第五章『現実世界』第20話

 暗闇の中僕の足音だけが反響していく。道は両腕を伸ばせば丁度指先が壁に触れるくらいだ。僅かに見える光に向かって進む。実を言うと僕はあまり目が良くない。光の先を見ようと目を凝らすがただゆらゆらと揺れる光が見えるだけだった。まぁそこまで長い道ではないはずだ。光に向かって進むと案の定すぐに部屋に出てこれた。揺れる光の正体は……


「なんだこれ……虫か?」


 無数の小さな光が部屋中を飛び回っている。蛍かと思ったがよく観察しても虫らしき形状は見当たらない。もしかして妖精のような何かだったりするのだろうか。

 至る所に色んな大きさや形状の鏡がある。鏡は無数の光によって照らされ僕の姿をぼうっと映し出す。鏡の中の僕は随分辛気臭い表情をしている。酷い隅だ、余程疲れているのだろう。


「この中に契の鏡があるはずだ……でもどれかさっぱり分かんねぇ」


 どれもこれもただの鏡にしか見えない。まぁこういうのは大概奥にあるはずだ。そんな気持ちで部屋の一番奥へ。


「……?」


 微かに声が聞こえたような気がして耳を澄ます。確かに誰かが呼ぶ声がしている。僕はこの声を知っている。


「ここから……?」


 声はとある僕の2倍程もある大きな鏡の中から聞こえるようだ。

 ずっと引っかかっていた。この世界に来てから何度も見かけた謎の人物。最初はまさかなと思っていた。僕の勘違いでなければ恐らく……


「ッ?!」


 突如身体がぐんっと鏡の中へ吸い込まれる。鏡の中へ入った瞬間今度は下へ落とされた。一瞬の闇の中でカチカチと少しずつ大きくなる時計の音。この感じは最初に鏡の世界に来た時のものと同じだ。しかしあの時とは違い、そのまま僕の身体は眩い白い光に包まれる。思わず目を覆った途端、ぼすんと柔らかいものに背中から落ちた。


「ここ……体育倉庫……?」


 撒き上がる埃に軽く咳込みつつも落ちた場所を確認する。体育の時間で見慣れた場所。紛れもなくここは僕の学校の体育倉庫だ。


「まさか、戻ってきたのか?」


 体育倉庫の重くて錆び付いた扉を開ける。目の前に広がるグラウンド。間違いなくここは僕の学校だった。そして空の様子からして丁度僕が屋上から飛び降りようとした時間から大して変わっていないようだ。もしかしたら今までのは夢だったのだろうか。僕は校内のトイレに入り鏡を確認した。服装も見た目も元に戻っている。当たり前だよな、冷静に考えればあんな非日常的な事が起こるわけがない。流石に疲れてしまった。もう帰ろう……

 僕は教室に戻りロッカーから自分の鞄を取り出した後、重い足取りで帰宅したのだった。持っていた合鍵で玄関の扉を開ける。


「ただいま」


 誰に向けてでもない言葉を雑に空虚へ投げる。この時間は両親はまだ仕事だ。2人とも共働きで最近は殆ど顔を合わせる事も少ない。僕はすぐに自分の部屋へ向かい、鞄を投げ出しベッドへそのままダイブする。その時ズボンのポケットの辺りから硬いものを感じた。


「なんだ? えっ」


 ポケットから取り出したそれに目を疑った。夕日に照らされ鈍く光る赤い鍵。鏡の世界で渡されたあの鍵だった。


「夢じゃ……ないのか」


 僕はノストラダムスの話を思い出した。契の鏡を通じて現実世界にすぐに戻らなければ身体が壊れる……これが本当なら悠長にしている時間はない。僕は即座に部屋の姿見鏡の前に立った。


「も……戻らなきゃ……あの世界に」

「何してるでース?」

「何ってあの鏡の世界に……ってチェシャ?!」


 信じられない事にチェシャが僕の肩に乗って呑気に毛繕いしていた。


「いつの間に……そもそもこの世界に来れたのか?」

「もちろんでース! 簡単な事ですシ!」


 チェシャは姿見鏡に飛び移り器用に座った。あのスペースでどうやって乗っているのか甚だ疑問だ。自分の部屋におかしな猫がいる違和感に戸惑いつつ、僕はチェシャに問いかける。


「僕はこのままだといけないんだろ? 鏡の世界に戻りたい。 どうしたらいい?」

「キシシ……戻りたい、ですカ。 だったらあんたをここへ呼んだ人物に連れ戻して貰うですネ〜」


 呼んだ……あの声か。それなら既に検討はついている。ただ問題は時間だった。


「明日までは持ちそうか?」

「ん〜予想では明日の昼過ぎくらいまでなら大丈夫ですシ〜」

「予想かよ……」

「その時によるから分かんないですシ! おっと、そろそろ戻らないと! じゃあ頑張るですネ〜」


 チェシャは空中でくるんと身体を翻し空間に溶けるように消えてしまった。止める暇も無かった。相変わらず自分勝手なやつだ。とりあえず今は大丈夫と信じて明日を待つしかない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る