第十五話 シナガワ・リンク・フォース~あかるい未来①~


 ハイドが萎皮シナガワ区に配属されてから一週間が経過した。


 初の配属先が23区だった事もあっておっかなびっくり働いていたのだが、なんとか慣れつつあった。23区は市区と比べ、強力な化物が生存競争を繰り広げていると聞いていたのだが、化物の群にはまだ遭遇していない。今のところは想像していたよりもずっと平和な印象である。23区の他地域がどうなのかは知らなかったが、少なくとも萎皮シナガワは平穏と言って差し支えない。ハイドはそう感じた。


 加えて、隊員達も優しい人ばかりだ。「困った事があれば何でも相談してくれ」。その台詞を何人に言われたか分からない。隊長も見た目以上に親切だった。


 着任の挨拶のために隊長の部屋を訪れたときは驚いたものである。滑らかな木肌の書き物机、その左右に観葉植物があり、部屋の中央にはガラス製のローテーブルを挟んで革張りのソファが一対いっつい。壁際のラックには大量のボトルが並んでいた。地下コロニー第35エリア出身のハイドにとって、その光景は信じ難く、幻のように感じた。壁に留められた幾何学模様の布も、年季を感じさせる振り子時計も、部屋に敷かれた蔦草模様の絨毯も、その全てが初めて目にする物である。


 隊長は黒のベストに清潔な白シャツ、下はスラックスで、襟には光沢のある赤いネクタイを締めていた。これも地下では見なかった装いである。彼は就任祝いとして深紅の液体をグラスに並々と注いで出してくれた。あまり美味しいとは思わなかったが、背伸びした酩酊感が気分を高揚させたものだ。


 それがワインという酒類であると知ると、嬉しく思った。


 隊長によると、酒類は遥か昔、未成年がたしなむ事を禁じられていたらしい。今でも製造はされているが、一桁エリアの一部の富豪しかありつけない品であり、古いしきたり通り、大人だけが楽しめる物との事だった。それを聞いたハイドは、自分が認められたような誇らしさを感じたものだ。まだ十六そこそこの年齢だった事も理由のひとつである。


 着任挨拶の場で、隊長は萎皮シナガワ区をユートピアと呼んだ。


「ハイド。我々は区内を徹底的に発展させる方針なのだよ。地上に存在する遺物は知恵の宝庫だ。それを地下資源にするだけなんてナンセンス。地上にはあらゆる機構があるのだよ。愚者の目から見れば鉄屑でも、賢者には宝石として映る。我々は学習と進歩を何より重んじる方針だ」


 足を組み、ワイングラスを傾ける隊長が印象的だった。


「君は次期隊長として萎皮シナガワに配属された。訓練校卒業と同時に23区に飛ばされるってのはそういう事さ。……君には期待してるよ。共に萎皮シナガワを発展させていこうじゃないか」


 この人についていけば間違いない。ハイドはそう思って安堵した。


 卒業後23区に配属された隊員は大半が死ぬ。三年以内の死亡率は八割にものぼるという。禄に経験も積まないうちから強力な化物との戦闘をしなければならないからだ。しかしハイドは、自分が萎皮シナガワで死ぬ姿をイメージ出来なかった。発展していく萎皮シナガワを隊長の隣で眺める想像のほうが余程よほど現実的だ。


