第八話 ニシタマ・リンク・フォース~歌う総隊長~

◇◇


 カイは荷詩魂ニシタマ郡の山中を彷徨さまよっていた。森は深く、帰るべき方向の見当すらつかない。時折、枝葉に積もった雪がどさりと落ちる音がした。


 どうしてこんな事になってしまったかを思い出し、カイは深いため息をついた。吐息の白が大気に溶けてゆく。



 荷詩魂ニシタマ郡の隊員は穏やかな人ばかりだった。地域が非常に広いので分隊に分かれて行動するのだが、どのメンバーも物腰柔らかでのんびりした性格に見えた。カイの所属する分隊のリーダーだけは険しい顔付きの男だったが、話してみると案外優しい人である。


 分隊毎にまとめ役の分隊長がいるのだが、ニシタマ郡に総合的な隊長はいないらしい。分隊長たちがいれば問題なく取りまとめられるとの理由だ。


 化物との戦闘を除けば、おっとりと資源採取をして過ごす日々だった。


 そんな日々を送る中、カイのリンク・メイトであるスコップは隊員から重宝された。掘れない土はなく、そこに埋めた作物は豊かに育つ。実に農夫向きだと自嘲気味にカイは思う。


 その日、カイの所属する分隊は山岳地帯の鉱石採取を主な任務として出発した。道のりは長く、数日かかるとの話である。その間の食料確保という名目でキノコ狩りをしていたのだが、夢中になっている内に隊から離れ、おまけに雪に足を取られて崖下に転落してしまったのである。


 急いで隊に合流しようとした矢先、雪が降り始めた。それはあっという間に吹雪になり、闇雲に進む内にいつしか帰る方向を見失ってしまった。


◇◇


 大人しく崖下で待っていたら合流出来ただろうか、とカイは苦々しく振り返った。しかし、後の祭りである。


 もはや隊が辿った道に戻れるとは思っていなかった。帰途きとの見当がつけばそれでいい。後は地道に地下への入り口を探して進むしかない、と。


 陽が落ちて辺りは段々と暗くなっていった。このまま暗い山を彷徨うのは危険過ぎる。もし化物に囲まれたら、と考えるだけで別の寒気がした。


 カイは戦闘能力が皆無なのである。リンク・メイトはもっぱら農業に使用していたし、荷詩魂ニシタマ郡の人々も、以前所属していた謳芽オウメ市の隊員も、戦闘についてはレクチャーしてくれなかった。そもそも謳芽オウメ荷詩魂ニシタマも化物と遭遇する事自体が非常に珍しい土地であるらしい。


 暗がりにふわふわと雪が舞い始めた。吹雪いてくれるなよ、と独りごちる。


 雪で滑らぬよう慎重に進むカイの耳に、妙な音が聴こえた。さくりさくり、と雪を踏むような音である。人にしては軽く、枝から落ちる雪にしては生物的だった。


 カイは木陰にしゃがみ込んで息を殺した。獣ならまだしも、もし化物だったら――。


 それを目にした瞬間、彼は悲鳴を必死で押し殺した。


 痩せ細った身体と、異様に白い肌。体長は二メートルほどだろうか。肌と同様に白い衣は妙に袖が長く、それに隠れて手は見えない。


 そいつは、さくり、さくり、と雪の上を裸足で歩いていた。目にはどす黒い布が巻き付けられている。全身のうち、白ではないのは眼帯と髪と、腰に巻いた紫の帯のみ。


 この冬山を薄着と裸足で彷徨う女。明らかに隊員ではない。


 鼓動が急激に早くなった。


 人型。化物よりも遥かに強力な力を持つ存在。その身は一様に五体を持つ。23区外で遭遇する事は皆無と聞いていた。なのに、すぐそばにそれがいる。


 殺される。それも、おぞましいやり方で。


 カイは震えと呼吸を押し殺した。心音を聴かれはしないだろうか、と本気で心配になるほど強く早く脈打っていた。


 眼帯について考えると血の気が引いた。視覚に頼らず物を認識しているのだ。でなければ険しい冬山を闊歩出来るはずがない。


 眩暈と吐き気に襲われる。知らず、涙が溢れた。それら全ては恐怖に起因する。


 カイの隠れた大木の付近に、ちらと生き物の影が見えた。身体を覆ういかにも硬そうな毛。四足よつあしにはそれぞれ鋭い爪を持ち、威嚇の唸りを上げる口元には凶悪な牙が覗いている。


