いい子/悪い子 (BL・ちょっとR18)

「今日も智紀くんのとこに行くの?仲が良いのは結構だけれど、あの子ももう大学生なんだから。あんまり押しかけても迷惑でしょう」

 

 玄関で靴を履いていると、母さんが僕を窘めるようにそう言った。

 

「え!圭くん、とも兄の家に行くの?いいなあ、私も会いたいー」

「瑠衣なら大歓迎だってさ。兄さんに部活ない日を教えてやれよ」

「ほんと!?クレープ奢ってもらおうっと!」

「瑠衣、智紀くんに甘えないの」


ちゃっかりとした妹と、それをたしなめる母親。いつもの家族の会話だ。平和で、温かな家庭。


「…今日は兄さんに勉強教えてもらう予定なんだ。塾も今日はやってないから」

「そう?まあ、ありがたいけどねぇ。休日なんだから、遅くまでいて迷惑かけるんじゃないわよ。あ、これ、お隣の河野さんから貰ったスイカ。少しだけど持っていって」

「うん、ありがとう。じゃあ、行ってきます」

「いってらっしゃーい!とも兄によろしくね!」

 

心配性の母さんを安心させるために、僕はいつも当たり障りのない適当な嘘をでっち上げる。僕が優等生のいい子だと母さんは喜ぶから。母さんから手土産を受け取ると、僕は家を出て駅へ向かった。

 

 向かいの家の一人息子である飯田智紀は、俺の三つ上の大学三年生。飯田さん家と俺の家は、家族ぐるみで仲良くしていて、小さい頃から僕と妹は智紀兄さんによく遊んで貰っていた。高校は兄さんと違う所へ進学したけれど、大学はたまたま兄さんが通っている大学を第一志望にしたから、こうしてたまに兄さんに勉強を教えてもらいに行く。さっき適当な嘘と言ったけれど、本当に勉強会だけの時もあるから、僕のやってることはそんなに怒られることじゃないと思う。

 

 現在、兄さんは実家から電車で三十分の所に一人暮らしをしている。大学生らしい古いアパートの角部屋だ。兄さんはガサツだから、部屋には服やレジュメやらが散乱している。僕はあまり物を持っていないから、部屋を散らかすことはないけれど、写真が趣味の兄さんは、さらに写真集やフィルムや、兄さんが撮影した写真で足場を無くす。僕の家じゃ考えられないような散らかし具合だ。いや、妹も相当かもしれないけれど。

 

 兄さんが住んでる駅を降りて、さらに十分歩く。住宅街でぐねぐねとした道を右に曲がったり直進したり、階段を登ったりするとようやくそのアパートに辿り着く。たった十分なのに、すっかり汗をかいてしまった。角部屋の、一〇三号室のチャイムを押すと、間もなく扉が開いて兄さんが顔を出した。

 

「よぉ、圭。あがれよ」

「うん、お邪魔します…あっつ。蒸し暑いし、なんか臭い籠ってる。ねぇ、クーラーつけてよ」

「悪いな、クーラー壊れちまったんだよ。代わりに中古屋で扇風機買ってきた。アイスもあるぞぉ」

「あ、母さんがスイカどうぞって」

「おー、一人暮らしだとスイカなんか食べようと思わねぇんだよな。和美さんにお礼言っといて」

「うん」

 

挨拶もそこそこに僕たちは扇風機の前に陣取る。散らばっている写真は風で全部隅っこの方に飛んでピラピラと揺れている。


「ねぇ」

「うん?」

「キスしたい」

「ん」


そう言うと、兄さんの方から顔を寄せてきた。最初は啄むようなバードキス。床についていた手を絡めあって、冷房の効いていない蒸し暑い部屋で身体を寄せ合うようにしてさらにキスを重ねる。

 

「…んっ…ふ…っ…」


兄さんの舌が俺の口の中をまさぐってくる。兄さんに上顎の裏側を舐められるのが僕は好きだ。背中にピリピリと電流が走って腰が砕けそうになる。キスだけでこんなにトロトロになっちゃうなんて、圭は可愛いなんて兄さんは言うけど、僕をこんなにしたのは兄さんだ。


「あっ……んんっ…ふぁ……はんっ……」

 

兄さんとのキスを無我夢中で貪っていたら、兄さんがキスを止めた。

 

「はっ…ん、兄さん……?」

「あー悪い…ヤりたいのは山々なんだけどさ、今日提出の課題がまだ終わってなくて…」

「…スイカ食べて待ってるから、早くしてよ」 

「ほんとごめんなぁ、速攻で!終わらすから!」

 

そう言うと兄さんはわしゃわしゃと僕の頭を撫でて、足の踏み場のない床のどこからかパソコンとレジュメを取り出して早速作業を開始する。

 

