第38話 化学部の秘密

 鬱蒼とした夜の山林の上に白い三日月が昇っていた。


 その下には街灯と月光に照らされた実習棟の校舎とプレハブ小屋が佇んでいる。


 僕は野球部のグラウンド横の花壇の陰に座りこんで、静かにその時を待っていた。


「本当に今日、彼らは行動するのかしら」


 僕の隣で星原が小さく呟いた。


「雑草研究部の活動日は月・水・金なんだそうだ。対して化学部の活動は週の後半。水曜と木曜、金曜らしい。彼らにしたら雑草研究部がプレハブ小屋にいないタイミングが好ましいからな」

「それで、木曜の夜。今夜が怪しいということなんだね」


 星原の更に隣で、虹村が頷いた。


「無駄足にならないと良いですけどね」と鶴川さんがぼやく。彼女は疲れた表情で花壇の横でグラウンドを囲う金網に寄りかかっていた。


 しかし、その直後。


 鈍い電子音が薄暗がりにかすかに響いた。


「……生田さんから連絡があったわ」


 一瞬遅れて虹村が携帯電話を取り出して画面を確認する。


「えっ」

「何て?」

「えっと。『化学部らしい人たちが実習棟の窓から神社の方に行きました。その後何かを持ってプレハブ小屋に向かっています』だって」


 僕らは交代でプレハブ小屋と神社を張り込んでいた。神社の方は木々に囲まれているため離れすぎると、見張りにくい。しかし近くで見張っていると大人数では目立つので誰か一人が順番に神社に近づく人間がいたら知らせることにしていたのだ。


 そしてちょうど生田さんが神社を見張っている時に、化学部が行動を起こしたという訳だ。


 虹村の報告に鶴川さんが反応する。


「……それじゃあ私、ちょっと亀戸先生のところに行って声をかけてきます」


 もし化学部が何かしらの犯罪行為に及んでいた場合、僕らだけでは手に余る。そこで一応、化学部顧問の亀戸先生にも事情を話して待機してもらっていた。ものぐさな雰囲気が漂っている人ではあるが、流石に自分の顧問をしている部活が何かしているかもしれないとなると監督責任的なものは感じるのか、化学部の動向を探ることに協力はしてくれることになったのだ。


 鶴川さんが先生を呼ぶために本校舎の方へ姿を消してから、その数秒後。


 数人の足音が響いてきた。


 音のした方に目を向けると、プレハブ小屋に何人かの黒い影が近づいてくるのが判る。彼らは梯子をプレハブ小屋の屋根にかけて一人ずつ登り始めた。


 僕らはその様子を、固唾を飲んで見守る。


 しかし彼らは屋根に上がるとそのまま梯子を上に引き上げてしまった。


「うーん。そう来たか」

「そりゃ、梯子を小屋の屋根にかけっぱなしにしていたら誰かが通りかかったときに不審に思われるでしょうしね」


 星原がため息交じりに呟いた。


 そこへ見張りをしていた生田さんがやってくる。


「どうですか? 様子は」

「今、プレハブ小屋のさらに上に登って行ったんだが。梯子を引き上げられてしまってね。……済まないが雑草研究部の机と椅子を借りることはできないかな」

「それは、構いませんが」


 僕らはプレハブ小屋の中から机を一脚運び出す。そしてその上に椅子を重ねて置いた。言葉で言うと簡単だが、大きめの机を数人がかりで狭い扉から運び出し、かつ上にいる彼らに気づかれないように静かに小屋の横に設置しなくてはいけないのでそれなりに慎重な作業である。結局、五分ほどかかってしまっただろうか。


