怪力で、大人を玩具のぬいぐるみのように積み重ねる。彼らから流れる血が、庭に落ちて踏みにじられた青いグリフォンの旗を赤黒く染めた。

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