「あ、煙草吸っていいか?」

「いいよ、僕、兄さんの煙草吸ってる姿好きだし」

「いつもキスする時苦いから嫌だって言うじゃねぇか」

「それとこれとは別なんだよ」

 

 なんだそれ、と笑って兄さんはまたどこからか煙草を引っ張り出してきて火を付けた。僕は換気のために窓を開けて、ついでに冷蔵庫からスイカを持ってきて、塩を振って食べ始める。窓を開けたおかげで暑いけど風が通って気持ちがいい。食べながら、兄さんを横目で見ると、真剣な顔で課題に取り組んでいる。口には煙草があって、時々大きく息を吐いて灰皿に灰を落とす仕草が印象的だ。あの唇は僕だけのものだし、大きくて骨ばった指だって僕のもの。僕はタールみたいに兄さんの肺にはへばりつけないけど、きっと心の奥底に居させてもらえてるはず。でも、不安になる時が無いわけじゃない。だって兄さんはかっこいいし、恋人だって言ってくれて、キスもセックスもしてくれるけど、僕はきっと1番仲のいい近所の子、みたいな、そんな位置づけだったりするんじゃないだろうか。

 僕は兄さんに少しでも近づきたい。対等だって認めてもらいたいし、兄さんがファインダー越しに見る世界を、僕も見てみたい。同じ空気を吸って、ずっと隣で生きていたい。それで、

 

「圭、終わったよ」

 

兄さんの優しい声。

 

「ごめんな、ひとりぼっちで寂しかったろ」

 

兄さんの纏う煙草の匂い。

 

「ただでさえ暑くて汗かいてんのに、泣いたら脱水症状になるぞ~?ほら、麦茶飲め」

「…うん」


兄さんの目が僕を映す。それを見て、僕は幸せだなあと感じる。

 

「麦茶飲んで、スイカ食い終わったら、続きしよう」

「…ほんと」

「ほんと。泣かせちゃったぶん、いっぱい愛してやるから」

 

 幸せだなあと、心から感じるのだ。

 

 

 

 

 

 

 


 時計を見ると、もう十六時半を指していた。そろそろ帰らないと、母さんが心配する。

 僕らは、狭いシングルベッドに二人、ギュウギュウ詰めになって横になっていた。汗とか精子とか、色んなものでグチャグチャで早くシャワーを浴びたいけれど、それよりも部屋の蒸し暑さの方が勝って動けないでいる。兄さんは起き上がってまた煙草を吸っていた。薄暗い部屋で、煙だけがやけにハッキリと見える。

 

「ねぇ、僕も吸ってみたい」

「煙草?」

「そう」

「ダメ。百害あって一利なしだぞ、こんなもん」

「じゃあなんで兄さんは吸ってるの?」

「んー、なんでだろうなぁ、何となく」

「分かんないのに吸ってるの?」

「…そういうもんだよ、煙草って。ていうかお前、まだ高校生だろ。大学受験だって控えてんだし、絶対に許しません」

「はーい」

 

 その後僕はアパートのシャワーを借りて身体を軽く流し、家に帰る準備をして玄関で靴を履いた。

 

「今日、あんまり時間取れなくて悪かったな。最後バタバタしちゃったし」

「ううん、かっこいい兄さんが見れたし…」

「気持ちよかった?」

「…オッサン」

「言っとくけどお前とそんなに歳変わらねぇからな。俺は圭が可愛かった」

「あっそ」

「照れちゃう圭くんも好きだぞ」

「うるさいよ」

「…さ、そろそろ親御さんも心配するから帰んな。和美さんにお宅の圭君をこんな時間まで連れ回してしまってすみませんって言っておいてくれよ」

「うん、今日は勉強教えてくれてありがとう」

「あ、そういう設定だったの。はい、どういたしまして」

「じゃあね」

「おう、またな」

 

最後にもう一度、わしゃわしゃと僕の頭を撫でると、兄さんはドアを閉めた。ガチャンと鳴るドア。僕は来た時と同じように、ぐねぐねとした道を歩く。でも、一箇所だけ、来た時と違う道に入るとそこにはひっそりとした公園がある。そこの古ぼけたベンチに座ると、僕はポケットから煙草を取り出した。ガサツな兄さんは、部屋から煙草が一箱無くなったって気づきはしない。咥えた煙草に火を点け、ゆっくりと吸って煙を肺に通し、またゆっくりと息を吐く。煙草を吸った兄さんとキスをする時と同じ、苦い味が口の中に広がる。

 兄さんが煙草を吸っている理由は分からないけど、僕は、家族にも兄さんにも嘘をついて、いい子を演じている自分が嫌いだから吸っているのだと思う。僕はただ兄さんが好きなだけなのに。

 

 これを吸っているほんの十分だけ、僕は悪い子になれるのだ。

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