第49話 恐怖のぬいぐるみ

 蛍光灯が照らす倉庫の中で、川角先輩は不審そうな目つきで僕を凝視する。


「私に話? 何のこと?」


 ポケットから明彦が見つけたライターを取り出して、彼女に見えるように指でつまむ。


「まず、これはあなたのものですよね?」


 僕は彼女の機嫌を損ねないように、注意深く言葉を選ぶ。


「何故、そう思うの?」

「これは、そこの段ボールが積まれているあたり。この吹奏楽部の倉庫の中に落ちていました。この数日間でたまたま足を踏み入れた僕ら以外で、鍵を借りていたのはあなただけです」


 彼女は一瞬僕のことを値踏みするような顔で睨む。


 この人は一体何をするつもりなのか、と。


 警戒を解いてもらえるように僕はなるべく柔らかなトーンで続ける。


「勘違いしないで欲しいんです。別に僕らはあなたがここで何をしていたとしてもそれを他の人に言うつもりはないし、脅迫しようとも思っていない。だけどちょっと訊きたいことがあるんです」

「訊きたいこと?」

「ここにあったぬいぐるみのことなんですけれど」


 その瞬間、状況が一変した。


 川角先輩は顔を真っ青にして、その場から逃げ出そうとしたのだ。


「あ、待ってください!」


 僕は思わず後を追う。明彦たちも何事かと一緒についてきた。


 廊下を駆ける彼女は追ってくる僕を見るなり怯えた表情で、更に速く走ろうとする。


 しかし進みながら振り向いたのが良くなかったのか、足をもつれさせて転んでしまったのだ。


 彼女にとってはアクシデントだが僕らにとっては幸いである。


「川角先輩、話を聞いてください」


 僕が倒れた彼女の手を掴むと「ひいっ!」と叫び声をあげるではないか。


 この状況、周りからしたら誤解を招かないだろうか。


「お、落ち着いて。僕らは何もしていないでしょう」


 僕は必死に彼女をなだめ、助けを求めるように明彦たちを見た。


 しかし、川角先輩は僕にかまわず更に大声を上げる。


「違う! あなたたちはわかっていない! あのぬいぐるみは祟られているの!」

「え? …………祟り?」

 

 その後、半狂乱でなかなか話が通じない状況だったが、僕らは懸命に声をかけてどうにかなだめようと試みる。


 あれこれ話しかけて、ようやく彼女が落ち着いて静かになったところで僕らは再び手芸部倉庫もとい吹奏楽部の倉庫の中に戻ってきた。


 しかし川角先輩はいまだに泣きそうな顔で僕らを見ながら、喉をしゃくり上げている。


「えっと、一体どういうことなのか、話してくれませんか」


 困惑した顔で自分を取り囲む僕らを見ながら、川角先輩はゆっくりと語り始めた。


 この数週間で彼女を襲った血も凍るような恐怖体験を。





 川角先輩には幼いころから優しくしてくれた仲のいい祖母がいたのだという。


 小さいころから面倒を見たり遊んでくれたりした祖母のことが彼女は大好きだったのだそうだ。


 ある時、祖母は彼女に手作りのぬいぐるみをプレゼントしてくれた。それはウェディングドレスを着たウサギのぬいぐるみで商品と比べても遜色のない素晴らしい出来だった。


 それは「若葉ちゃんが大きくなったらこんな素敵な花嫁さんになれるように」そんな願いを込めて作ってくれたものだった。


 川角先輩もそのぬいぐるみがとても気に入って、小学生の頃は眠るときに抱きしめながら床につくほどだった。


 しかし、そんな優しい祖母も数か月前に亡くなった。老衰だから仕方のないことではあるが川角先輩は深く悲しんだ。そのため、ぬいぐるみは彼女にとってますます大切なものになった。


 だがある時、川角先輩の母親が部屋にあるぬいぐるみを見て「いつまでそんなものを大事にしているの。早く捨てなさい」と激しく叱りつける。


 母親は祖母と「嫁と姑」の関係だったわけだが、そりが合わなかったらしく祖母のことを嫌っていたようだ。そして川角先輩自身がそのぬいぐるみを大事にしていることも内心面白くなかったらしい。


