第6話 クレスティアの春

 氷に閉ざされたクレスティア帝国に、春が訪れようとしていた。

 元は、大陸の北にすがりつくように人々が暮らしていた小国だった。十年前、まだ十五歳だった少年皇帝セルヴィウスが領土拡大に乗り出すまでは、いずれ雪に埋もれて滅びるさだめにあった。

 数多の血を流して帝国は広がり、大陸の三分の一を支配するようになった。誰もが皇帝セルヴィウスを恐れ、そしてその歓心を得ようとしのぎを削っていた。

 しかし生まれたときからずっと後宮を出たことがないセシルには、それは話に聞くことはあっても、伝わってはいなかった。

 セシルの時間は、外界とは違う早さで流れていた。セルヴィウスでさえ、氷の向こうの流れのように動かせなかった。

 ただセシルは時折、生命の息吹のような力を見せることがあった。この冬から春にかけても、そうだった。

 熱を出しては寝込むことを繰り返すが、あの吹雪の夜以来、少しだけ調子が上向いた。まだほとんど話さず、体に触れても反応しないが、ふとした拍子にセルヴィウスを目で追っていた。

 セルヴィウスはそんなセシルの回復を誰より喜んだ。セシルの体調を気遣い、腕に抱いて眠るだけの日が続いた。兄上とセシルがこぼすように言葉を口にすると、うなずいてその手のひらにキスをした。

 一方で、セルヴィウスがセシルの部屋を訪れる回数は減っていた。お気に入りの愛妾ができたのかとセシル付きの女官たちは不安を募らせたが、後宮にいる時間そのものが減っているようだった。

 重臣につてのある女官が探りを入れると、「陛下は今お忙しい」と言葉を濁した。「姫宮を想われてのことだ」と、なぜか哀しそうだった。

 そんな折、皇帝からセシルの元に金糸で刺繍がされたドレスが何着も届いた。宝石をちりばめたティアラと、春を思わせる薄桃色の靴もそろえられていた。

 女官たちは顔を見合わせた。陛下の寵が冷めたわけではない。けれどこれらは今までのような、心地よい日々のために皇帝がセシルに贈っていたものとは違う。

「セシル、宴に出てみぬか」

 その答えは、夜セルヴィウスが訪れてセシルに告げた。

「明日から一週間、後宮の「春の庭」で宴を開く。楽師や舞姫や、諸侯の子弟も呼んである」

 セシルは不思議そうにセルヴィウスを見上げただけで何も言わなかったが、控えていた女官たちは驚愕を表情に出さないようこらえた。

 確かに後宮はまったくの閉鎖空間ではなく、商人や楽師が立ち入ることはある。ただそれはセシルの月の宮から遠く離れた、愛妾たちの宮だけの話だ。

 愛妾たちが何度セシルを宴に呼んでも、決してセルヴィウスが出席を許さなかった。しかし今回は、諸侯の子弟……つまり、男性もいるところにセシルを連れていくというのだ。

 自分が即位したとき、セルヴィウスはまだ三歳の弟皇子を含めてすべて男性を後宮から追放し、その後に生まれた自らの息子たちも後宮外に居館を作って住まわせた。セシルには初老の医師と薬師以外男性を近づけることはなく、セシルは十年間皇帝以外の男性と言葉を交わすことさえ珍しかった。

