第2話 俺、無職。千手院珠貴、女子高生。


「俺は……過労死寸前だったのか」


 俺は病院のベンチに腰掛けて、誰に言うとも為しに呟いた。


 思い当たる事はいくらでもある。


 サービス残業の時間も含めれば、ここ数ヶ月は月三百時間近くは働いていたのではないか。


 そんなに働いていたら、過労死しても不思議ではない。


「ふぅ……にしても、落ち着かない……」


 病院の中は清潔感が漂っているせいなのか、なんだか居心地が悪い。


 けれども、仕事に追い立てられるわけでもなく、ヒステリックな上司の罵声が飛んでくるワケでもないので、精神的には安定する。


 何故病院にいるかというと、十日ほど前に意識を失った俺は病院に運び込まれたからだ。


 その後、一週間ほど目を覚まさなかったそうである。


 意識がなかった頃の記憶が当然ながら全くないので、そう言われてもにわかには信じられなかった。


 あの日、会社を出たところと、何かのもふもふの感触だけは覚えてはいる。


 しかし、それ以外の事が一切思い出せないのだ。


 俺は道路に飛び出して動けなくなっていた猫を救おうと飛び出したらしい。


 で、その猫の飼い主でもある女の子が猫を救おうと道路に飛び出していたらしいのだが、その女の子もついでに助けたのだという。


 この俺が。


 猫と女の子を同時に。


 うん、全然覚えてない。


 医者に言わせると、過労死しなくても、くも膜下出血か、脳梗塞になっていた可能性が高かったそうで、意識がもうろうとしていた事が予想される。


 だから覚えていなくてもなんら不思議ではないとか言っていた。


「あのまま死んでいた方が楽だったのかな……。死ななくても、異世界に行っていたらなぁ……あれ? なんで異世界?」


 何故俺は異世界に行くことを口にしているんだ?


 そんな願望でもあったのかな、俺には。


 行けるのだとしたら行ってみたいな、異世界には。


 チート能力盛りだくさんで、こんな糞みたいな現実なんて鼻で笑えるくらいな予感がするし。


「死んだら駄目ですよ」


 どこからともなく女の子の声が飛んできた。


「こんな世の中だもの、死にたくなるさ」


 俺はなげやりに言葉を返した。


 この病院で俺に声をかけてくれる女の子と言えば、誰だか分かっているからだ。


 俺が病院に担ぎ込まれてから一日も欠かさずにお見舞いしてくれているのだそうだ。


 俺は一週間ほど目を覚まさなかったので、それが本当かどうかは分からない。


 だが、看護師達がそう言うのだから事実なのだろう。


「駄目ですよ、気安く死にたいだなんて言ったら」


 その女の子がベンチに腰掛けている俺の前まで来て立ち止まった。


 名前は、千手院珠貴せんじゅいん たまきと言うそうな。


 最初、『千手院』という名前を聞いた時、漢字でどう書くのかが想像できなかった。


 書いて教えてもらわなければ、千の手の院とは考えられなかっただろう。


 年齢は十六歳。


 どこかの制服を着ているので、当然高校生なのだろう。


 顔は可愛い部類に入るのだろう。


 腰の辺りまであるさらりとした艶のある黒髪が美しく、一言で表現するのならば『黒髪の乙女』だ。


 それに加えて、制服に隠れきれない膨らみがあるので、胸はそこそこ大きい。


 腰のくびれもきっちりとある。


 お尻もそれなりに肉付きが良い。


 実際に千手院珠貴は可愛いし、魅力的だと思うのだけど、何故かときめかないのだ。


 何故なんだろうか?


 理由が不明瞭だが、何故か惚れた腫れたといった感情が全然、全く、これっぽっちもわいてこない。


 やはり十二歳の年の差があるからションベン臭い小娘程度にしか思えないのかもしれない。


 だから、どうしても対応がおざなりになってしまう。


「今日から無職になっちゃってさ。ついでに、社宅も一週間以内に立ち退くように言われたしさ。死にたくなるよ。」


 俺が意識を失っている間、会社から鬼のように電話がかかってきていた。


 意識がなかったから当然出られなかったんだが、業を煮やした会社は俺が目を覚ました日に、俺のメールアドレスに『懲戒解雇』の通告メールを送ってきたのだ。


 それをさっき発見して、俺は絶望の淵にたたき落とされたというわけだ。


「ははっ、おかしいだろ? 無職になった上、住むところもなくなって、退院しても行く場所がなくなっちゃったんだよね」


 俺がおどけた風にそう言うと、千手院珠貴は悲壮な顔を見せた。


 俺以上に悲観しているような表情だ。


「退院したら、ホームレスだよ、ホームレス……はぁぁ……」


 おどけて振る舞おうとしたけれども、最後は本気のため息がもれてしまった上、頭を抱えてしまった。


「……大丈夫です」


 珠貴が俺の肩にポンと手を優しく置いた。


「私がなんとかします」


「何とか? 何とかって何を、どうする?」


 俺は顔を上げて、珠貴を見やる。


 その顔は自信で溢れていた。


 こんな小娘に何ができるというのだ?


「私の祖父が所有しているアパートに空き部屋があったはずです。私とたまの命の恩人ですから数ヶ月は敷金礼金家賃なしでも住めるように祖父を説得します」


「たま? 私とたま?」


 命を助けたとしても、アパートの部屋を用意してもらうほど落ちぶれてはいないから、ここは断るとしようか。


 今年で二十八歳になるのだからなんとかなるさ、なんとか……。


 それよりも『たま』とは何者なのだ?


 珠貴の妹か姉がいて『たま』なのか?


 そうだとしたら『たま』という名前に異常に執着している両親という事になる。


「たまは祖父が飼っている三毛猫の名前で、三田さんが助けた三毛猫ですよ」


 三毛猫!!


 その単語を耳にした瞬間、得も言われぬ至福感が俺の全身を包みだした。


 なんだ、この沸き上がる幸福感は?!


 俺自身が混乱するほどの感情が止めどなくわき上がる。


 何故、三毛猫でここまで反応している?


 特別な何かがあるというのか、三毛猫に。


「ならば、珠貴さんの厚意に甘えようではないか。俺がそのアパートに住めるのであれば、だけど」


「ほ、本当ですか?! でしたら、さっそく話をしてみます。祖父でしたら、きっと承諾してくれるはずです!」


 珠貴が目をキラキラと輝かせながら、嬉しそうに声を弾ませた。


 あれ?


 俺の意思というべきか、深層意識からなのか、断ろうとしていたのに、何故かそう口にしていた。


 何故?


 どうして?


 俺はさらに混乱した。


 自分で自分の事がわからなくなってしまったからだ……。



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