 川角先輩としては、母親が日頃から自分の生活に何かと干渉してくることを五月蠅く感じていたこともあり、その事に激しい怒りを覚えた。しかし正面から反抗することはできず、かといってそのままにもできなかったので、ぬいぐるみを学校の自分の所属している吹奏楽部の倉庫に置くことにした。


 しかし考えるにつけて母親への反抗心が募り、思いつめた彼女はなにか素行不良な行為をしてみたいと喫煙をすることにしたのである。煙草とライターについては父親のものをくすねて手に入れたそうだ。


 とはいえ、人目につくのはまずいと思ったので彼女はぬいぐるみを利用することを思いつく。ぬいぐるみを倉庫にあったサイドテーブルの上に置いて一緒に花も飾ってみた。


 何か不幸な出来事があったとでもいうかのように。


 元々、人が寄り付きにくい倉庫であったので、それからますます吹奏楽部の部員も入らなくなったという。


 しかし彼女はいざこの部屋に来て煙草を吸ってみようと口に咥えたところで、どうしてもぬいぐるみの目が気になってしまった。


 あのぬいぐるみは祖母の形見のようなものだ。こうしてぬいぐるみの前にいるとまるで祖母に見られているような気持ちになる。


 いや、でもたかがぬいぐるみじゃないか。だけど。しかし……。


 奇妙な葛藤にとらわれた彼女は結局、煙草に火をつけられず立ち尽くしてしまった。


 川角先輩は最終的にぬいぐるみの向きを変えて壁の方を向かせることで、その時の気持ちに踏ん切りをつけた。そして次にこの部屋に来るときこそ、煙草を吸ってやろう。そう決心したのだ。


 しかし、実際に次に部屋に来たとき彼女は戦慄する。


 ぬいぐるみの向きが変わってこっちを向いているではないか。


 これはどういう事なのか。


 鍵の貸出表を見る限り吹奏楽部の倉庫の鍵を借りたのは自分だけのはずだ。この部屋に出入りしたのは自分だけのはずだ。


 なぜ、ぬいぐるみがこっちを向いているのだ。


 まさか、ぬいぐるみに憑りついた祖母が不良行為に走ろうとしている自分を咎めているとでもいうのか。そんな馬鹿な。


 そう思った彼女だったが、その時は何となく煙草を吸う気になれず思いとどまった。しかし「次こそは」という決心を込めてぬいぐるみを再び壁側に向けた。


 ところが、またも部屋に入ると向きが変わっていたのだ。


 この部屋には誰も入っていないはずなのに。ぬいぐるみが動き回っているとでもいうのか?


 いや、そんなことがあるわけない。


 そう思う彼女をぬいぐるみは静かな瞳でじっと見つめかえす。


 こうなると愛らしく思えたはずのぬいぐるみが不気味な怪物に見えてくる。


 恐ろしくなった彼女は、ぬいぐるみを捨てようと考えた。しかし自分の手で捨てるのはどうにも気が引けたので、廃棄用の備品を入れることになっている段ボールの中に入れたのである。


 ここに入れておけば部員の誰かがいずれ捨ててくれるはずだ。





「でも……次の日やってきたら、段ボールの中のぬいぐるみが勝手に動いてサイドテーブルの上に戻っていたの。何度捨てようとしても勝手に戻っていて。信じられないでしょうけど本当なの」


