第7話 アレン公子

 クレスティア帝国の後宮は、小国であった先王の時代より、むしろかなり小さくなっていた。

 むやみに歴史があったために王家は浪費を重ね、特に先王はまるで国を治める意思がなかった。美しい少女奴隷を買いあさり、子を産ませることに熱を入れた。その結果姫を含めて五十二人の子が生まれ、財政を圧迫した。

 十三番目の王子であったセルヴィウスが即位したとき、内政の第一歩として後宮の大規模な整理を行った。贅を尽くした後宮の調度を持たせて先王の愛妾や姉妹姫たちを外に嫁がせ、新たに後宮に加えるものは、愛妾も含めて正妃メティスに任せた。

 元々皇帝の乳母の子であるメティスは、下級貴族ではあったが皇帝の意を忠実にくみ取り、後宮の舵取りをうまくこなした。一度に後宮に住む愛妾は三人までとし、常に動向に目を光らせた。後宮内に不協和音をもたらさないよう、愛妾や皇帝の姉妹姫たちに礼を尽くす一方、華美な調度を購入したり皇帝の寵を独占しようとする愛妾は速やかに後宮から追放した。

 ただそれらは、セシルという例外があった。セシルの月の宮は常にセルヴィウスの贈り物で華やいでいた。ほとんどの後宮の住民が、皇帝が愛妾の元で精を吐き出した後でもセシルの寝所に通っていることを知っていたが、それに異を唱えられる者は一人としていなかった。

 だから後宮に大勢の客を招いて宴が開かれるのは、先王の時代以来だった。そしてそこに皇帝の掌中の珠であるセシルが出席するというのは、重臣すら驚かせた。

 様々な憶測が飛んだ。皇帝は対外的にも月の姫宮を正妃として、諸侯に見せつけるおつもりなのだ。これを機に後宮そのものを解体して、諸侯に愛妾をすべて与えてしまうのかもしれない。

 いや、月の姫宮は皇帝のあまりの寵に耐えられず、心を狂わせてしまったと聞く。今回の宴は月の姫宮の狂った心を満たすため、皇帝が若き子弟たちを道化とするつもりではないか。

 もっと可能性の高いことがある。月の姫宮はもう何度も皇帝の御子を産んでいて、密かに諸侯の元に養子に出されたその御子らを姫宮に引き合わせるおつもりなのだ。

「よく似合う」

 噂の渦中にあるセシルは、朝から医師の診察を受け、夕方にようやくドレスや装飾品を身につけさせられた。

「参ろうか」

 セルヴィウスは一度セシルの手のひらに唇を寄せて目を閉じると、セシルを抱いて立ち上がる。

 空には夜との境界が見えていた。まぶしいばかりの太陽が退場して、東の空に月が姿を現そうとしていた。

 客たちはすでに半刻前から席につき、皇帝とセシルの姿が見えるときを今か今かと待ち構えていた。

 そしてその時はやって来た。天幕から歩み出た皇帝は、彼が好んで身に着ける銀糸で縫い取りのされた黒の長衣姿だった。

 そして彼らの前に初めて姿を見せた月の姫宮は、皇帝と対照的に、金糸で刺繍のちりばめられた真っ白なドレスをまとっていた。

 月灯りのような琥珀色の瞳とほんのりと色づいた唇。ゆるやかに波打って背に流れる金髪は、それ自体が金の粒を産むように光をはらむ。

 口さがない噂を楽しんでいた者さえ、しばし言葉を失った。セシルとセルヴィウスは似ていない。だが確かに彼女は類まれな美貌を持つ皇帝の実の妹なのだと、思い知らされた気がした。

 セルヴィウスは来客に視線をめぐらせると、来客より一段高い、クッションと花びらの敷き詰められた長椅子にそっとセシルを下ろす。そして自らはその隣、セシルよりわずかに高い黒曜石の装飾のされた皇帝の席に腰を下ろした。

「よく来てくれた」

 決して張り上げてはいないのに、皇帝の声は夜の中から響いてくるように広がった。

「紹介しよう。わが妹のセシルだ。こういった場は不慣れゆえ、不作法は許せ」

 それだけ告げると、セルヴィウスは酒杯を掲げる。

「……月の国クレスティアに、幸多からんことを」

 宵闇に人々の寿ぎの言葉が続いて、宴が始まった。

 楽師が音楽を奏で、舞姫が踊る。女官たちが客人たちに酌をして、食事を勧めた。

 今宵の宴には皇帝の愛妾たちも着飾って出席している。またそれに劣らない美しさの女官たちが薄い裾をひらりと動かしながら行きかう。皇宮で開かれる宴とは違う、なまめかしい色があった。

