第15話 マンデラ・エフェクトと虚偽記憶


 僕はいつものように本校舎の三階にある一室の扉を軽くノックする。


「星原、……入るぞ」


 明彦と別れた僕はすぐさま、勉強会に使っている図書室の隣の空き部屋を訪ねたのだった。


「あら……月ノ下くん。今日は用事があるから勉強会に来ないって言ってなかった?」


 ソファーに腰かけて参考書をめくっていた少女が僕を振り返った。前髪の下から覗く大きな瞳が僕を映す。


 その表情はどこかそっけなくも感じられた。バレンタインの時に特に何もなかったということも相まって僕はほんのすこし気まずさを覚えながらも口を開く。


「実は聞いてみたいことがあって」

「え? なに? どんなこと?」


 彼女は興味深げに身を乗り出してきた。


「実は、料理部員の小宮くんっているだろ? 僕が前に星原に相談した『ケーキが無くなった事件』の時にかかわった一年生。彼がちょっとしたトラブルを持ち込んできてさ」


 言葉の途中で星原は「何だ、そんなことか」と言いたげな面倒そうな表情になる。何か別の話題を期待していたのだろうか。


「……というわけで、明らかに羽村さんしかその時教室に出入りしていないのに、本人は否定しているんだよ」


 ソファーに腰かけた僕はここまでの経緯を彼女に説明した。


「ふうん。最後の授業は音楽だった。つまり授業の前にロッカーの中から教材を取り出すわけだけれど、その時点では彼のロッカーには何も入れられていなかったということなのね。それで忘れ物をして戻ってきたときにチョコを見つけて、直前に一年C組の教室から出てきたのがその羽村さんなんじゃないかということなの」

「ああ。でも本人はチョコレートを小宮くんに贈ってなんかいない、といっているんだ」


 ひととおり話を聞いた彼女は思考を巡らせるように、腕組みをして目の前のテーブルに目線を落とす。


「つまり、同じ出来事について複数の人間で認識が食い違っているということなのね」

「そうなんだ。こういう事ってあるものかな」

「……似たような話でマンデラエフェクトという現象があるわ」

「マンデラエフェクト?」

「ネットスラングの一種なんだけどね。事実と異なる記憶を何人もの人たちが共有している現象を指すの。集合的虚偽記憶ともいわれているわ」

「よく分からないな。どういうことなんだ?」

「二〇一三年に南アフリカ共和国のマンデラという政治家が亡くなったという話を知っている? 人種差別に反対する運動をしたことで有名で、当時ニュースでも報じられたのだけれど」


 マンデラエフェクトの「マンデラ」は人名だったのか。


「そういえばそんな名前の大統領がいたという話は僕も聞いたことがあるな」

「ところがこの時に『マンデラは八十年代に刑務所で病死したんじゃないか』と言いだす人が現われた。一人や二人だったら記憶違いじゃないかと思うんだけど、ある程度の割合の人たちが『自分もそう思っていた』と言いだしたの」

「へえ? 単なる記憶違いにしては人数が多すぎるということか」

「ええ。それで実はこの世には私達とは違う歴史と時間が流れている並行世界が存在して、その記憶を持っている人たちがいるんじゃないか、なんていうオカルトじみた都市伝説になっているわ。……ちなみにこのマンデラエフェクトには他にも例があってあの企業のロゴマークはデザインが違っていたはずだ、とかあの有名キャラクターにはしっぽに黒い模様が入っていたとか、どれも事実と違っている記憶を主張する人が現われて物議を催しているわけ」

「並行世界、パラレルワールドか。まあ流石に眉唾なんだろうけど。……しかし何でそんな現象が起こったんだろうな」


 首をひねって考え込む僕に、彼女は「コホン」と咳払いをしてからすました顔で答える。


「一つにはね。人間の記憶の性質にあるんだと思うわ」

「記憶の性質?」

「つまりね。人の記憶というのは自分で思っている以上にあいまいなものなの。印象深いところは残っているけれど、それ以外はぼんやりとしか思い出せない。するとどうなると思う?」

