第7話 キルロイ参上

「……それじゃあ、次。 ドイツのフランス侵攻に対し、ロンドンに亡命し自由フランス政府を組織したのは誰?」

「ド・ゴール」

「正解。……ちょうど区切りが良いわね。少し一休みしましょうか」


 美術部の倉庫に入った次の週のある日、僕と星原はいつものように勉強会をしていた。


 ソファーに腰かけた彼女は両手を上げて「うんっ」と肩の関節を伸ばしてみせる。テーブルに向かって問題集とにらめっこしていたので肩が凝ったのかもしれない。


「やっと第二次世界大戦まで終わったか。日本史とか世界史は覚えることが多すぎて辛いな」


 僕のぼやきに隣の星原は「第二次世界大戦、ね。……じゃあ気分転換にこんな話はどうかしら」と別の話題を切り出した。


「第二次世界大戦の頃にアメリカ軍の間で『キルロイ参上キルロイ・ワズ・ヒア』っていう落書きが流行した話を聞いたことはある?」

「『キルロイ参上』?」

「図柄としては壁の向こうから鼻の長いキャラクターが正面を覗き込むような構図で、子供でも描けそうな簡単な絵なんだけれど……。どういうわけか米軍兵士たちの間で流行して野営地の壁とか配備先の基地の壁に落書きするようになったんだって」

「へえ。しかし誰がそんなものを書き始めたんだろうな?」

「一番有名な説は米国の造船所で働いていた検査官にキルロイという人物がいて、軍艦の部品を確認した証拠として書きつけたという話ね。すると船が組みあがった時には『人間が入り込めないような区画に、何故か落書きがされている。しかもたくさんの船で』というミステリアスな状況が発生するわけ」

「ほう。なるほど」


 落書きに気が付いた兵士たちが驚き面白がって、真似を始めたということなのだろうか。最初に描いた本人は誰かに見せるつもりはなかったのかもしれないが、見つけた人たちからすれば不可解な落書きがいたる場所にたくさん描いてあるのだ。


 キルロイという謎の人間に対する想像力がかきたてられて、伝説になっていったのかもしれない。


「それから、兵士たちが進駐地や作戦などで到達した場所にこのフレーズを描くようになったのだとか。この落書きの面白いところは『こんなところにも描かれているのか』という意外性にあったのかもしれないわね」

「確かにいろいろなところで落書きがされているのを見ると集団心理に駆られて、自分も描いてみたくなる、というのはあるかもしれないな」

「そうね。……ちなみにここから先は都市伝説の部類だけれど、あのヒトラーは、このキルロイの落書きが米軍捕虜の装備の中から頻繁に見つかったから、どんなところにでも容易に入り込む超人的な連合軍のスパイだと思い込んだとか。スターリンは、ポツダム会談の時に屋外トイレに入ったときに見つけて『キルロイって誰だ?』と補佐官に聞いたとかね。……こういう誰ともなく真似を始めて広がっていく文化をミームというらしいわ」

「ミーム?」

「ええ。ある動物行動学者が唱えた『人から人へ伝播する文化の最小単位』。遺伝子を意味する『ジーン』と模倣を意味する『ミミック』を組み合わせて考案した用語なの。メロディーとかファッションとかね」

「つまり文化を遺伝子としてとらえたってことか」


 生物の遺伝子は複製され増殖し変異して広がっていくのが目的だが、確かに文化にも似た側面はあるかもしれない。


 キルロイの逸話にしても見えないところに描かれていた落書きが、こんな風に歴史に残るなんて描いた本人は思いもしなかったろうな。


 そんなことをふと考えた時に、僕の脳裏につい先日の美術部の倉庫に描かれていた落書きが思い出された。


「なあ。星原」

「どうしたの? 急に真面目な顔になって」

「先週のあの美術部の倉庫に描かれていた犬の絵なんだが、よく考えるとおかしくないか?」

「え?」


 そう。あの明彦が壁を叩いたために張り紙が剥がれて、下から犬の落書きが出てきたとき。僕は何か心の中で引っかかっていたのだ。


「あの時に剥がれた張り紙なんだけどさ。『テープが茶色に変質して粘着力が無くなりかけていた』んだよ。……だから明彦が壁を叩いた拍子に剥がれて落ちたんだ」


 星原は僕の言葉を聞いて思うところがあったのか、眉をひそめる。


「……それは、つまり」

「だとしたら、あの落書きは張り紙が貼られる前。テープが劣化するくらいの時間つまり『数年以上前に描かれた』ことになる。多分、他の壁に描かれた三、四ケ所の落書きもそうだ。でも森下さんがあの部屋に入ることが出来るようになったのは、『鍵が手に入った年末』つまり『一か月前』だ」

