腕まくり
O'neal
腕まくり
雨というのは本当に面倒なもので、物事がプラスに働かない傾向がある。例えば、あるイベントがあり、楽しみで眠れぬ日々を数日過ごしてようやく当日になった時に、雨が降って中止になるというようなものである。さらに言えば、眠りから醒めて、どんよりとした空から気怠い雨が、窓にポタポタと叩いている音を、寝ぼけた耳でそれとなく聞くと、ああ今日は傘の出番だ、自転車通勤の場合は、ああ今日は合羽を着なきゃ、というように、朝一番に一つ面倒が増え、雨に憎悪を覚えるようなことでもある。逆に、雨が降って喜ぶような奴はたいてい、臆病者か怠け者である。朝に似合わないグレーがかった白色の部屋に、鬱な自分を重ねて同化したり、南の島のハメハメハ大王の子供のように仕事や学校が嫌いで、欠勤欠席の連絡を入れて、満を持して布団に潜り込んだりすることが多いからだ。
ひと昔前までなら、雨など恐るるに足らず、「雨天決行」というフレーズもあり、「雨に唄えば」とか言って、土砂降りの中を元気に歌って踊ったりすることもあった。更に、朝の雨はすぐに止むのだから傘など持つ必要はないというような根拠のない天気予報も、個人の想起や当てずっぽうな解釈の中で存在したが、今はそれもあまり聞かない。
つまり雨とは、昔は恐れることのない、単なる自然現象の一つに過ぎなかったのだが、今では人間の気力を
しかし、雨という具体とも抽象とも捉えうるものを扱うのは、我々人間にとってはひどく困難である。
その理由は、雨にはバリエーション豊富な降り方があるからである。ただ単に「雨」というものを想像するのは人それぞれ異なるだろうし、「秋雨」とか「梅雨」とか「にわか雨」とかのように修飾すれば、その抽象は一気に具体となる。そのような千変万化するものを一概に言いくるめることは不可能に近い。
そこで、雨と類似性を持つものを発見する必要があった。これまでの人生を歩んでいく中で薄々と感じ、それがやがて確信となったものが一つだけある。
それは、「女」である。
雨を女に喩える、もしくは女を雨に喩えるような言い回しはないわけではないし、むしろ多い方であるかもしれないが、かなり興味深い視点である。どのように類似するのかは後述の、短いエピソードで紹介しよう。
或る同棲している男女が東京に住んでいた。男はしっかり者で、仕事を一から十まできっちりこなす、当たり前のことは当たり前にやる人であったが、少々頑固な一面があり、自分の考えは鋼鉄のように硬く、曲げられないものであった。一方女は男に常に従順で、言われたことは全て対応した。男の頑固な性格は理解していたし、別に男の指図を受けたところで不自由を受けたことがないので、男に歯向かう筋合いも特にはなかった。
二人とも三十六歳で同い年だが、知り合ったのは大学三年生の時に、共通の友人に紹介されてのことだった。趣味趣向も合っていたし、初対面でも話はかなり弾んでいて、その後自然的に付き合うことになり、現在に至る。
しかし、一つだけ従来のカップルとは大きく異なる点があった。それは、これまで付き合い始めてから十数年、一度も性的関係を持ったことがないということである。二人の共通点としては、裸体を人前に晒すといった、はしたない行為は言語道断に思っていることであり、裸を他人に見せたことは一度たりともないばかりか、他人がいるところで服一つ脱いだこともない。何も、関係を持つという行為がはしたないと言っているわけではなく、彼らそれぞれの考え方であるに過ぎない。それがたまたまカップルとして一致したということだけである。そういうわけで、二人は一度も接吻をせず、互いの裸も見たことがないままなのであった。だが二人はそうした行儀の良い付き合い方で満足していたし、何の不満もなかった。
ただ、男には一つ疑問に思うことがあった。それは、女が常に長袖を着ているということである。女はどんな猛暑であっても、俄然として長袖の服を着ていた。それは初対面の時からずっとそうであった。
「暑くないのか」と男が心配して聞いても、
「ええ、私、寒がりだから」と汗をかきながら女は返事をした。
男は時々、高校時代の彼女を知る女の友人に何度か聞いたことがあったが、高校のプールの更衣室でさえ、人前で着替えない人であったというのだから、依然として長袖を着ている理由は不明であった。だが、彼女が長袖を着ているからといって、別に何か男にとって不自由なことが起きるわけでもないし、服なんてものは、冠婚葬祭の時以外、何を着るかは個人の自由であると考えていた。更に言えば、男は比較的寡黙であったので、女に詰め寄るようなこともしなかった。疑問には思っているが、詳しくは聞いて欲しくないと女が心で囁いているような気がして、男はその猛暑の時以降、長袖のことに一切触れないようにした。