◆◆


 ハイドは隊長とその取り巻きに連れられ、巨大な橋を渡っていた。潮風が肌に心地良い。


「なにぶん、メトロのとおっていない場所でね。しかし化物は滅多に現れない。萎皮シナガワ発展の重要拠点さ」


 橋の先は廃墟にしては小綺麗な平たい建物が鎮座していた。その先は、空が妙な色になっている。濁った薄緑のような色彩だった。ハイドは不思議に思って問いかける。


「あの空は何ですか? 変な色に染まってるような……」


「『地区防壁』さ。各区域を分離する壁だよ。人も物も全て遮断する壁……。化物も例外じゃない。誰が創って、どうやって維持しているのかも分からない」


 隊長は素っ気なく答えた。ハイドは地区防壁を見上げて嘆息する。地上は分からない事だらけだ。


 平たい建物に入ると、えたにおいが鼻を刺激した。隊長はエントランスを突っ切って正面の扉を開け放つ。直後、臭いが強くなった。


萎皮シナガワにはいくつか工場がある。なかでもここは一番重要な場所だ。萎皮シナガワの労働者を下支えする製品を作ってるのさ」


 中はガラス張りで、それを通して階下の広間が見下ろせる構造。広間内では不揃いなマスク姿の隊員が立ち働いているのが見える。皆、何やら茶色い球を削っていた。よく見ると、乾燥した木の実のようである。


「あの実は硬くてね。ひとつ削るのに何時間もかかるのさ」


 隊長は何でもないように言ってのける。


 彼らは一様に手元に集中し、誰ひとり余所見よそみをしない。何だか異様な光景だった。何時間もそうして作業しているのかと思うと気が遠くなる。


「……あの人達は?」


 ハイドは思わず疑問を口にしていた。そんな彼に隊長は微笑みかける。


喪失ロスト……武器を失った隊員さ。放っておけば化物に殺されてしまう彼らをここで保護しているんだ。そして労働という生存理由まで世話しているのさ」


 そういうものなのだろうか。確かに彼らはひとりとして武器を所持していないように見えたが、働いていなければ生を感じられない人がいる事自体、ハイドには疑問だった。


「あれは何を作っているんですか?」


「活力剤だ。あの粉を溶かして飲めば三日は寝ずに働ける。濃度が高いと倦怠感に覆われて何も手につかなくなるがね。炙って吸う事も出来るが、それも同様に倦怠感を引き起こす。まあ、適切な濃度を守って飲めば強い味方になってくれるさ。……君もやるかい?」


 ハイドは咄嗟に首を横に振った。


 隊長は軽やかな笑い声を上げる。


「賢明な判断だね。君は次期隊長として冷静そのものでいるべきだ」


◆◆◆


 萎皮シナガワ区に来てからひと月が経過した頃、市区からの転属者が訪れた。ハイドは地下拠点の廊下で擦れ違っただけだったのだが、可愛らしい女の子だった。髪は深い青で、目は緑。背は小さく、雰囲気は柔らかい。何だか小動物のようだった。


 翌日、資源回収の任務で地上に行く事となった。ペアに分かれての行動だったのだが、運良く彼女と組む事になり、内心で神に感謝したものだ。


「僕はハイド。君は?」


「私はアリー」


「そう。良い名前だね。よろしく、アリー」


「よろしくね、ハイド」


 彼女は気さくに話しかけてくれた。笑ったときには綺麗な笑窪えくぼが出来る。それがどうにも愛おしかった。


 ハイドとアリーはその日、お互いの事を目いっぱい話した。地下コロニーの事。訓練校の事。萎皮シナガワの事。


 彼女が所属していた苦煮立クニタチには素晴らしい夜景があるらしい。夜を彩る光の粒が、まるで宝石のように輝く。その様を思い浮かべ、ハイドは苦煮立クニタチに行けたらどんなに嬉しいだろうと空想した。そして、隣に彼女がいれば言う事はない。次期隊長として萎皮シナガワへの永住が決まっているハイドにとって、それは切ない想像だった。


 その日の任務を完了すると、彼女だけ隊長の部屋に呼び出された。きっと初任務の感想を聞くためだろう。自分のときもそうだった。ハイドは名残惜しく思ったが、自室に戻った。


 きっとまた、顔を合わせて笑えると信じて疑わずに。


 しかし翌日以降、彼女の姿を見る事はなかった。同じ部隊であっても萎皮シナガワは個別の任務が多く、そして隊員も大所帯だ。一週間ぶりに顔を合わせる者もざらにいる。寂しく感じながらも、きっとチャンスはあるはずだと思い、ハイドは日々の任務に従事した。