 狼――ではない。その獣の目は蜘蛛のごとく顔の左右に四つずつ並んでいた。


 ヤツメオオカミ。出発前にその化物の名前は聞いていた。見たら逃げろ、と脅して先輩隊員はけらけらと笑ったのを覚えている。荷詩魂ニシタマ郡の山岳地帯で稀に現れる化物であるらしい。


 背後の闇には人型。前方には獲物を前にした化物。そして、自分は非力な人間だ。


 ヤツメオオカミが飛びかかってきても、カイは声を抑えて身動きひとつしなかった。人型に殺されるくらいなら、化物に食われる方がきっとマシだから。


 死を覚悟した瞬間、眼前でヤツメオオカミは真っ二つになって吹き飛んだ。何が起きたのか分からないままのカイは、巨木の横から伸びた白い衣と、袖口から覗いたぬらぬらと光る刀を見た。


 遠くなりそうな意識を懸命に繋ぎとめる。


 人型が化物を殺した。理由はひとつ。


 獲物を奪われまいとしたのだ。そう考えて、カイは全てを諦めた。


 もし現れたのが化物だけであれば対峙や逃走も選択肢に入っただろうが、人型が相手ならあらゆる抵抗は無意味。そう言われていた。


 木の影から人型が、ぬっ、と顔を出した。


 見ないように、と言い聞かせても瞳はガクガクとそちらへと動いてしまう。好奇心の引力、或いは、恐怖の引力。


 異常な白い肌。


 その口がゆっくりゆっくり開かれる。歯は一本もなく、口内までも白い。


 呑まれる。そう感じた刹那、呻きのような音が聴こえた。


「……あ……あ」


 それが人型の発する音である事にはすぐ気付いたが、言葉を成している事に気付くのには時間がかかった。


「あ……あ……あっ、ち……なかま……」


 人型の袖から伸びた刀は、闇の先を示していた。


 カイは思考する余裕など一切なく、人型の指した方角へ駆け出した。


 ひゅうひゅうという音が聴こえて振り返ると、そいつは空を仰いでその不気味な音を出していた。


 それからは無我夢中で駆けた。茂みに肌を裂かれようと、転んで身体を打ち付けようと意に介さずに。


 やがて灯りの漏れる洞窟を見つけ、暖かな光の下で車座くるまざになった隊員たちを目にしたとき、涙が自然に零れた。


 分隊長の指揮のもとでカイは手当てを受け、火に当たった。


 頭の中には人型のおぞましい姿がぐるぐると渦を巻いていた。


 やがて人型の口にした言葉を思い出す。カイは心配そうに自分を見つめる隊員たちをぐるりと見渡した。


「俺、人型を見たんです。細い、女の人型で、そいつが俺を襲おうとした化物を殺して、それで、そいつが指し示した方角に進んだらここに辿り着いたんです。それで、俺――」


 カイの言葉は隊員の笑いにかき消された。皆、錯覚だと言って笑う。カイはムキになって言葉を続けたが分隊長含め、結局誰ひとり信じてくれる気配はなかった。


 抗弁するのも虚しくなり、カイは命があるだけでも幸いと思う事にした。


 翌日、洞窟周辺でピッケルを振るい鉱石採取にいそしんでいる間も、頭には人型の姿がちらついていた。


 不意に空が鳴った。小さなメロディが遠くから流れる。空を仰いで音の場所を探ると、音色はどんどんこちらに近付いて来るようだった。


 やがてそれは姿を現した。


 分厚い雲の切れ間に、乳白色の巨体が見えた。クジラである。


「おお、クジラだ」「不朽の歌だ」と隊員たちは口にして、一様に手を止めて天を仰ぎ見た。荘厳で、神々しい。


 荷詩魂ニシタマ郡には空を泳ぐクジラがいる、とカイは聞いていた。以前の所属地域である謳芽オウメの隊長が空をくクジラと、それが歌う不朽の歌というメロディを教えてくれたのだ。荷詩魂ニシタマに転属が決まってから、いつか目と耳でそれを感じてやろうと思っていたのだ。


 思い描くのと実際に目にするのとでは雲泥の差がある。カイはひざまずいて祈りたいような、そんな衝動に駆られた。


 クジラは優雅なメロディを残して、空の深みへと消えていった。暫くは呆然とそれを見送った。


◇◇◇


 荷詩魂ニシタマの拠点に戻った後、分隊長に呼び出された。


 遭難した事に対するお説教に違いないと理解したカイは、足取り重く分隊長の私室に向かった。


 訪問したカイを分隊長は険しい顔付きで出迎えた。といっても、分隊長だけは普段から険しい表情をしていたので特別怒りがあるようには感じない。彼に促されるまま、カイはソファに腰掛けた。


