1.刻印
あるところに小さな港街があった。
街には大きな中央通りがあり、その通りを中心に街の入口から港までの東西を分断している。中央通りからはいくつかの通りが東に西に伸びており、その中央には古びた建物が立っている。街で一番大きな役所だ。
港はいつも漁業で賑わい、信仰深い漁師達は朝早くから神に祈るため、最南端にある港から、中央通を通って役所に行くまでにある小さな教会へと向かうことが日課になっている。
港から教会へと向かう道には、屋台の準備をしているのだろうか、いくつもの馬車が並んでいる。準備をしている馬車からはいい香りが漂っていた。
教会の道を挟んだ反対側には市場がある。市場には、今朝上がった新鮮な魚や土が少しついたままの野菜、香りの良い果物などが陳列されている。そのためか、朝早くから遅くまで賑わいを見せた。それは市場がある商業通りはもちろんだが、中央通りまで人だかりができているほどだった。
住民達の多くは、健康的な生活を送っているようで、教会のミサには多くの人が訪れている。農業をしている人も多く、みな生き生きとしていた。
だが、中には港に近い酒場で朝から飲んでいるものや、港で酔いつぶれている者も多く見えた。
そんな小さな街では、教会の神父の妻が産んだ子供の話題でもちきりだ。街でも仁徳者でとおる神父の子供でありながら、港街で初めて獣の刻印を持っているから話題にならないわけがなかった。当たり前だがそれを神父は良くは思っていない。誰でもそうであろうが、自分の子供につく悪い噂は気分が悪かった。
それでも、市場や酒場、港に至るまでどこでも神父の子供の噂ばかりで、漁師ですらウンザリしていた。それほどまでに神父から獣の刻印持ちが生まれることは珍しいことなのだ。他の街ですら聞いたことはないと、皆はこぞって話した。
当の神父といえば、信心深くて街のみんなに慕われていたことや、決して贅沢をせず布の服で神父をしているものだったので、尚のこと噂は止まることを知らない。人の噂は75日と、出来る限り気にしないように努めていた神父は、小さな教会の一室で子供をあやしていた。そして同時に神を初めて恨んだ。
(これはあんまりにも残酷じゃないか……神よ……どうして私の子供にこんな試練を与えるのですか……?)
子供を産んで疲れて眠っている妻に気が付かれないように、心の中でつぶやいた。
神父はとても疲れているようで、やつれた顔で子供の手の甲にある刻印を眺めていた。こんなものさえなければという苦悶の表情を浮かべ部屋を出る。
部屋を出て廊下を玄関までゆっくりと歩き家を出た。神父は今日が知り合いのためにミサを行う日だと思い出したのだ。
外で深呼吸をして落ち着こうと考えたのだ。ドアの前で深呼吸をし、ゆっくりと息を吸い込んだ。それから眼前の中央通り、そしてその先にわずかに見える市場を見て落ち着きを取り戻した。
落ち着きを取り戻した神父は、家の横に咲いていたアサガオの香りを感じられるほどには回復した。そうして、ゆっくりと礼拝堂へと向かう。
神父はだれからどんな仕打ちを受けようが、ミサだけは絶対にサボらないと決めていた。いつものように小さな礼拝堂で祈りを捧げる。集まった漁師たちのために祈るのだ。
神父が十字を切ることによってミサは始まった。それから少しの間、祈りが捧げられた。
祈りが終わると、小太りで身長の高い顔立ちのいい男が神父のもとへと駆け寄ってくる。その男は漁師の中でも『頭』と呼ばれる男で、神父の子供に対する噂のことを心配していたのだ。男は若くして薄くなってしまった自身の頭をなでながら、神父に申し訳なさそうにいた。
「あなたのお子さんのことは、なんというか……すみません、言葉が出てこねぇ……あなたは私達のために祈ってくれているというのに、私はあなたに恩を返すことすら出来ないのか……」
彼は煮え切らない言葉を発しただけで黙り込んでしまった。神父はそれが自分に気を使ってのことだは気がつき有り難いと感じた。
だが、慰められてばかりいる自分を情けないとも感じた。自身が神の教えを説く立場であるにもかかわらず、なぜ神を恨んでばかりいるのかわからない。
神父もまた、誰かに教えられることが多かった。
このまま黙り込んだままでは心配をかけると思い、精一杯元気に振る舞った。
「いえ、私は大丈夫です。確かに僕の子は刻印を持って生まれてしまった。でもなにがあろうが僕の息子だ。何をしようと僕だけはあの子を信じています」
神父の言葉を聞いて安心した頭は、それ以上は刻印のことに触れなかった。ただ「おめでとう」とだけお祝いしてくれた。それにつられ、他の漁師たちも代わる代わる祝の言葉をくれた。
それだけで神父の心は軽くなり、子供と向き合うための心の余裕が生まれた。息子が生まれてきたのが漁師達の出航前でよかったと思う神父であった。
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