 彼女が喪失ロストしたのを知ったのは、彼女の初任務から二週間が経過した日の事だった。痺れを切らせたハイドが隊長にそれとなく聞き、初めて知ったのである。


「アリーは君と一緒に資源回収に行った次の日、同様の任務で喪失ロストしたよ」


「何故ですか?」


「リンク・メイトを酷使し過ぎたのかもしれないね。新人は歯止めが利かないからな。……まあ、心配しなくていい。彼女はしっかり生きているよ」


 木の実を削り続ける人々が脳裏をよぎる。ハイドは我知らず拳を握っていた。あの中に彼女がいる事が耐えられなかったのだ。アリーにあの場所は似合わない。


 隊長はハイドの様子を眺め、眉を上げた。


「何か意見でも?」


 決して冷淡でも、威圧的でもない口調。ただ、普段の隊長の声よりは幾らか低かった。


 ハイドは返事をする事が出来なかった。何て答えて良いものか分からなかったのがひとつ。もうひとつ、アリーが喪失ロストしたにもかかわらず今日まで何も教えてくれなかった隊長に対する怒りがあった。言葉は喉の奥でせめぎ合い、声にはならなかった。


「来たまえ。彼女の様子を見せて上げよう」


 立ち上がった隊長の声は、明確な落胆が宿っていた。


◆◆◆◆


 活力剤の製造広間に彼女の姿はなかった。


「社会復帰出来ていないようだね」


 言って、隊長は回廊の先へ足を向けた。その先は緩やかな下り階段になっている。隊長は取り巻きの男達と降りていったのでハイドも慌てて後を追った。


「社会復帰って、何の事ですか?」


「見れば分かる」


 隊長の返事はシンプルで、余計な質問を拒絶するような雰囲気をたたえていた。


 この階段の先にアリーがいると思うと、ハイドは気が気ではなかった。喪失ロストしてなお、生きて会えるだけでも幸運なのかもしれない。


 二階層分降りたところで階段は終わっていた。剥き出しの岩肌に鉄扉てっぴがひとつ取り付けられているスペース。きっと扉の先に彼女はいる。


 隊長が扉をノックすると、暫くして錠の開く硬質な音がし、扉が内側に開かれた。屈強そのものといった筋骨隆々の男が出迎えたのだが、ハイドはおや、と首を傾げた。彼は武器を所持していたのである。

ハイドの疑問を察したのか、隊長は口を開いた。


「管理人のロバートだ。彼は喪失ロストしていない。喪失ロストした人間に施設の管理を任せるわけにはいかないからな」


 ロバートは腕組みをして屹立きつりつしている。なるほど。彼なら化物が現れようと容易に退治出来るだろう。


「アリーは個室かい?」と隊長が訊ねると、ロバートは短く頷いた。


 隊長はため息をついて「案内してくれ」と言った。


 ロバートが先導し、奥へと進む。突き当たりには先ほどと同様に鉄扉が取り付けてあった。


 錠を外して扉を開け放つと、饐えた臭いが鼻を刺激した。施設内に充満している臭いより、ずっと強烈である。


 扉の先は広間になっていた。そこも岩肌は剥き出しで、武器のない数人の男女が壁際に寄りかかって天井を見つめていた。


 ロバートは広間を真っ直ぐに進み、人間二人が並んで歩くのがやっとの細い横穴に入っていった。先頭をロバートが歩き、その後ろを隊長とハイド。更に後ろからは取り巻き達が続いた。


 徐々に、饐えた臭いが強くなる。それに混じってアンモニア臭も鼻に感じた。


「相変わらずくさいな」と隊長は不快感をあらわにする。確かに長居出来る空間ではない。ここにアリーがいるとしたら、酷い生活をいられているのではないか。胸騒ぎが止まらなかった。


