第40話 かくして伝統は続く

 蛍光灯が使い古されたタイルカーペットを照らす。


 外は夕暮れ時で濃い青紫色に染まり、一日の終わりが近づいていることを感じさせる。


 僕は参考書を閉じて、ため息交じりに呟く。


「それにしても、あんな『創られた伝統』が良く二十年近くも続いたもんだ」

「そうね」と手に持った文庫本をめくりながら、ソファーに腰かける星原が応えた。


 プレハブ小屋の張り込みをした翌日の放課後である。


 僕は星原と勉強会をするために、図書室の隣の空き部屋にいた。参考書の内容がちょうど一段落したので小休止したところで、ふと昨日の話題になったところだ。


「今回の件で思ったんだけど、さ」

「ん?」

「星原は前に伝統というのは時間を超えた同調圧力だといったけれど、それだけじゃない気がするんだ」

「というと?」

「同調圧力というと『本心に関わらず従わせられる』というニュアンスだけど、本当は伝統というのは『たくさんの人の奥底に眠っている集合的な欲求』が形になったものなんじゃないかな。皆がこうしたいと思っているから続くものなんじゃないか?」

「……ああ。つまり、本当はみんな、集まって騒いだり遊んだりしたいという欲求がある。でも、そのきっかけがないから誰かがそのための『言い訳』や『建前』をくれるのを待っているというわけ?」

「うん」


 星原は僕が言わんとしていることをすぐに察してみせた。


 そう。例えば太古の昔、誰かが豊穣の感謝を込めて神様に踊りと料理を捧げようと言い出したとする。


 それを聞いた他の誰かもそれに同意して、盛り上げるために人を集めご馳走を準備する。それは男女の出会いや歌や芸を披露し、また物を売るための場にもなっていく。


 最初に始めた誰かの意図はどうか知らないが、それは人々の欲求を発散するための場として機能し、続いていくのだ。


 クリスマスもそうなのかもしれない。寒い冬のさなかに何もすることがないのは少し寂しいものだ。気持ちを高揚させて、みんなで集まって騒ぎ遊ぶための「きっかけ」を誰もが求めていたからこそ定着したのではないか。


 あのバスケット部のランニングコースもそうだ。表の理由は足腰の強化だが、裏の理由はダンス部の練習風景を見たいというバスケ部男子一同の切なる願いである。


 伝統には「自然発生したもの」もあれば「創られたもの」もあるのかもしれないが、それが定着するかしないかを分ける何かがあるとすれば、「群衆の集合的な欲求」と合致するか否かなのではないか。


 だからこそ、「一部の誰かが利益を得るための伝統」は今回の件のようにいつか終わりが来るのだろう。勿論、今回のケースも化学部の面々にとっては自分たちの欲求を発散するための大事な場であったのかもしれないけれど。


「それにしても、これってどんな味なのかしらね?」


 そういって星原はゴトンとテーブルの上に何かを置いた。


 それは琥珀色の液体が詰まった瓶だった。


「あっ! ……星原。それ、いったいどうして」

「いや、ほら。虹村さんがあのとき外に向かって放り投げたでしょう。他のものは全部地面に叩きつけられて割れていたけど、一本だけ柔らかい花壇に落ちて無事だったの」

「それをくすねてきたってわけか」

「まあ、そういうわけ」


 悪戯っぽく笑って、彼女は紙コップを取り出した。どうやらここで味見するつもりらしい。普段は基本的に彼女と同調する僕だが、流石にこれは見過ごせない。


 僕は無言で彼女から瓶を取り上げた。


「ちょっと何をするの」

「何を、じゃあない。未成年が飲酒したら体を壊すぞ。間違った酒の飲み方を覚えたら精神面に悪影響が出るかもしれないだろう?」


 あえてどこの誰とは言わないが、未成年のうちから飲酒をした為にだらしない大人になる事例もあるではないか。「酒は百薬之長」と言っている人間にかぎって「毒になるまで飲む」のが常だとも聞くし。 


「いやでも。……ほら。私、小説家を目指しているでしょう」

「……? そうだな」

「いつか、登場人物がお酒を口にして酔いしれるシーンを描かないといけないかもしれない。そんな時にやっぱり飲んだことがないとリアリティのある描写はできないと思うの。やっぱり作家たるもの新しい経験、外的な刺激は大事だわ」


 なるほど。それなら……。


「……いやいや。そんな言い訳が通るわけがないだろう。じゃあ何か? 世のミステリ作家は全員殺人を犯した経験があるとでもいうのか? 戦争小説を書く人間はみんな退役軍人か何かか? そういう時こそイマジネーションを駆使しろよ」


 この間は「外部からの影響で文化としての独自性や創造性がなくなる」みたいなことを言っていたくせにとんでもない建前を持ってきたものだ。


「えーっ」


 星原はつまらないと言いたげにむくれたような顔になった。


 余程楽しみにしていたらしい。少し悪いことをしてしまったかな。


 僕は酒が入った瓶を自分のカバンにしまうと、小さくため息をつく。


「じゃあ代わりに僕らが大人になったらその時、僕が星原に一杯おごる。それでどうだ?」


 彼女は僕の言葉に「えっ」と驚いた後「うん。いいけれど」と少し顔を赤らめて恥ずかしがるような表情になる。


 何だろう。少し予想外のリアクションだ。


「……何か僕、変なこと言ったか?」


 一瞬困惑する僕に彼女はそっとすり寄って、耳元で囁く。


「だって。それってつまり、大人になっても私と居てくれるってことでしょう」


 僕は思わず何も言えずに固まる。


 確かにそういう風にも解釈できるかもしれない。


「……少し、嬉しかったわ」


 そう呟くと星原は僕に身を預けた。黒いつややかな髪から彼女の匂いが香ってくる。


 制服越しに彼女の柔らかな肢体と体温が伝わってきた。


「……星原」


 僕が彼女の名を呼ぶと、彼女もまたそれに応えるようにそっと僕を抱きしめた。


 すぐ目の前にある彼女の愛らしい瞳が僕の心をとらえ、僕たちの影はソファーの上で重なり合いつつある。


「ふふ」


 甘い微笑を浮かべる彼女の左手が僕の背中に回され、優しく愛撫しているのがわかった。


 ……左手?


 ふと気になって背後を窺うと彼女の右手は、さっき取り上げられた酒瓶を取り返そうと僕のカバンに向かって伸ばされているではないか。


 僕は眉をしかめて無言で彼女の右手を軽くはたいた。


「ちぇ」と少女はペロッと舌を出して、僕から離れる。


 全く油断も隙もあったものではない、と僕はため息をついた。 


 どうやら僕と彼女の間では、僕が彼女に振り回されるのが伝統としてこの先も続いていきそうだった。

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