「どうなるって……」

「印象に残っているところだけをつなぎ合わせて、自分の脳内で物語を作ってしまうのよ。事実とは違う虚像の物語を。……例えばさっき話したマンデラ大統領なんだけれども、実は『八十年代に獄中で亡くなった同じ南アフリカの活動家が存在している』の。つまりその人物のことが印象に残っていて混同しているんじゃないかという説がある」

「印象が虚像になって物語を作る、か。そう言う話は確かによくありそうだ。イメージが先行して事実と異なった認識をするみたいな話だよな」


 そういう例は僕もいくつか覚えがある。


 例えばレミングというネズミがいるのだが、このネズミは大量に繁殖して食べるものを求めて移動し続ける。デスマーチとも言われるその行進はその先に断崖絶壁があっても止まらないでそのまま集団自殺する、という話があるのだ。しかし実はレミングには集団で崖から飛び降りるような生態はなく、アメリカのドキュメンタリー番組でレミングを撮影する際に崖に追い込んだ結果、そういう映像が撮影され印象的なそのシーンが有名になってしまったのだそうだ。


 またピラニアというアマゾンの魚は近づいてきた生き物に襲いかかる獰猛な肉食魚というイメージがあるのだが、実際には血の匂いに反応して噛みついてくることはあるものの、普通の状態であれば自分より大きい生き物には近づかない臆病な生き物なのだという。これも一昔前のTVのドキュメンタリー番組でそういう印象ができてしまったことによるものらしい。


「……逆に不確かな情報や印象の薄い出来事については、記憶を上書きして別の印象を与えることもできるという話もあるわ。アメリカで行われた実験でも何の変哲もないホテルに『ここでは以前に殺人事件が起こった』という嘘の前情報を教えて被験者に宿泊させたら『幽霊を見た』と証言する人間が現われたそうよ。……他にも事実と関係なく相手に『あなたは小さいころ迷子になっていた』と言い聞かせたら本当にそういう記憶を持つようになったという心理実験もある」

「なるほど。人間の記憶ってこうも曖昧なものなのか。これじゃあ裁判の目撃証言も知り合いの思い出話もあまりあてにはならないな」

「ふふ。……でも一方で匂いや味で関連する記憶が鮮明によみがえる、なんて話もあるけどね。確かプルースト効果とかいうやつなんだけど」

「それはそれで面白そうではあるが、残念ながら僕も小宮くんも別にものを食べながらC組から出てきた人間を目撃したわけじゃないからなあ。……でもまあ、つまりこういうことか。僕らは印象的な出来事に気を取られて、自分の中に勝手に物語を作ってしまっている、と」

「ええ。お互いの認識が食い違っていて、かつどちらも嘘をついていないのだとしたら、無意識に『思い込み』を作っているんじゃないかしら」


 無意識の思い込み。


 僕は冷静に一連の経緯を思い返す。


 そう、僕らはインパクトの強い事実を必要以上に大きくとらえてしまったために、思い違いをしていたんじゃないのか。


 あるいは些細な出来事だと思って見過ごしたことがあるのではないか。


 僕が見たのは羽村さんが「教室から出てきたところ」であって「チョコレートを小宮くんのロッカーに入れたところ」ではないのだ。


 それにチョコレートは手作りだったという。彼女は指を骨折していて包帯を巻いていた。あれでは調理なんて難しい。


 じゃあ、彼女は無関係なのか?


 しかし僕自身の記憶ではあれは確かに羽村さんだと思うし、他にチョコレートを入れることができた人間は居ない。


 じゃあ発想を変えてみたらどうだ? 


 例えば「羽村さんらしき人物が教室から出てきた」という印象深い事実を一度取り払ってみたとき、チョコレートを回収できる人間は誰だろうか。


「なるほどね。ありがとう、星原。……ちょっと行くところができた」


 僕の言葉に「おや」と星原が片眉を跳ね上げる。


「何かわかったの?」

「ああ、多分。……ただ、これもまだ僕の思い込みの域を出ないからまず本人に確かめないといけないけれど」


 僕はソファーから立ち上がると、扉を開けて廊下に出る。


 そして料理部の部室、家庭科室へ向かうべく実習棟へと足を向けたのだった。

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