裏2 救済

仕事もクビになり、住む場所も追われ、流れ流れてようやく辿り着いたのはダンボールハウスであった。

数少ない荷物を抱えて、必死こさ集めたダンボールで寒さを凌ぐ生活が続いた。

風呂にも入らない。散髪にも行けない。ご飯だって食べられない日が多く。水道水で飢えに耐える日々が数ヶ月続いた。


就ける仕事などは無かった。

帰る場所も無い。

だけど私は、寄生虫の如くこの街にしがみついた。生き汚い自覚はあれど、この街だけが私にとっての救いだった。

この街にある思い出だけが、私の心を満たしてくれた。誰に後ろ指を刺されようとも、その意志は変わらない。

ここで死を迎える。そして、妻や娘の場所へと行くのだ。


「自殺する勇気が、欲しかったな」


ボロボロの体は、もはや動くこと叶わない。なけなしのお金が入った財布を握りしめ、六文銭の代わりとする。

これで、あの世に……


「なんだよこのオッサン。汚ねぇ」

「言ってやるなよ。ハエ集ってるから死体かもしれねぇだろ」

「アハハ。そうだな」


静かな眠りを妨げる耳心地の悪い笑い声に薄く目を開いた。

今日は何も飲んでいないせいか喉が張り付いて声が出ない。体も動かせない。

目に入るのは足だけだ。霞む視界に幾人かの足が見えた。


「おっ財布握ってんじゃん。もしかしたら入ってんじゃね」

「ないない。こんな汚いオッサンが大金持ってるもんかよ。どうせはした金だろ。ゲーセンで使っちまおうぜ」


手が伸びてきて、私から財布を奪い取っていく。

必死に手を伸ばそうとするも、ピクリとも動きはしない。

意識が辛うじてあるだけで、もはや虫の息なのだ。こうして思考が生きていることすら奇跡に思えた。だが、こんな奇跡なんて欲しくはなかった。

私が望む奇跡は……もはや手に入る物ではない。


『大丈夫。お父さん』


幻聴が聞こえた。

迎えなのだろう。娘が迎えに来てくれるなんて嬉しい限りである。天は、まだ私を見捨ててはいないようだ。


「亜、美」

『よかった。意識はあるんだ。私のこと、見える?』

「見える、とも。近くに、おいで」


最後の力を振り絞り、張り付いた喉から声を出して腕を持ち上げた。

あの若者たちが財布を奪っていった時には絞り出せなかった活力が、最愛の娘によって引き出される。


最後に会えてよかった。私は、思い残すことなく死を迎えることが出来る。


「亜、美……」

『お父さん。待っててね』


「ぎゃああああ!!」

「熱い、熱い!!」


叫び声が聞こえた。

先程の若者であろう。手元にポンッと置かれた財布。壊れた人形のようにゆっくりと顔を上げ、目を少しずつ開いていく。


そこには、火達磨が二体転がっていた。

転がりながら全身を包む火炎を消そうとしているが、燃え移ることもなく。勢いも削がれることはない。

若者の一人が、私の近くで思いっきり水を被った。それでも、消えることは無い。私にもかかるような角度で幾度も被るせいか、少しずつ水を飲むことが出来た。

喉が潤うと、まだ身体に力が残っているように感じられて、フラリと立ち上がる。


燃え盛る若者を押しのけるようにして水を喉に流し込む。

熱さに悶えて泣き叫ぶ声をBGMにしながら、私は亜美を探した。

あの声が死に瀕したが故の幻聴なのか、実際に居たのかを知りたかった。

一目でいいから、会いたかった。


私の、希望と……


『お父さん』

「亜美」


にこやかな笑顔を浮かべ、高校の制服に身を包んだ最愛の娘がそこに立っていた。

体が透けて向こう側が見えているが、そんなことは関係なかった。

幽霊であろうが、なんであろうが、私にとっては些細な問題だ。ゆっくりと近づき、割れ物を扱うかのように優しく抱きしめようとする。触れる温度はなく。質量も感じない。そこにいるのかさえも曖昧だ。

それでも、形だけは抱きしめていた。


抱きしめられた……気がした。


そのことに、涙が零れる。


「帰ってきてくれて、ありがとう」

『ごめんねお父さん。一人にして……でも、もう一人にしないから、ずっと傍に居るからね』

「ああ。ああ」


ただ傍に居る。それだけで幸せだった。お金が無くてひもじい生活をしていても、家族が居るだけでよかったのだ。

離れ離れになったからこそ、その幸せを理解することが出来た死の間際に訪れた救済。


地獄の中に垂らされた一本の糸。


この救済を手放さずに生きていこう。周りがどうなろうとも、気にはしない。どう言おうとも、聞きはしない。どう見られようと意味は無い。


奪われたからこそ、私は耳を貸さない。


これからは、亜美を守るためだけにこの命をかけるのだ。


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