2.井戸

 神父はミサを終えると、漁師達を見送るために港へと来た。海の様子は良好で波も比較的に穏やかだ。漁師の経験がない神父には漁のことがすべてわかるわけではないが、安全そうで安堵した。

 

「さすが神父様が祈ってくださっただけはある。これなら安心して漁に出られるよ」

 

 漁師の頭が愉快そうに笑い声を上げた。それにつられて神父も笑う。そうして、再び十字を切り漁師達の安全を願った。

 疲れもあったのだろう、海の潮は匂いがきつく、神父は匂いに酔ってしまったようで立ち眩んでしまう。それがまた漁師を心配にさせた。

「神父様、大丈夫ですか?」

「すみません、少し海の香りに酔ってしまったようです。でも、もう大丈夫」

 急いで弁解し、漁師に心配ごとが残らないようにした。それから、少したち漁師達は海へと旅立った。漁師達がいなくなった港は活気を失い元の姿へと戻るのだった。

 

 神父は漁師達の出航を見送ると、急いて帰路に就く。刻印のことがあるうえに、うわさが広まって近所の人たちも直接ではないにしろ噂話をしている。妻はただでさえ不安なはずだ。潮の香りがまた心音を速めた。

(早く帰らなければ……)

 そう思うが、急げば急ぐほど悪いことが起きるのが世の常である。港から協会までの最短ルートである中央通り、そこを通れば10分もかからないはずであった。しかし、今日は街1番の漁師達が出航する日ということもあり、中央通りはいつもよりも人が多い。

 

 いつもある出店だけではなく、他の町から来たであろう行商人達までもが道を塞いでおり通ることすら出来ない。

 それに、行商人達が売っているものは神父の目から見ても珍しいものばかりで、目移りしてしまう。

 例えば、そこで煌びやかなドレスのような服を着ている男性は、大きな鉄の鍋を物凄い大きな火であぶり肉料理を作っている。そのパフォーマンスだけでも眼を見張るものがあるのに、その肉料理の匂いも足を止めさせた。

 その男の店の反対側で、暑そうなコートを来た男がやっている屋台の白いスープの香りも堪らない。

 他のどの店からもいい香りが漂い、食欲をそそる。そんなものがあった時には大行列が出来ていても不思議ではない。

 神父はあまりにも多い人に当てられ、気分が悪くなった。そのため、仕方なく遠回りすることを決めた。

 

 神父は大通りを通り家に帰る算段を立てたが、人通りがあまりにも多すぎて港から大通りまで行くことすら叶わない。それ故にいつもは通らない路地に入るしか道はない。異様な雰囲気が漂っている路地は非常に狭く、人が1人入るのがやっとだ。

(こんな場所があったのか……)

 得も言えぬ不気味さを醸し出す路地に神父は肩を横にそらしながらゆっくりと入る。

 初めて通る道に困惑しながら、急ぎ足で奥へと進んだ。路地を少し奥に行くと左右に道が2つ別れており、神父は迷いもせずに教会の方向、すなわち右の通路へと入った。

 そこはあまり気持ちの良いところではなかった。空気は湿り、ゴミはもちろん家畜のフンもそのまま放置されていた。それに、何よりただただ気持ちが悪かった。

 

(これは、精神的によくはないだろうけど仕方がない……急ぐためにはここを通る他ないな)

 

 神父は出来る限りゴミなどを避け、狭い通路を通ったが、全てを避けることは出来ないほど不衛生的だった。

 臭いはかなり酷く、吐き気を催すほどのものだ。何せ壁に囲まれた空間だから、臭いが抜けることもない。おそらく、以前通った人が我慢しきれなかったのだろう、嘔吐物が溢れており、その刺激臭も酷いものだった。

 

(よくこんな場所を放置出来るものだな……)

 神父は街の実情を知り少しだけ失望した。それと同時に、こんな場所があることを知りもしなかった自分自身に対しても失望する。

 無事家に帰ることが出来て、落ち着いたら掃除しようという決意を固め、路地の奥干支進んでいく。

 狭い通路を抜けると少し開けた場所だった。神父は臭いから解放されるとともに安堵を覚えた。狭いことは変わりないが、圧迫されているという感じがなかったからだろうか。それとも、先ほどまでとは違い、自然が溢れているからだろうか。だが、人から見放された場所であることには違いなかった。

 雑草に囲まれたそこには井戸があり、周りに何もなく木のバケツが1つころがっているだけだ。それなのに不思議な気持ちを湧き立たせるそんな場所だ。上を流れる雲はどこかいつもよりも美しく、空気が澄んでいるように錯覚するほどに気分が良い。

しかし現状を見る限りは、周りも家の壁に囲まれており、先ほどの通路から流れてくる異臭もある。普通に考えれば神秘性の欠片すらない場所であるはずなのに、どこか神の存在を信じさせる……そんな場場所だ。

 神父は不思議に思う。

 

(どうして、こんなにもこころが洗われるのだろうか? それにここには人が通った形跡すらないのはなぜだ?)

 

 特に中央にある井戸は、神父の目を惹きつけた。何の変哲もない井戸だ。普段なら気にも留めず通り過ぎただろうが、彼にはそれが出来ない。

 思わず神父は家へ帰るのも忘れ、井戸に夢中になった。

 最初は井戸の周りをうろうろとして、しかしそれだけでは耐えられなくなり、異様に井戸の中をのぞきたくなった。

 ただの井戸にそれほど魅了されることがどれだけおかしいのか、神父はそのことに気がついていた。だからこそ、井戸の周りを回る程度で気持ちを抑え込んでいたのだが、それもついに限界が来た。

 神父は井戸の中をのぞいて、そのまま井戸の奥底へと消えて行く。

 それからというもの、神父の姿を見たものは誰もいなかった。神父がどこへ消えたのかを知るものはだれもいない。

 

 

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