 屋根の上に昇る準備を終えたところで、今度は鶴川さんが亀戸先生を連れて戻ってくる。


「……様子はどうですか?」と彼女は若干緊張した面持ちで訊いてきた。


「今、多分実習棟の上にいるみたいだ。……声はなるべく上げない方が良い」

「……やれやれ。本当に何かしでかしているのか」


 亀戸先生が厄介なことになったと言いたげにため息をつく。


「それじゃあ、一人ずつ気づかれないようにそっと登りましょう」


 虹村が声を潜ませつつ号令をかける。僕らは机から椅子、そして屋根へと登り始めた。


 プレハブ小屋の屋根にあがると下からは見えなかったが、梯子がさらに実習棟の屋根にかかっているのがわかった。


 そして姿は見えないが嬌声らしいものが聞こえてくる。どうやら彼らはこの上にいるらしい。僕が無言でみんなに目配せをすると、星原たちもまた無言で頷き返した。


 僕は目の前の梯子に足をかけゆっくりと静かに登って行った。


「アハハハ」

「いや、いい出来だわ。コレ」

「サイコー! いや月を見ながらこういうことするのも風流っすねえ」


 テンションの高い楽し気な嬌声が響き渡る。


 僕は意を決して実習棟の屋根の上に顔を覗かせて、周囲を睥睨した。


 しかし、僕の目に飛び込んできたのは予想していたのとは少し違うのどかな風景だった。


 そこにいたのは確かに化学部の面々だった。柿生部長と久我山をはじめとする部員たち、男女五人ほど。


 彼らは屋根の上にレジャーシートを敷いて座り込み、お菓子の袋を開けて頬張っていた。


 そして彼らが囲んでいたのは十本ほどの瓶だ。一つ一つに色とりどりの液体が詰められている。赤色のものもあれば、薄い緑色のものもあり、紫色や琥珀色のものもある。


 そしてかれらは手にビーカーを持って、瓶の中の液体を注いてがぶがぶと飲み干していた。


 これは……いわゆる、宴会というやつではないだろうか。


 僕が呆然屋根の上に立ちつくしていると、隣から「一体何をしているんです?」と咎めるような声が上がった。虹村だった。


 その声にぎくりとした表情で化学部員たちは振り返る。


 柿生部長が「あ、あれえ? ど、どうしてこんなところに」と呂律が回らない調子で返事をする。


「あなた方が、小屋の上に登っていくところが見えたので何をしているのか確かめに来たんです。……それ、お酒なんじゃないですか?」

「ちょ、ちょ。待てよ」


 立ちあがって、片手を上げつつ弁解の声を上げたのは久我山だった。


「これは違うって。俺たちはちょっとした生物の実験をしていただけだし」

「実験?」

「そうなんだよ。果汁を入れた瓶を放置したら、どういう変化が起こるか観察しようと思っただけなんだ。ただ、その過程で『偶然』手が滑ってイースト菌が混入して『結果として』発酵現象が起きてしまっただけであって。一応実験を行った人間としてはどういう変化が起こったのか、体を張ってでも確かめないといけないだろ? いうなればこれは仕方のない事故なんだ」


 どこかで聞いたような理屈だ。


「手が滑った、ねえ」


 背後から呆れたように呟いたのは星原だった。虹村に続いて実習棟の屋根に上がってきていたのだ。彼女は瓶を指さし数えてから肩をすくめる。


「十本くらいはあるみたいだけど。……なるほど、手が滑りまくってしまったのねえ」


 言外に「いくら何でも無理があるでしょ」という皮肉がこもった声だ。


 僕らの間に困惑と呆れが混じったような雰囲気が漂い始めたところで、生田さんや鶴川さん、亀戸先生も登ってきた。


「これは、どういう事?」

「何です? 麻薬ではなかったみたいですが」


 それぞれが状況についていけずに、きょとんとした顔になる。


「おいおい。……お前ら、こんなところで何をしているんだ?」

「うえっ。亀戸先生」


 流石に自分の部の顧問にまで出てこられてはまずいと思ったのか、柿生部長も動揺していた。


「見てのとおりです。どうやら雑草研究部の梅やヨモギを使って酒を密造していたみたいです」と僕が説明する。 


「ち、違うって。誤解だよ。あたしら、酒なんて飲んでいないよ」

「え? そうなんですか?」


 柿生部長の言に虹村が戸惑ったような顔になる。


「うん。法律では『アルコールが一パーセント以上』のものが酒とされているんだ。つまり一パーセント未満は酒じゃない。だから酒税法にも違反していないよ?」


 そうか。それなら……。


「いや、良くないですよ! そもそも酒の密造うんぬん以前に未成年が飲酒することが問題じゃないですか」


 僕が呆れて突っ込みを入れかけたところで「いや、待って」と星原がストップをかける。


「確かにアルコール度数が一未満なら清涼飲料水扱いになるから、法律の上では未成年でも飲むこと自体は問題ない、と聞いたことがあるわ」

「えっ? そうなのか?」

「ええ。ノンアルコール飲料というやつね。ただ、メーカーとしては二十歳以上の人に向けて開発した商品と位置づけていて、未成年が飲むことは勧めていないということになっているみたいだけれど」

