裏1 地獄

私は、普通の幸せを望んで生きてきた。

学校を卒業して、職に付き、恋愛をして、子供を授かり、円満に暮らしていたかった。喧嘩をしてもいい。泣いてもいい。不満を口にして陰険な雰囲気になってもいい。

最後に和解し、笑顔であればそれでいいと。そう考え、必死に働いた。


最愛の妻のため。娘のため。未来のために、日々を送った。

いつも全力だった。

小さな会社ではあったが、不満はなかった。給料は少なくとも、妻は笑って許してくれた。娘はぶぅぶぅと不満を口にしていたが、笑顔だったので冗談混じりだったのだろう。



幸せだった。この幸せのために生きているのだと心から実感していた。



だけど、幸福という物は唐突に失われるのだと私は知った。ほんの小さな出来事が、人生を狂わせた。


小さな出来事。それは、タバコらしい。


らしいと言うのは、私自身詳しくは知らされていないからだ。ニュースなどの情報で、それを知った。ポイ捨てか、不始末か、詳しくは知らない。知らないが、結果だけは知っている。


私の住んでいたアパートの全焼だ。


昼間の出来事だった。

妻は風邪を引いて部屋で寝ていた。不安はあったが、娘と二人で外に出た。その日は平日。学校もあれば会社もやっている。何も起こるわけはないと思いつつも、早退きの手続きだけはしておいた。電話は近くに置き、急ぎの仕事を片付けて何時でも帰れるようにしていた。


そんな折、電話がかかった。


発信者は娘。

何かあったのだろうかと電話に出れば泣き声と共にアパートが焼けていることを知らされた。同時に、妻と連絡が取れなくなっていることも……


急いで帰った。


救急隊の人達の制止を振り切り、アパートの前まで行けば、すでに崩れ落ちた我が家しかない。泣き崩れている娘が近くに居た。周囲には、慌てて逃げ出したのであろう住人の姿がある。何人か見当たらない。妻も、その一人であった。


その後のことは、よく覚えていない。


警察や消防隊の人に何かを聞かれたが、なんと回答したのやら。悲しさと怒りのせいである。


これからのことを思えば、不安しか無かった。


後悔ばかりが、頭を過ぎる。

しかし、後悔ばかりしてもいられない。


娘が居るのだ。まだ高校生の娘を不自由させる訳にはいかない。だから、葬式を機に気持ちを入れ替えた。涙を拭って前を向くことを決めたのだ。

生きていたのであれば、背中を押してくれただろうから。

隣で微笑んでくれたであろうから。


上司に事情を説明すると、社宅に一時的に住んでいいことになった。貯金は火の海に飲まれてしまった。保険にも入っておらず銀行に預けていたのは雀の涙程度のお金。正確には、娘の学費だけである。

卒業までの学費が残っていたことは救いではあったが、生活する場所もお金もなかったので社宅に住まわせて貰えたことは嬉しい限りだ。

しばらくはお世話になり、お金が貯まり次第出ていく予定で生活が始まった。


元々明るかった娘だが、火事の一件を機にさらに明るくなったように見える。空元気ではあったろうが、空元気も元気のうちだ。家事を手伝ってくれたりするのでとても助かる。よく出来た娘に毎晩感涙したものだ。


だが、そんな生活も長くは続かなかった。


娘の自殺。それが、私を絶望のドン底へと叩き落とした。何が原因なのか分からない。イジメがあったわけでもなければ不満があったと聞いたこともない。遺書も残されてはおらず、学校の屋上から飛び降りた事実だけが取り残された。


絶望が、どれだけ深いのかが分からなくなった。多くの友達に見送られる娘を見て、心が闇に覆われた。


なんで、どうしてと自問自答を繰り返す。


私が悪かったのだろうか?

社会がおかしいのだろうか?

運命がそう仕向けたのだろうか?

神様が罰を与えたのだろうか?


ぐるぐると巡る考えを、仕事をこなすことで払拭しようとした。

私にはこれしか残されていない。ただ必死に働いた。働いて働いて働いた私を待っていたのは、クビの一言だった。


別の部署に居るお偉いさんが、私が横領している証拠を突き付けてきた。


そんなもの、記憶に無い。


ただ、一生懸命働き、少ない給料でやりくりしてきた。数百万の横領なんて寝耳に水であったが、告発するには充分過ぎる証拠が彼の手元にはあった。

何度も私でないことを主張した。何度も、何度も、何度も、しかし、私の意見など聞き届けては貰えず、裁判沙汰にすると脅され引き下がるしか無かった。

裁判をしようにもお金がない。

娘の葬式で全て使い果たしてしまったからだ。


社宅を追われ、寒い夜を幾度と過ごした。

荷物はバックに収まる程度しかなく。夜は凄く冷えた。体よりも、心が凍えていた。


ずっと涙を流しながら世界を呪った。


私は、こんな風になるために生きてきた訳では無い。


ほんの少しの幸せが欲しかっただけなのだ。

悲しみと苦しみと憎しみが心を闇へと引きずりこむ。

そして、私は……


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