第5話 俺が事案になりかねない



 千手院珠貴が言っていた『朗報』とは、祖父のアパートの一室をしばらくは無料で使用できるという事であった。


 俺よりも年下の珠貴に甘えてもいいのだろうか?


 何度も何度も自問自答した結果、珠貴の厚意に甘えることにした。


 俺が駄目な男だからじゃない。


 住所不定無職じゃ就職活動さえおぼつかないと分かっているからだった。


 住んでいる場所さえあれば、仕事を見つける事ができるだろう。


 そんなこんなで退院する日になると、珠貴が俺の事を迎えに来た。


「退院、おめでとうございます」


 病院を出た俺を制服姿の珠貴が満面の笑みを浮かべて迎入れてくれた。


 なんてできた子なんだ。


 俺みたいな無職にそんな笑顔を向けてくれるだなんて。


「無事に退院できたのは、珠貴さんのおかげだよ」


 今回の入院費用さえ立て替えてくれたのだ。


 もう珠貴には足を向けて寝られないんじゃないかな、俺は。


「いえいえ、この程度の事、当然です」


 謙遜さえ見せる。


 本当にできた子だ。


 なんでこんなにもできた子が俺なんかに構っているのだろう。


 やはりトラックに轢かれそうになっているところを助けたという比重が大きいからなのだろうか。


「病院から徒歩十分のところにあるのですよ、祖父のアパートは」


「結構近いんだな」


「はい。駅には徒歩十分で行ける範囲にあります。立地的にはいいのですけど、入居者が入っては一二ヶ月で出て行く『いわく』付きの部屋だって祖父は言っていました」


「……ほう……」


 俺は心の中で大声で叫ぶ。


『そういうオチかよ!!』


 自殺とかがあった事故物件で、幽霊が出るとかいうそんなオチか。


 まあ、無料で借りられるんだからそういう事に不平不満を言うのは失礼だよな。


 再就職の難易度が格段に上がる、住所不定無職だけは回避できているんだから贅沢は言わない。


 うん、言わない。


 言いたくない。


 でも、事故物件かぁ……。


 嫌だなぁ。


 幽霊とか出たら嫌だなぁ……。


「大した害はないらしいので、大丈夫ではないかと祖父は言っていました」


「やっぱり幽霊でも出るの?」


「いえ。人が死んだ部屋ではないので事故物件ではないそうです。ですけど、一二ヶ月で出て行く理由がある部屋だとは聞いています」


「……どういう部屋なんだ、それ?」


 一二ヶ月で出て行かざるを得ない部屋。


 幽霊が出る事故物件ではないとしたら、どんな部屋だというのだろうか?


 それはそれで非常に恐ろしいのだけど。


「分かりません。祖父が詳しくは教えてはくれませんでしたので」


「……そうなると、住んでみないと分からない事案って事か」


 何があるっていうんだろう?


 まあ、なんとかなるだろう、たぶん。


「もう着きました。ここです」


 そんなこんなで十分はすぐに経ってしまい、祖父のアパートとやらに到着した。


 築三十年以上は経っている二階建てのアパートだった。


 部屋数はパッと数えた感じでは、全部で八つ。


 建物はそれなりに大きいので、部屋はさほど狭そうには思えない。


 二階には敷地内の中央に設置されている階段で上るようになっている。


 最近、外装などを修繕したのか見た目は新しいのだけど、建物の作りは古めかしい。


 そのギャップが何とも言い違い。


「ここか……」


 いわくがあるとはとてもじゃないが思えない。


 そもそも、その『いわく』とやらが何かの誤解ではないだろうか。


「部屋番号は104です」


 珠貴がそう言って、一階の右端の部屋の方へと案内してくれた。


 俺に用意されていた部屋は右の一番端っこだ。


 一階というのが気にはなる。


 だが、ドアも新しいものになっていて、住みやすくはなっていそうだ。


「それでは」


 珠貴が鍵を取り出して、部屋のドアを開けた。


 その時だった。


「にゃ~」


 猫の鳴き声が聞こえた。


 瞬間、デンデケデケデケデケだとか、ピコーンだとか、ガシャンだとか、そんな類いの雷に打たれたような衝撃が全身を駆け抜けた。


 ワケが分からず身体が震え始める。


 武者震いだとか、怖くて震えているのだとか、そんな類いの震えではない。


 身体の奥底から喜びがバッと湧き出してきて、その喜びが身体の許容量を大幅に超過してしまったため、震えとして外へと出ようとしている……そんな震えであった。


「あははははっ……」


 嬉しい、嬉しい、嬉しい。


 幸せだ、幸せだ、幸せだ。


 語彙力を失ったような言葉が頭の中を駆け巡る。


 俺自身がどうかなってしまったのかと思ってしまうほど俺自身が壊れかけている。


 どうしちまったんだ、俺は?


「だ、大丈夫ですか?!」


 俺の様子がおかしい事に気づいてか、心底心配しているかのような顔で珠貴が俺を見やる。


 俺は大丈夫なのか?


 それさえも分からない。


「……ッ?!」


 アパートのドアのところに何故か鏡があって、そこには俺の顔が写し出されていた。


 そこに写っている俺自身の顔はどう見ても……


 どう見ても……


 アヘ顔だった……



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