 廊下に叫びがこだまして、ハイドはびくりと身を震わせた。言葉をなさない叫びである。アリーの声ではなかったが、嫌な感覚が背を這う。


「彼らは現実と向き合うのに、少しだけ時間がかかっているんだ。だから叫びもするし、暴れもする。うんざりしてしまうね、全く……」


 隊長はやはり、何でもない事のように言う。ハイドはこの空間に満ちている異様な雰囲気と隊長のギャップに苦しんでいた。地上だから、萎皮シナガワだから――そんなふうに自分を納得させにかかっても胃の底が冷えるような恐怖は消えない。


 廊下の左右には三メートル間隔でいかにも頑丈そうな鉄扉があり、上部は鉄格子になっていた。ふと中を覗くと、岩肌剥き出しの狭い空間に正座した男と目が合った。彼の眼球には意思や動きといった生物的な色は見られない。鉄格子の先を凝視しながら、それでいて何も頭に入らないような、おぞましい目だった。ハイドは即座に目をらし、俯きがちに歩を進めた。


 やがてロバートが足を止め、親指で扉を示した。しっかり錠がかかっていたのだが今度は開ける気はないようだった。


 隊長は鉄格子へとハイドをうながし、二人で中を覗き込む。


 呼吸を忘れた。意識が遠く離れようとしながらも、目の前の光景にがっしりと掴まれてしまっている。

やはり岩肌剥き出しの小部屋。キツい糞尿のにおいと、饐えた臭い。


 部屋の隅に小さくなって寝転がった少女がいた。服は襤褸ぼろ切れにしか見えず、肌は薄汚れ、髪はばさばさに乱れてつやなどまるでない。しかし彼女は確かにアリーだった。


 彼女はこちらを一瞥すると、ふらりと立ち上がった。その視線はハイドの隣に注がれている。


 その口が開かれた。唾液が糸を引いている。


「たいちょぉ」


 ぞわり、と嫌な感覚が全身を這った。甘く、びるような声音こわねほのかな恋を叩き潰すには充分過ぎた。


 隊長は冷ややかに答える。「何だ」


「お薬ちょうだいよぉ」


 アリーが一歩、鉄格子に寄った。


「駄目だ」


 刹那――彼女の目付きが鋭くなり、その手が鉄格子を掴んだ。


「何でよ!! こんなにお願いしてるのに!! ケチ! 卑劣漢! 死んじまえ!!」


 鉄格子が揺れる。がちがちがち、と不快な音が鳴った。


「我々は喪失ロストの不安を克服するために活力剤を与えたのだが、この始末さ。どっぷりハマっている。もう抜け出せないかもな」


 隊長の声を聴きながらも、彼女から目を離す事が出来なかった。獣の目、獣の唸り。口元は醜く歪み、ハイドの知る面影など欠片かけらもない。


「どうして泣いているんだ? ハイド」


 指摘されて初めて、ハイドは頬を流れる熱い液体に気が付いた。が、少しも拭う気になれない。


「分かりません」


 自分が何故涙を流しているか。明確な理由が見つからなかった。ただ、ひとつはっきりしている事があった。


「……間違ってます」


「何がだ?」


「人を……彼女をこんなにしてしまう物なんて、ないほうがいい……」


 半ば無意識にこぼれた本心だった。


 隊長の手が肩に触れるのが分かる。それでもなお、ハイドの目は変わり果てた彼女に吸い付けられていた。


「ハイド……残念だ」


 隊長の声には落胆と、どうしてか嘲笑が混じっていた。嫌な感覚が胸にき、咄嗟に隊長を見る。彼の顔にはそれまで見た事もない色が浮かんでいた。


 軽蔑。それに他ならない。


「君は不適格だ」


 隊長の手には、橙色の液体に満ちた小瓶が握られていた。

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