第6話 壁の落書き

 僕は明彦の言葉に振り返る。


「……どうかしたのか?」

「これだよ、これ」


 彼の指さしている先を注視してみた。一見何の変哲もない壁にしか見えないが……いや、これは?


「何か、塗った跡があるな。これは絵の具か?」


 荻久保も「え?」と驚いて近寄ってくる。


 そう、一見すると何の変哲もない灰色の壁だがよく見ると同系色の絵の具が塗りたくられていたのだ。その範囲は十センチ四方といったところだろうか。だがよく観察すると同じように絵の具を塗られている場所が三、四ケ所くらい壁に点在している。


「本当だね。これ、絵の具だよ」


 隣に来た星原が一瞬考え込んでから口を開く。


「荻久保さん」

「何?」

「聞きたいのだけれど、森下さんが居残りをしていた時に減っていた絵の具って何色だったの?」


 荻久保は言葉に詰まるように数秒ほど黙り込んだが、意を決するように小さくため息をついて答える。


「確か……白が大きく減っていたと思う」


 白。


 目の前の壁は薄い灰色だ。この壁を塗るために絵の具を使っていたのだろうか。


「そう。それでは、やはりこの壁に絵の具を塗っていたのは森下さんで間違いなさそうね」

「となると、何のために壁に絵の具を塗っていたのかということになるが」


 僕が星原の言葉を引き継ぐように疑問を口にすると、明彦が「そんな悩むことじゃあないだろ」と満面の笑みを浮かべてこともなげに言ってのけた。


「絵の具を剥がせばいいじゃねえか。それではっきりするだろう」


 流石はこの中ではきっての行動派である。既に手には油絵を描くのに使う刃物(ペインティングナイフというらしい)を持って壁の絵の具を削り取ろうとしていた。


「そりゃあ、そうだが大丈夫か? 下手したら壁を傷つけたりして先生に怒られるんじゃないか?」

「気を付けてやるから問題ない。そもそも青春に壁はつきものだ。ぶつかって傷がつくのも仕方がないだろう」


 そういう問題かな。


 星原と荻久保を見やるが特に反対するつもりはないようだった。


「それじゃあ行くぜ」と明彦が手を動かし始める。


 僕の当初の心配をよそに小刻みに、それでいて丁寧かつ正確に壁の絵の具をこそぎ取っていった。意外と器用な男だ。


 やがて、絵の具は完全に剥がされていき、その下から何かの黒い線画のようなものが現われ始める。


「ん? こりゃあなんだ」


 明彦は絵の具の下に隠されていたものを見て、理解できないように眉をしかめる。


 だが僕は、いや僕と星原、それに荻久保にはそれが何なのかすぐに判った。


「犬の絵だ。これは……森下さんが描いていたあの犬のイラストだ」

「本当だわ。こんなところに落書きしていたのかしら」

「ええ? 自分で描いた落書きを消すために絵の具を使っていたということなの?」


 一方、明彦は話についていけてないようで「何だ? どういう事だ?」と首をかしげる。そういえば彼は校舎のどこかにある忘れられた部屋を見たいというだけで前後の経緯をあまり聞いていなかったのだった。


「いや、実はこの絵なんだけどさ」


 僕は明彦に簡単にここまでの流れを説明した。


「へえ? 森下って子が自分が描いたイラストをその大島ってやつにパクられたのが始まりだったのか。それでその問題のイラストがここに描いてあるのと同じ犬の絵だったと」

「ああ。そういうことなんだ」

「それじゃあ、こういう事じゃないか? 森下はここに出入りするようになってちょっとした悪戯心で壁に犬の落書きをしていた。しかし、ひょんなことから自分の犬のイラストがメッセージスタンプの販売という形で知れ渡ってしまった。このままだとこの落書きをしたのが自分だとわかってしまう。だから居残りをするふりをして絵の具を塗って隠そうとしていた」


 明彦の推理は一件筋が通ってそうに見える。しかし……。


「うーん、でも森下さんって真面目で大人しくてこんなところに落書きをするような性格じゃあないと思うんだけどなあ」


 荻久保が悩まし気に頭を抱えていた。


 僕も同感だ。


 あのおどおどした雰囲気の少女と壁に落書きをするというはっちゃけた行動がどうにも結びつかない。とはいえ人は見かけによらないというから僕の思い込みかもしれないが。


 星原も顎に手を当てて思考を巡らせながら、推論を述べる。


「そもそもあの森下さんという子は、あのイラストが広まると困るから大島さんとやらの盗用販売を嫌がっていたようだったのよね。でもこうして絵の具を塗って隠してしまったのなら、もう広まるのを恐れる必要はなかったと思うの。それなのに今現在でもイラストが広まったり先生に知られて大ごとになるのを嫌がっている素振りがある。これもちょっとおかしいんじゃないかしら」


 明彦は自分の推論を否定されて若干面白くなかったのだろうか、少し鼻白んで反論を口にする。


「でも、使っていた絵の具からしてこれを塗ったのが森下なのは間違いないんだろ? じゃあこの壁の落書きを知られたくないのは明白じゃねえか」


 少し興奮していたのだろう。明彦は少し大きめの声を出して、壁を強めに叩く。


 と、その拍子に壁に貼られていた注意書きがぺらりと剥がれて床に落ちた。セロハンテープで壁に貼られていたものだったが、経年劣化してテープも茶色くパリパリになっていたのだ。


「……おっと」

「おいおい、何をやっているんだ。大丈夫か?」

「たかが紙のポスターだ。別にどうってことない。貼り直せばいいだろ?」


 僕は剥がれ落ちたポスターの内容をちらりと見る。


 書かれていたのは「美術部保管庫の使用上の注意」と縦書きで銘打たれたタイトル。そして左に「火気厳禁」「飲食禁止」「保管および持ち出しする際は部長の許可を得る」などの文言が並べられている。


 別になんてことない内容だな。


「え?」

「あら、こんなところにも」


 ふと、隣の荻久保と星原が壁を凝視して少し驚いたように目を見開いている。


 なんだろう、と僕と明彦も立ちあがって彼女たちの目線の先を追う。すると剥がれたポスターの下から例の犬の落書きがさらにもう一つあらわれているではないか。


「なるほどな。どうやら張り紙の下に書いた落書きを消し忘れていたってわけか」

「……うーん。やっぱりおかしいかも」


 壁の落書きを凝視しながら荻久保が小さく声を漏らした。


「何が?」

「絵の具の量と時間だよ」

「どういう事だ?」


 僕の疑問に彼女は「つまりね」と張り紙の下の落書きを示しながら説明を始める。


「これくらいの大きさの落書きを消すだけだったら、一回か二回ここに来て壁と同系の色を作って塗るだけで済む。だけどここしばらくずっと放課後に居残りしていたうえに、私にも傍目でわかるくらいの絵の具を使っていたにしては、やっていたのはこれだけなのかなってこと」

「他にも何かしていたんじゃないかということなの?」

「……うん」


 だが、一体何をしていたのだろう。落書き以外で知られたくない何か。自分の描いたイラストが人に広まるのを嫌がる理由。


 もやもやとした疑問が胸の中に広がるが、今一つ答えが出てこない。


「とりあえず、これ以上は何も出てきそうにないわね。一度考え直してみましょう」と星原がまとめて、僕ら一同はとりあえずその言葉に従うことにしたのだった。

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