『触っていないぬいぐるみが動いていた』


『廃棄用の箱の中に入れたのにサイドテーブルに戻っていた』


 それは、つまり。


 話を聞いていた明彦と僕は気まずい空気を漂わせつつ顔を見合わせる。


「まあ、間違いなく現実に起こった事なんだろうな。だってやらかした本人が俺の隣にいるもん」


 明彦が高坂さんを横目で見ながらぼやいた。僕は僕で呆然と呟く。


「あの人参の絵が描いてある段ボール、ゴミ箱の代わりだったんだ……」

「ちょっと聞いてる? それだけじゃないの。ある時なんて私に宛てた手紙が置いてあったの。『若葉さんへ』って」


 それは川角先輩の名前ではなく「手芸部の男子生徒」の名字なのだが。


「しかも中を読んだら『あなたをいつも見ています』『私のそばに来て欲しい』『ずっと一緒に居たい』って。おばあちゃん、私が不良になったから怒っているんだ。私をあの世に連れていくつもりなんだよ……。このままじゃ私、とり殺されると思って」


 彼女が怖がっているのは高坂さんが好きな男子に宛てたラブレターの文句なのだが、それをどう説明したものか。



「それからも、何度も手紙が置かれるようになって。私、怖くって。もう中身も見ないでクラス委員に押し付けたの。変な手紙が来ている。嫌がらせを受けているから何とかしてって」

「それで、どうなったんですか?」

「し、しばらくは、手紙が来なくなったの。」


 ああ、高坂さんの話ではおまじないを信じない人が出てきて、しばらくする人がいなくなったと言っていたような気がする。


「でもついこの間、また手紙が置いてあって。怖かったけど、ぬいぐるみを捨てることも出来なくて。私とうとう、ぬいぐるみを部室のロッカーにしまって鍵をかけたんだ。そうしたらもう何も起きないと思って」

「ふーん」


 僕はひととおり話を聞いて力が抜けたような声を漏らしてしまった。


 川角先輩からすれば祖母が遺したぬいぐるみが事あるごとに動き回り、捨てようとしてゴミ箱に入れたら勝手に元の場所に戻っているという怪奇現象のごとき状況だ。


 加えて高坂さんが書いた手紙の受取人である「若葉晴臣くん」の名字が川角先輩の下の名前と同じ「若葉」だったことが「祖母が自分あてに手紙を書いた」というように思えて恐怖に拍車をかけたのだろう。


 多分、落ち着いて読めば手紙の内容は違う相手に宛てた恋文だと判ったはずなのだが、混乱して目に入った断片的な内容だけ読んで冷静に判断できなかったのかもしれない。そして次から来た手紙は全て中身を読まずに部活で起こった人間トラブルとしてクラス委員に相談しつつ押し付けた。


 僕は最初、川角先輩は高坂さんや僕らがこの部屋に出入りするようになったのでぬいぐるみを持って行ったと思ったが、どうやら彼女の方もそもそもこの部屋が手芸部との共同使用であることを知らなかったようだ。つまり高坂さんや僕らのこと自体を意識していなかったのだ。


 僕がライターを持っているのも、他の吹奏楽部員の知り合いか何かでたまたま倉庫に入ったとでも思っていたんじゃないだろうか。


 ふと、高坂さんを見るとポカンと口を開けて呆然としている。どうすればいいのかわからない様子である。


 僕はため息をついてから、川角先輩に向き直った。


「あのう、あなたも知らなかったかもしれませんが。実はこの部屋は吹奏楽部だけの部屋じゃないんです。元々間仕切りで二つに区切って使われていたのが一つになっていて。向こう側は手芸部の倉庫なんです」