「お前には特別に話しておく」と分隊長は切り出した。普段の彼に似合わず厳粛な口調に背筋を正した。


「お前が見た人型は実在する」


 やはり幻ではなかったのだ。その人型の姿を思い出して背が冷えるような感覚を覚えた。


「現実だったんですね」


「そうだ」


「けれど、あのときは皆笑って否定してましたよ。分隊長だってその場にいたはずです」


「隊員は殆ど人型の存在を知っている。お前には悪かったが、誤魔化す必要があったんだ」


 そして分隊長は人型に纏わる物語を哀切な口調で語り始めた。


◇◇◇◇


 荷詩魂ニシタマ郡にはレイナという女性隊員がいた。資源採取も戦闘も満遍まんべんなく出来る器用な隊員だったのだが、その優秀さ以上に彼女の性格が素晴らしかった。慈愛に満ち、あらゆる人を等しく尊重する態度は隊員の信頼を得ていた。


 やがて彼女は荷詩魂ニシタマ郡の総隊長に就任し、晴れて荷詩魂ニシタマに永住となったのである。その頃から分隊単位での行動ではあったが、皆がレイナを尊敬し、指示に背く事はなかったという。


 そんなある日、総隊長の部隊がヤツメオオカミの群に襲われた。彼女は隊員に帰投を命じ、独り残って群を食い止めたのだという。


 数日経過してもレイナが帰還する事はなかった。彼女との任務に参加した隊員は己の非力を嘆き、別働隊は彼らを慰めつつも総隊長の喪失に涙を零した。


 そんな彼らが捜索隊を結成したのは自然な成り行きであろう。ヤツメオオカミの群に遭遇した山岳地帯のポイントを中心として大規模な捜索が続けられた。しかし、彼女が見つかる事はなかった。


 いつまでも哀しみに暮れていたらリンク・フォースとしての責務をまっとう出来ない。渋々ながらそれぞれ分隊長の指揮の下に通常任務に勤しんでいた。


 ある日、山岳地帯の資源採取任務に就いていた分隊で遭難者が出た。冬の厳しい時期である。発見は絶望的と判断され、分隊は拠点に引き上げたのだが、翌日、遭難したはずの隊員がひょっこり戻って来た。

彼は夢うつつな調子で「レイナさんに会った」と言ったという。


 そのときは半信半疑なまま放って置かれたが、山岳地帯でレイナを目にする隊員は跡を絶たなかった。そして分隊長たちも彼女を目にしたのである。


 人型になり、それでも彼女は隊員を襲う事はなかった。


 遭難者には行くべき道を示したり、化物から助け出したり、それまで人型に抱いていた常識が崩れ去ったという。


 やがて荷詩魂ニシタマ郡の隊員はレイナを人型ではなく、特別な、畏敬いけいに値する存在としてひた隠しにしたのだという。それは外部に彼女の存在を知らせない意味合いが強かった。他地域、特に23区経験者には決して話す事はなかったという。万が一にもレイナが討伐される事は避けたかったのである。


 それほどまでに彼女は愛されていたのだ。


 そして総隊長は荷詩魂ニシタマに不要とリンク・フォースの本部に進言し、以来、荷詩魂ニシタマは分隊長がまとめている。


◇◇◇◇◇


「つまり、お前はレイナさんに助けられたって事だ」


 カイは言葉を返す事が出来なかった。人型をあがめるような感覚にはなれないが、助けられたのは事実である。


 自分は恐怖で何も見えていなかったのではないか、と沈痛な思いに駆られた。


「何でそんな大事な事を教えてくれるんですか?」


 うーん、と分隊長は唸って首をひねった。「信用出来ると思っただけだ。……けどな、お前がもし23区に転属されたらレイナさんの事は忘れろ。そうしないと早死にするぞ」


 レイナという人型だけが例外と言いたいのだろう。カイは口元を引き締めて頷いた。


 分隊長はリラックスさせるためか、不器用に笑った。「なに、そう固くならなくていい。お前は仲間だ。クジラの歌も聴いてるし、レイナさんだって見てる。荷詩魂ニシタマじゃ一人前だよ」


 鷹揚おうように笑うその声が遠ざかる。カイは人型の事を想い、その記憶に没入していた。


 人型は、何か、ひゅうひゅうと音を出していた。そこには節回しがあり、高低があり、緩急があった。雲間に見えたクジラの、優雅な歌がそれに重なる。


「そういえば、レイナさんは不朽の歌が好きだったんだよなあ」


 遠い目をして呟く分隊長の声を聞き、往時おうじの総隊長を想った。

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