「ほらほら! 問題ないでしょう?」


 とりなすように柿生部長は愛想笑いを浮かべる。


 一方で、虹村は困ったように眉をしかめていた。


「ええ? でも、学校内にお菓子とかを持ち込むのも本来はまずいし」

「だけど、部活動に必要なものを買って持ってくるのは問題ないでしょ? 料理部だって食材を学校に持ってきているって聞いたよ」

「そもそも本当にアルコールは一パーセント未満なんですか?」


 虹村が不審な目で柿生部長を見つめ返す。


 その疑問はもっともだ。素人が一パーセント未満になるように調整できるものなのだろうか。


「そんなに心配なら飲んでみればいいじゃない」

「えっ」

「ほら。そこの君も」

「えっ。僕も?」


 柿生部長が僕と虹村に手に持っていた液体を勧めてくる。


 僕らは思わず顔を見合わせる。


 これは意外なジレンマである。


 柿生部長が差しだしてきた飲み物が本当に酒精分一パーセント未満なら問題ないが、もし五パーセントくらいでもあれば「僕と虹村も飲酒をした」ことになってしまうではないか。


 しかし、飲んでみなければはっきりと確かめられない。


 いや、そもそも僕もおそらく虹村も飲酒経験なんてないのだから、飲んでみたところでお酒じゃないかどうかなんてはっきりわからないのだ。


 ふと思い出したのは、昔の刑事ドラマでよくあった場面だ。


 主人公が押し入った現場で白い粉を発見し、ペロリと舐めて「これは……麻薬!」と断言するお決まりのシーン。しかし彼らは麻薬を常用しているわけでもないのに、どうして味で見分けがついたのだろう。


 それともあれはフィクションならではの演出か?


 いずれにせよ、違法性があるかどうかを自分自身で確かめるとなると、我が身も違反を犯すことになるリスクは避けられないではないか。


 どうしたものかと助けを求めるように、僕は後ろにいた生田さんたちを振り返った。


 すると、僕に応えるように一人の人物が一歩進み出た。


「そういう事なら、俺が確かめる」


 亀戸先生だった。


「俺なら成人しているんだから問題ないだろう」


 普段とは少し違う、堂々とした雰囲気だ。部活の顧問として責任を感じているのだろうか。


「どれ。一口」


 先生はそう言ってビーカーの中の液体を飲み干した。


「どうなんですか?」


 虹村が上目遣いで先生に尋ねた。


「うーん。これだけではわからんな。どれ、そっちのも。ああ。そこにあるのも」


 そう言いながら、先生は瓶に入っている液体をちびりちびりと口にした。


「……結局、どうなんです? アルコール度数はお酒と言えるほどのものなんですか?」


 亀戸先生は「うーん」と腕組みをして考え込んでから口を開く。


「やはり少しだけ飲んでもよく分からんな。よし。これは全部俺が家に持ちかえって、じっくり身をもって確かめてから処分する」


「えっ!」と久我山が声を漏らした。


「そりゃ、ねーっすよ。先生! それ、結局没収じゃあないですか!」

「そうですよお。ひどいです、先生」


 柿生部長も不満の声を上げる。


「ほお。本来なら飲酒すれすれの行為ということで停学にもできるんだがな。せっかく俺が没収という形で丸く収めようとしているのがわからないか?」


 停学という単語を耳にして、化学部員たちは流石にしゅんとなる。


「これに懲りたら、今後はもうこんなことはするんじゃないぞ? それからプレハブ小屋についても、雑草研究部の意向を汲んで、移設して取り壊すかどうかは学校側の判断とする。お前らは野外活動の時だけ雑草研究部から道具を借りること。それでいいな?」

「……はい」


 ここで亀戸先生は僕らを振り返ってにやりと笑う。


「こんなところでどうだ。一応、小屋の件も含め一件落着だろ?」

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