第42話 沼地での戦闘
墨汁を落としたようなシミが、次第に大きくなっていく。
ジェリスは右腕を左手で添わせ伝令を飛ばした。
「リオさん、下がってて」
ジェリスとエヴァがリオの前に立ちはだかり、2人ともそれぞれ風と水の魔術を纏っていく。
ドロドロを越えた向こう側には、黒髪の男が同じような動作で魔術を身につけていた。
リオの後方にも作業をしていた人たちが集まり、それぞれ武器を所持し陣形をとっていく。
ついに黒い形は人型になった。
渦巻く様に正体を形成していく様は、テントの上に異空間が出現したかの様だった。
あの絵と似た、人の様な鳥が現れる。
後方からどよめきが起こり、掛け声にあわせて弓矢が放たれた。鳥は翼を広げて風を起こし、弓矢が近づくとそれらを上空に吸い上げ一周させ、逆にこちらに向けて放ってきた。
竜巻の様な風に乗った弓矢は、ザッと言う音を立てて、頑丈そうな布のテントをも突き抜いた。
テント近くのマイヤー達はどうなったかと目を走らせる。
マイヤーは土で盾を、ルーカスは火炎で矢を消した様だった。
鳥の羽ばたきから繰り出される風圧が近くのテントを飛ばし、さながら竜巻の様に巻き上げられる。
と同時に、目の前のドロドロの形状が重力に逆らって山を形成していく。
2メートル程の山状となったドロドロはクッキーの人型のようになり、重そうな音をたてて、こちらへと向かってきた。
その人型の形状はどう見ても宿屋のご主人を大きくしたような体型だった。
「…シイ、…シイ」
口のような隙間が…恐らく頭だと思われる部分から泥を交えて空気が飛び出し、話しているように聞こえていた。
エヴァはリオの半身を守りながら弓矢隊に合図する。
一斉に弓矢がドロドロを射抜いた。だが、実態のない泥はそれらを貫通させる。
「火で固めて!それから弓矢!」
ジェリスが号令をかける。
盾を持った集団がドロドロを取り囲む。その後ろにも騎士団が立ちはだかる。
二重三重と騎士団が取り囲み、完全にドロドロは包囲された。
「打て!!」
ジェリスの号令と共に火系の魔術を一斉に浴びせかける。
ドロドロは火で水分が蒸発したのか動きが鈍くなり、ハニワのようになった。
それと、同時に眩しい閃光が走る。
鳥の断末魔が聞こえて、それが鳥に向けられたものだったとリオは知る。
「何が光ったの…」
答えたのはエヴァ。
「三団隊長の雷撃だよ」
「三団ってリンクさんの上司のカイル隊長?」
「うん、そうだよ。そんなことより…リオさん、これ以上は危ないから救護用テントまで送るよ。それに、手伝って貰えたら凄く助かる」
リオはエヴァに守られつつ、随分歩き沼の端にある救護用テントまで送られた。エヴァはまた参戦するようで、すぐに駆け足で戻っていった。
「あ…、あなたは怪我人か?」
救護用テント、出入口のカーテンを開けると、頭に白色のターバンを巻いた胴付き長靴姿の男が駆け寄ってきた。手には包帯を持っている。
「いえ、私は…薬師です」
「なら、助かる」
怪我人が多くて忙しいのか、いきなり仏頂面で指示を出す。
「この人の足を持ってて」
「はい」
見渡すとかなりの数の人達が横たわっていた。簡易のテントなので、ベッドはなく、白い防水シートの上に布をひいて、そこに寝そべっている状態だ。
「太腿に弓矢が刺さってる。矢尻の部分を先にこれで落とすから押さえて」
小型ノコギリを取り出す。ノコギリでは左右に動かす振動で、激しい痛みが伴うはずだ。
矢を刺された本人は口に布を噛み、祈るように両手を胸で合わせていた。
「麻酔か痺れ草で神経ブロックされましたか?」
「局部的には。助手が取りに行ってる」
「私、痺れ草持ってます。簡易なので全体への薬効は数十分ですが」
「助かる」
ポケットから薬を出そうとして、胴付き長靴のままだったことに気づく。
胴付き長靴を脱ぐ。シワだらけになったワンピースのポケットから薬を出した。
水で練り直した痺れ草をコップに入れ、飲ませる。口の奥からミントのキツイ匂いがして成分が効き始めた頃、矢尻の切断を開始した。
素早く適切な処置で痛みも少なかったようだが、抜く時に大量に出血した。持参した止血剤で患部を覆う。
患者の額には大量の汗が光っていた。
こんなことになるとは思っていなかったけど、薬剤を持ってきて良かった。
処置が終了した騎士は、安心したのか気絶しているのか、地面にその身を預けていた。
「泥が目に入って!」
また、騎士が入ってくる。
白ターバンの男は、目が見えなくなった騎士を水を張ったタライまで無愛想に連れて行く。
その間にも多くの騎士が処置を求めて入ってきた。
野戦病院そのものである。
「鳥の風攻撃でテントのロープが!」
服を脱いでもらうと、ロープが右アゴから胸まで当たり、ミミズ腫れになっている。血までは出ていなかったので、リオは腫れ止めと炎症止めの塗り薬を塗った。
戦況を聞くと、捕獲の指示が出ているため、思うように動けず苦戦している、との事だった。
大勢の騎士が入り処置を受け、また飛び出して行く。薬剤を取りに行った助手も帰ってこないため、処置に要する資材の底を尽きていた。
「もう、患部を綺麗に洗うことくらいしか出来ないな」
そこでふと思い出す。
「私の家が近くにあります。薬剤…と言ってもさっき持っていたような物ばかりですが、たくさん在庫はあります」
「本当か!」
仏頂面の人が嬉しそうな笑顔を見せる破壊力はすごい。
「はい」
「えと、名前聞いてなかったな。あ、名乗るのが先か。私はニール、医師だ」
「私はソール村沼地の薬師、リオです」
「この状況だ。薬剤があるなら欲しいところだが…その、家までは安全なのだろうか」
「裏道ですので安全だと思います」
「人が足りない。1人で大丈夫か」
家までの道、戦いの現場とは反対方向。少し危ないかなとは思ったが、平民のリオごときに護衛なんてつけていられないだろうと思った。
なんせ、緊急事態なんだから。
「はい、大丈夫です」
じゃあ、とニールは何か丸いもぐさのような物を差し出す。
「これは?」
「魔物除けの煙になるから、火をつけて、この容器に入れて行きなさい」
除草作業時に腰につける蚊取り線香のような入れ物に、火をつけたそれを入れた。
「では、行ってきます」
「うん、頼む」
素っ気なく言い、また怪我人が入って来たのでそちらへ走っていった。
リオはその背中を見送ってから、家へ向かうことにした。
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