「しかし、陛下。姫宮はまだお言葉を口にするのもまれなのです。何時間も宴の席にお座りになるのは、お体にも負担が……」

 女官たちは皇帝の意図をはかりかねて、ためらいを伝える。

 しかしセルヴィウスはセシルが泣きでもしない限り、言葉を違えるつもりはないようだった。

「セシル専用の天幕を用意してある。体調の良いときに少しの間、そこから私が連れ出す。今回は空気に慣れさせるだけのつもりだ」

 セルヴィウスは淡々と答えると、セシルを椅子から抱き上げる。

「少し話してから休ませる。寝所に温かいミルクを運んだら、下がってよい」

 女官たちへの話はそれであっけなく終わりにして、セルヴィウスはセシルを運んだ。

 先行した女官は素早くベッドの背もたれにクッションを並べ、セルヴィウスはそこにそっとセシルの背中をもたれさせる。

 まもなく運ばれてきたミルクを、セルヴィウスはいつものように一口飲んで熱さを確認する。それから慎重にセシルの唇にあてがって、一口喉に流し込んだ。

 セシルはぼんやりと虚空をみつめていたが、やがて喉がこくんと動く。セルヴィウスは微笑んだ。

「私の身勝手な贈り物かもしれぬな。いや、何もかもずっとそうであったか」

 宝石、衣装、女官に庭。あらゆるものをセルヴィウスはセシルに与えたが、セシルが喜んだのは庭くらいだった。

 それでもセシルが自分からの贈り物を受け取っただけで、セルヴィウスは飽きることなく次の贈り物を考えた。

「今回は、そなたが気に入るとよいのだが……」

 もう一口ミルクを含ませたが、今度はなかなか飲み込まなかった。そういうときは仕方なく、首をさすって少し強引に飲み込ませる。そうしなければ脱水症状になってしまうほど、セシルの体は飲み込むのを忘れていることが多かった。

 枕元のろうそくの灯りが、セシルの繊細な面立ちを淡く照らしている。琥珀色の瞳は病の中にあっても澄み切っていて、花びらのような唇はほんの少し開いていた。

 セルヴィウスはふいにくすぶっていた熱が燃えるのを感じて、セシルと唇を合わせる。隙間から舌を差し入れて、その柔らかさと甘さに酔った。

 ベッドに膝をつき、セシルの夜着に手をかける。セルヴィウスが愛欲に駆られてセシルに触れるのは、久しぶりのことだった。

 ろうそくの明かりの中、痛々しいほどに痩せた裸体が浮かび上がる。セシルの体には、愛妾たちのような豊満な胸も、塗り込んだ蠱惑的な香油の匂いもない。

 けれど小さな胸には、ほんのりと桃色に色づいた果実のような突起がある。はちみつ色の肌は、それ自体に蜜が染み込んでいるように、微かに甘く、柔らかかった。

 セルヴィウスは角度を変えて何度もセシルの唇を味わいながら、指で小さな胸の突起を愛おしそうに転がす。それは反応することなく、セルヴィウスの手の中で柔らかさを保ったままだった。

 ため息をついて、セルヴィウスはセシルの体の感じやすいところに唇を寄せた。耳たぶ、腿の内側、足の指。ついばむようにキスを降らせる。

「……そろそろ良いか」

 セルヴィウスは言葉をかけて、神聖なものに触れるようにセシルの両足に手をかける。

 足を折り曲げて、開かせる。その先にある狭い道に、何度自分の欲望を受け入れさせようと思ったか知れない。

 そこはいつも体温より少し高い。今は反応を失っているが、ほぐせばほぐすほど指に絡んで離さず、とめどなく甘い蜜をこぼす。

 その匂いを思い出しただけで、セルヴィウスは体内の熱が膨れ上がるのを感じた。

 身を屈めて、そこを舌と指でほぐす。もしセシルの体が反応して例の甘い蜜がとろけだして来たら、そのときはもうどうなるかわからないような気がした。

 ただ、今日もセシルの体は反応を返すことなく、狭い道をつつましく閉じたままだった。

 セルヴィウスは短くうめいて、傍らで自らの精を吐き出すと、セシルの隣に横になる。

「そなたを誰にも見せたくなかった」

 セシルの髪を梳いて、セルヴィウスは独り言のようにつぶやく。

「そなたの肌を誰かの視線が這うのを想像すると、気が狂いそうだった。ましてそなたに誰かが触れるとなれば……」

 言葉を途切れさせてから、セルヴィウスはセシルをきつく抱きしめる。

「だが、これがそなたのくれた最後の季節のような気がしてならぬのだ。今そなたに望むものを与えられなければ、そなたは永遠に私の前から消えそうで」

 虚ろな瞳は、セルヴィウスが見えているのかどうかもわからない。

「生きるのだ、セシル。美しく消えてはならん」

 もう一度セシルの唇に自らの唇を合わせて、彼はずいぶん長く、セシルを離そうとしなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る