第20話 プルースト効果と「忘れ物」
「中神!」
校門の方へ向かって歩いている一人の少女を、髪を刈りこんだ少年が走って追いかける。
名前を呼ばれて彼女はびっくりして振り返った。
「こ、小宮くん。……どうしたの」
「あの、あのさ。バレンタインのプレゼントをくれたのは中神なんだろ?」
校舎の二階の窓から僕らは二人のやり取りを見守っていた。
小宮くんの言葉に中神さんは一瞬顔をこわばらせる。
「……誰かにそう聞いたの?」
「違うよ。違う。そうじゃなくて食べたらわかったんだ。これは中神が作った味だって。僕が前に好きだといった味を覚えてくれていたんだって」
そう、僕らが散々苦労しても中神さんのことに思い至らなかった小宮くんは、チョコレートクッキーを食べた時に「これは前に食べたことがある」と気がつき中神さんに頼まれて試食した味だと思いだしたのだった。
「だから、そのう。これからも中神が作った料理を食べられたらいいな、なんて。今まで気がつかなくて済まなかった」
「……い、いいよ。じゃあ、これからも試食につきあってね」
彼女は顔をほころばせながら彼に手を差し伸べた。
僕の隣で星原がそんな二人の様子を見ながら「プルースト効果ね」と小さく呟いた。
「ああ。この間言っていた匂いや味で関連する記憶がよみがえることがあるっていう話か」
「ええ。元はプルーストという作家の『失われた時を求めて』という作品でマドレーヌを食べて過去の思い出がよみがえる場面があるところからそう呼ばれているんだけど。匂いと記憶というのは結びつきが深いらしくて実際そういう学術論文も発表されているそうよ」
二人は手をつないで校門の方へ去っていく。
そんな後ろ姿を見ながら「あーあ。羨ましい」とため息をつきながら明彦がぼやく。
「あれ? 雲仙先輩はもしかして誰からもチョコレートをもらえなかったんですか?」
昭島さんが笑いながら尋ねた。
「うるせえな。ほっといてくれ」
「あはは。それじゃあチョコレートじゃないけどライブのチケットなんてどうです?」
「ライブのチケット?」
「はい。友達と今度の日曜に一緒に行くつもりだったんですが、急に友達の方に予定が入ったみたいで一緒に行く人がいなくて困っていたんです」
その言葉に明彦は一瞬黙り込んでから「まあ。俺も予定があるんだけどそういう事なら付き合うかな。人助けだと思って」と気取った仕草で昭島さんに向き直った。
面倒そうな顔を作りながらも口元はにやけているあたり、内心は嬉しいに違いない。やれやれ。これで女子からバレンタインに本命の贈り物をもらえなかったのは僕だけということになるのだろうか。
昭島さんも明彦ににっこりと笑い返す。
「はい。ありがとうございます」
「真守。……それじゃあ俺、先帰るから」
明彦が僕に声をかけて背を向ける。
「……わかった。それじゃあ、また」
明彦も昭島さんと去っていき、やがて本校舎の階段の奥にその後ろ姿は消えた。
後に残ったのは僕と星原だけだ。
「とりあえずカバンを取りに行こうか」
「そうね」
僕らは踵を返して、二年B組の教室に戻った。僕は自分のカバンを手に取ろうとしたところで、ふと疑問に思う。
「なあ、星原?」
「何?」
「中神さんは小宮くんのことが気になっていたのなら、どうして最初から自分でバレンタインの贈り物をしなかったんだろう」
僕の疑問に星原は少しの間、沈黙してから口を開く。
「多分ちょっと前までは自分でも気持ちを自覚できなかったのよ。きっかけはあれじゃない? 小宮くんがチョコレートをもらったと料理部員の前で話したとき」
「ああ。昭島さんにからかわれて小宮くんがつい自慢した時か」
「実際には小宮くんに贈りものをした女の子がいたわけじゃあなくて、行き違いから生まれた『虚像』だったわけだけれど。でも、中神さんはそのとき『小宮くんにチョコレートを渡す女の子がいる』ということにショックを受けたのよ」