「あの落書きを森下さんが描いたとしたら、矛盾しているという訳ね」


 僕の指摘に星原も同意する。 


「確かに私も疑問には思っていたの。そもそも自分で描いた落書きを消すために森下さんが絵の具を塗ったのだとするのなら、注意書きの張り紙の下に書いた落書きを消し忘れたりするかしら」


 そう。彼女が自分で描いた落書きを消していたのだとしたら、『張り紙の下』なんて特殊な場所に描いた落書きを消すことを忘れるなんてことはあり得ないのではないだろうか。


 おそらく彼女はあの張り紙の下の落書きの存在を最初から知らなかったのだ。


「つまり、あの落書きを描いたのは彼女ではなく『他の誰かだった』ということになる」


 こうなると彼女が自分のイラストを広められるのを嫌がっていた理由も半分見えてきている。


「だけど」


 まだ完全ではない。


「落書きを自分自身の手で隠した現在でも、彼女が自分のイラストを広めたがらない理由がどこにあるのかが、まだはっきりとは見えていないな」


 若干、痕跡が残っていたとはいえ落書きを消すことには成功していたのだ。イラストが広まったところで、落書きを見られなければもう特に困ることはないはずなのに。


「ええ、それに彼女が壁の落書きを消す以外にあの部屋で何をしていたのか。あの部屋で他に不自然なことが何かあったのか、ということなのだけれど」


 不自然なことか。


 そういえば、あの部屋で引っかかったことがもう一つある。


「星原。……あの三枚の絵のこと覚えているか?」

「え? ああ。保管品の目録と見比べた時にすぐに見つけられなかったあの新春をテーマにしたあの絵ね。あれがどうかしたの?」


 僕らは「森下さんは何かを持ちだしたんじゃないか」と考えていたので、目録の通りに作品が揃っていたことが確認できたことで特になんという事はないと思い込んでいた。


 しかし。


「あのとき、僕らは何故あの三枚の絵をスムーズに見つけることができなかったんだ?」

「何でって、あれだけ奥の端に置かれていたから。……あ、もしかして」


 彼女もあの絵の所在の不自然さに気が付いたようだ。


「そうだよ。普通、倉庫にものを保管するなら奥から順番に置いていく。新しいものが前に来る。棚に並べられたものや床に置かれているものもあったが、基本的には年代順に並んでいたんだ」


 それなのにあの三枚だけ変なところに置かれていた。だから僕らは見つけるのに時間がかかったのだ。


「つまりあの三枚の絵は、見つけて欲しくなくて森下さんが意図的にあの場所に置いた可能性がある、ということなの?」

「ああ」

「でも、あの絵に何か隠したくなるような理由があったかしら。平成十五年度から平成十七年度に描かれた干支にちなんだ油絵作品でしょう? 特におかしいところなんてないと思うけど」

「……そうなんだよなあ」


 僕はあの絵の内容を思い返すが、特に不自然なところもなく単に動物を主題にした普通の絵画だった。


 いや、待てよ。「内容以外のところ」で何かおかしい部分はないか?


「どうかしたの?」


 急に考え込みだした僕を彼女は不審そうな顔で覗き込む。


 僕自身にもまだ見えていないが、何となくあの絵には「不自然な何か」がある気がするのだ。そしてそれについて知っている人物がいるとすれば。


「星原。……大崎先生って何年くらい前からうちの学校にいるのかな」

「え? 大学を卒業してすぐここに来たっていう話だから十五年くらい前ってところじゃない?」

「……そうか」


 僕は立ち上がった。


「何かわかったの?」

「ちょっと思いついたことがある。ただ、まずはあの三枚の絵が描かれた背景について知る必要がある。さしあたり大崎先生の所に行って話を聞いて来ようと思う」


 その返答次第で真実が明らかになるはずだ。


 僕が廊下へ向かうべく扉に手をかけようとした、その時。


「でも、私たちがしていることって森下さんを追い詰めることになっていないかしら」


 唐突に星原が僕の背に疑問を投げかける。


 僕は思わず黙り込んだ。


 確かに、元々僕らは彼女が描いたというイラストを大島に使わせないようにしてほしいと頼まれていたのだ。彼女の秘密を暴こうとしていたわけではない。


 彼女の不審な行動を気にかけていた荻久保にしても、あくまでも森下さんを心配していたのであって、彼女を困らせるのは本意ではないかもしれない。


 だけれども。


「周りに言えないような後ろめたさを抱え込んでいる状態は健全とは言えないし、森下さんのためになるとは思えない。たとえそれが一時的に彼女を悩ませることだとしても、長い目で見たとき彼女を救うことになると思うんだ」


 星原は振りむいた僕の目をしばらく見つめ返して「その選択が正解であることを願うわ」と静かな表情で答えた。

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