 けれど訪れた人々の目を引き付けてやまなかったのは、ひとえに皇帝とその隣の妹姫だった。

 普段めったに表情を変えることがないセルヴィウスが、セシルの耳元で何事かささやいて、たびたび喉を鳴らすように笑う。

 またセルヴィウスは赤く小さな果実を二つつまみ、必ず自ら一つ口にしてから、もう一つをセシルの口に運ぶ。セシルの唇にわずかに赤い果汁がにじむと、くすぐるように指でそれをぬぐう。

 客人たちは、まるで秘め事を覗き見ているような気分にさせられた。実際、普段なら決して見ることができない光景があった。

 一方でセシルは少しやつれた風で無言だった。皇帝を拒んでいるようにも見えるのが、人々の想像をかきたてた。

 昨夜の閨の遊戯がお気に召さなかったのだろうか。夜ごと召されれば睡眠不足にもなるだろう。けれど今宵閨に戻れば、またその華奢な足をみだらに開くのだろうか……。

 いつからかクレスティアでは、セシルの名は性と同義語にささやかれていた。貴族の男性が愛妾を人前では妹と呼び、閨では「私のセシル」と呼ぶ戯れさえあった。

 もちろん皇帝に知られれば首がない。だから客人は目配せだけで噂を共有し、酒気と密かな想像に酔った。

 あらかじめ固く命じられていたとおり、セシルに直接声をかける不届き者はいなかった。セシルに気に入られるというのは、皇帝の歓心を得られるか怒りを買うかのどちらかであり、諸刃の刃だった。父親である諸侯は子弟に、決して姫宮に無礼を申し上げてはならないと言い聞かせていた。

 けれど子弟たちはまだ若かった。儚げでありながら危うい色香を持つセシルの姿を、つい熱を帯びたまなざしでみつめてしまう。

 セルヴィウスはそういったぶしつけな視線に気づいていたが、あえてそのままにしていた。代わりに諸侯の半歩後ろで皇帝に謝辞を述べる子弟を、一人一人検分するように眺めていた。

 それ以上に、セルヴィウスはセシルの様子にも意識を向けていた。セシルは相変わらず無言で、年頃の子弟たちに興味を示すこともない。

 宴の開始から一刻が経ち、セシルが小さく咳をした。

 セルヴィウスは反射的にセシルの頬に手を当てて、その顔をのぞきこむ。セシルは春になってから血混じりの咳をすることはなくなったものの、未だに外気に触れることはめったにない。

「冷えただろう。そろそろ湯で手足を温めねばな」

 セルヴィウスが頬に添えた手に、セシルは微かに身を寄せた。甘えるようなその仕草に、セルヴィウスは庇護欲と欲情を同時に抱いた。

 今夜はセシルは疲れている。無茶はするまいと思いながらセルヴィウスが苦笑した、そのとき。

 ずっと伏せられていたセシルの目が、ふっと動いた。ここのところセルヴィウスを追う以外動かなかった目が、何かをみつけたようだった。

 セルヴィウスがその視線を追うと、一人の青年がいた。

 彼は諸侯の子弟としては少し年かさで、二十代の後半だった。それもそのはずで、彼はセルヴィウスと同じ十五のときから父親に代わって一国を治めてきた君主だった。今日も父親に連れられてではなく、自らが従者を引き連れてやってきた。

 首の後ろで結った長い金髪、どちらかといえば中性的な面立ち。けれどセルヴィウスと目が合っても、多くの青年子弟がするように恐れをはらんだ表情を浮かべることなく、老獪ともいえる見事な微笑を返してみせる。

「あの若者が気になるか?」

 セシルの目はその青年をじっとみつめていた。セルヴィウスが問いかけると、セシルは首を横に振る。

 否定さえしなかったセシルが反応を返した。セルヴィウスは悲しい喜びを感じながら、よいのだ、と言葉を続ける。

「あれはル・シッド公国のアレン公子。メティスに似ているだろう。従兄にあたるのだ」

「義姉上の」

 ぽつりとつぶやいたセシルに、セルヴィウスはうなずく。

「そうだ。この中でもっとも遠い国の、もっとも私の意のままにならぬ公子だ……」

 セシルはようやく、亡霊以外の生きた男を瞳に映した。

 セルヴィウスは喜びと苦しみの合間で、その事実をかみしめた。

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