「そういうことだったのか」
つまり、中神さんは「他の女子が彼と親しくしている」と想像して思わず嫉妬している自分に気がついた。彼のことが気になっている自分を自覚したということだったのだろう。
人の記憶や判断というのは曖昧なもので、時に印象からくみ上げた幻想を作り上げてしまうものだ。
ある時は、類似した事件から事実を間違って記憶してしまう。
ある時は、後から刷り込まれた経験を事実と思い込んでしまう。
だけれども、虚像は虚像であると意識したとき、その虚像が別の真実を気づかせることもあるのかもしれない。
印象が作り上げる虚像というのは、あるいははた迷惑で人の気持ちを振り回すものかもしれないが、その虚像が何からくるものなのか突き詰めて考えた時にそれが人を前に進めることもあるのではないだろうか。
僕自身に当てはめるのならば、星原は僕にバレンタインの贈り物をしてくれるとばかり思っていたけれど、それは僕の中の印象が作り出した虚像だった。
でも言い換えればそれはつまり、僕がそれくらい彼女の気持ちに期待してしまっていたということで、それを求めるには「もっと日ごろから星原に積極的にアピールするべきだった」ということなのだろう。
内心ため息をつく僕に「月ノ下くん」と星原が声をかけた。
「何だ?」
「ロッカーの中に忘れ物しているんじゃない?」
「え。何かあったか?」
僕は教室の片隅にある物入れの中を確認する。するとラッピングされた箱が入っているではないか。
これは……まさか。
開けると中には手作りのチョコレートが入っていた。
そういえば、たまたまこの二日間ロッカーを使う用事がなかったので中を見ていなかった。もしかすると一昨日のバレンタインデーの放課後あたりからここにあったのだろうか。
しかし。
「一つ問題が解決したと思ったら、今度は別の問題が発生したな。一体誰がくれたんだろう?」
「本気で言っているの?」
彼女は呆れたような目で僕を見る。
「あなたに贈り物をくれそうな親しい女の子に心当たりとかあるんじゃない?」
残念ながら思い当たる相手がいない。
僕が困惑して黙り込んでいると「それなら『もらって嬉しい相手』はどう?」と続けて尋ねた。
「一人、いるけど」
星原に他の女子からもらって喜んでいるように思われたら心外だが、さりとて本人を前にして「君なんだ」とは言えそうにない。
「へえ。どんな女の子?」
訊かれた僕はとっさに婉曲的な言葉を返していた。
「どんなって……髪は黒くて肩のところで切りそろえていて」
「私みたいに?」
彼女は僕の手を取って自分の首筋に導いていく。
「体は小柄だけど柔らかそうで」
「こんな風に?」
彼女はそのまま僕に身を寄せる。彼女の肢体が押しあてられて僕の心臓は思わず大きく跳ね上がる。
「黒目がちで、綺麗な目をしている子だよ」
「……そう」
彼女と対面して抱き合うような形なので、すぐ目の前に彼女の顔がある。
そのまま星原は僕の目を覗き込んで、にっこり笑う。
「それなら、大丈夫。そのチョコレートはきっとその子がくれたものよ」
そういうと彼女は僕からぱっと身を放した。
「え?」
それはつまり……そういうことか。
彼女は二日も前に自分が贈り物をしていたのに、僕がその事に気が付きもしないから「いつ反応してくれるのか、自分に確かめに来るのか」と内心もどかしく感じていたのだろう。
「そんな風に素直に気持ちを言ってくれたら、きっとその子も来年は直接渡してくれるんじゃない?」
星原は僕に微笑むと教室の扉を開けて出て行った。
一人残された僕は今この時の何とも言えない気持ちを忘れないようにと、彼女が贈ったチョコレートをひと齧りしたのだった。
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