 それから、僕らはここで起こった出来事についてゆっくりと彼女に説明した。


 高坂さんがこの部屋のぬいぐるみを見つけて、事あるごとにここに来ていたことを。


 ぬいぐるみに好きな相手への手紙を託して、無くなっていたら気持ちが伝わるという紛らわしいおまじないを考案したことを。


 その後「おうちの中」に帰っていたぬいぐるみを毎回外に出してあげていたことを。


 そして僕らがこの間から無くなったぬいぐるみを探すために苦労していたことを。


 話を聞き終わるころには、川角先輩も高坂さんと同じような唖然とした顔になっていた。





 その後、高坂さんは川角先輩を怖がらせたことを申し訳なく思ったらしく「すみませんでした」と謝った。


 一方、川角先輩の方は高坂さんが自分の祖母のぬいぐるみに深い愛着を寄せていたと知って驚きながらもぬいぐるみを部室のロッカーから取ってきてくれたのだ。


 そして彼女は高坂さんにこう申し出た。


「もし良かったら、あなたに譲ろうか? 親の目が厳しいから私も家に置いておけないし」


 その言葉に高坂さんの方は少し考え込んでからこう答える。


「このぬいぐるみは本当によくできています。きっと作ったお祖母様が川角先輩のことを大切に思っていた気持ちがこもっているんだと思いますよ。本当の持ち主にふさわしいのは川角先輩だと思います。だから一時的に私が預からせてもらいます。いつかお母さまから離れて暮らせるときが来たら取りに来てください」

「うん、わかった。……またね。エカテリーナ」


 シルキーちゃんの本名はそんな仰々しい名前だったのか。


 横でやり取りを聞いていた僕は苦笑いした。


 かくしてぬいぐるみは二人の少女の間にも友情という縁を結んだようだ。






 その後、僕らは高坂さんたちと作業教室棟を出たところで別れて本校舎に足を向けた。


 グラウンドの端を僕は明彦とゆっくり歩いていたのだが、ふと前を歩く彼がおもむろに口を開く。


「そういえば、結局あのぬいぐるみに託された手紙はどうなったんだろうな? 川角先輩は『クラス委員に押し付けた』と言っていたが」

「あ、その話の詳細を聞くのを忘れていたね。高坂さんの手紙が若葉くんのところに届いたってことは誰かが宛名を手がかりに渡したことになるよな」


 僕らが頭を悩ませながら歩いていると、ポニーテールに眼鏡の凛とした雰囲気の少女が本校舎の方から姿を現した。クラス委員の虹村である。


 そういえば先日彼女は僕らに頼みごとがあるようなことを言っていたはずだ。


「やあ、虹村。……この間は頼みごとを断ってごめん」

「おお、そうだった。確か、何か生徒の相談を受けているんだったよな」


 僕と明彦が声をかけると虹村は「あら」と嬉しそうに反応する。


「月ノ下くんたち。今日は余裕あるの? それじゃあちょっと聞いてくれる?」

「うん。今は探し物が一段落したから手伝えるよ。それで、いったい何があったんだ?」


 虹村は「それが変な話なんだけど」と悩まし気に顔に手を当てながら話を切り出した。


「何か、三年生のクラス委員が変わった相談を受けていて」

「変わった相談?」

「うん。なんでも『知らない人間から気づかないうちに手紙が来ていたから、気持ち悪くて何とかしてほしい』みたいなことを言われたんだって。どんな状況で受け取ったのか詳しく聞こうとしても本人が半狂乱気味であまり要領を得なかったみたいで」


 何だろう、どこかで聞いたような話だ。


「差出人が書いてなかったから、とりあえず中身を見てみたら。どうも若葉っていう人にあてたラブレターみたいだったの」

「そ、それで?」

「学年の名簿を先生にお願いして確認させてもらったら一年A組にそんな男子がいたから、とりあえずそこのクラス委員にお願いして本人に渡すように頼んだの。ただ、そもそも間違って別の人に来ていたラブレターだし、渡したことも含めてその人のことも手紙の存在も周りに知られないように厳命したけどね」

「……そうか」

「ただね、他にもたくさん同じようなものが届いたみたいで。とりあえずそれも宛名がわかる範囲で配ったけれど、忙しいからまだ全部は配り切れていない状態なんだ。でも、何で校内のラブレターが誰か一人のところに間違って届くような状況になっているのかさっぱりわからなくて」


 明彦と僕は顔を見合わせてため息をついた。


「安心しろよ、虹村。その問題なら解決した。……多分もうその人のところにラブレターが届くことはないからよ」

「ああ。そして、わからなくて悩んでいたことが一つ解決したよ。ありがとう」


 虹村はそんな僕らを見て、きょとんとした顔になる。


「え? 私、問題ごとを相談したのに何でお礼を言われているの?」

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