しかし、この長く続いた女の小さいような大きいような秘密も、あっけないことで暴露されてしまうのだった。
ある夜、男が珍しく酒に酔って帰ってきた。女は、しっかり者の彼がそんな風貌で帰ってきたことは全くなかったので大変に驚き、事情を聞いた。それによると、会社で首が跳ね飛びかねない、これまでにない大きな失敗をしてしまい、これまで築きあげてきた会社での地位もプライドも一日で半壊してしまった。男はそれに甚大なショックを受け、一人帰り道を歩く途中、ついやけになってしまいたくて居酒屋に入り、気付いたら千鳥足になるほど酒を盛っていたというわけである。
「半壊ならまだいいじゃない、また建て直せるわよ」そう女が励ましても、頑固で実は完璧主義者である彼は、
「半壊も全壊も同じだ」と吐き飛ばした。
「じゃあ、夕食は要らないのね」
「ああ」
「いくら仕事のできるあなたでも、そういうことがあるのね。知らなかったわ」
「俺も人間だ、失敗はする。だがここまで被害が大きいと、途方にくれてしまうよ」
「今まで上手くいってたじゃない。時にはそういうどん底もあるでしょうに」
男はスーツを脱いだが、ワイシャツはもちろん脱がなかった。女は相変わらず長袖のシャツを着ていた。二人はテーブルに向かい合って座った。
「思ったんだけどさ」と、男は呟いた。
「何?」
「俺たち、キスもしたことないよな」
らしくない発言に、女は耳を疑った。
「な、何よ急に。いくらなんでも酔いすぎ」
「いや…思ってはいたことなんだ。確かに俺たちは、あまりみっともないことをしたいとは思わない。だけど、それでお前は満足しているのか、恋愛として認めていいのかと、最近になって今更感じ始めたんだよ」
「…そうね。あなたがそう思ってたとしてもかなり今更な気もするし、別に私はそれでいいと思ってる。今までのままで満足もしてるしね。何の心配も要らないわ」
「…そうか」
男は頭を掻いて、言う言葉が見つからないような顔をした。女が入れてくれた一杯の水をぐいと飲み、酔いを少し覚ました。
少々沈黙が続いた。外では静かに雨が降り始め、窓に水が
「結婚…」
男は言葉をこぼし、唐突の告白に女はぎょっとした。
「今…なんて?」
「結婚…しないかな。もうずいぶんと長い間一緒にいたことだし、これまで何一つ障害なく過ごしてきたし、きっとこれからも一緒に暮らしていくことになるだろうから、結婚っていう選択肢も、悪くないんじゃないかな」
女は下を向いて、黙りこくっていた。するとやがて段々と喉の奥で鳴る嗚咽が聞こえ始め、女は涙を流して男の方を向き、飛び切りの笑顔を見せた。
「私は十数年間…ずっとその言葉をあなたから言われるのを待っていたわ。ようやく、あなたは私を認めてくれたのね…」
「何馬鹿を言ってる。俺はお前を認めていなかったら、こうしてずっと一緒に住んじゃいないよ」
「そうね…結婚…その言葉が出てくるということは、私の"このこと"も密かに認めてくれたということ…」
「えっ?」
すると急に女は立ち上がった。そして、徐に彼女の長袖をまくった。男はそれを見て、慄然とした。
赤く華やかな薔薇が腕に咲き誇り、黒い文字で「天上天下唯我独尊」と彫られていた。呆気にとられた男は、何故今までこんなことに気付かなかったのか自分で自分を責めた。その夜降り始めた雨は、翌朝になっても止まなかった。・・・
以上が短いエピソードである。その後二人は半ば強制的に結婚し、子供は作らなかった。しかも、その結婚の告白以降、長袖の中の薔薇は死ぬまで誰にも見られることがなかった。例外でその薔薇を知っているのは男一人と、女の親族のみであった。同棲時代は女が男に従順であったが、結婚してからは男が女に従順になったし、指図もしなくなったし、頑固な部分もなくなった。
昔は朝雨も女の腕まくりも恐れる必要はなかったかもしれないが、今では朝雨はなかなか止まないし、女の腕まくりも恐ろしいことである。
今日も雨の降るどこかで、女は隠し持つ薔薇のトゲを男の心臓に断続的に突き刺していることだろう。その場では傘など何の役にも立たない。
腕まくり O'neal @craft-novel23
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます