第5話『日常の愛おしさ』

 午後6時過ぎ。

 俺達は福王寺先生の家を後にする。

 日の入りの時刻までまだ1時間近くあるけど、どんよりと曇っているから結構暗い。それもあり、学校を出たときよりもさらに空気が冷たく感じる。

 武蔵金井駅の北口で結衣、伊集院さん、中野先輩と別れ、俺は胡桃と2人で自宅の方に向かって歩き始める。


「杏樹先生が結構元気になっていて良かったよね」

「そうだな。もしかしたら、明日は学校で会えるかもしれないな」

「そうなるといいね」


 胡桃らしい優しい笑みを浮かべる。

 玉子粥を食べた後に福王寺先生の体温を測ったら36度8分だった。このままゆっくりと過ごして、夜にぐっすりと寝れば、明日は学校で先生に会えるだろう。


「そういえば、こうしてゆう君と2人きりで歩くのは久しぶりだね」

「そうだな。結衣と付き合い始めてからは……これが初めてか」

「そうだね。……あれから半月以上経つんだね。あっという間。そう思えるのは、2人が付き合う前と日常があまり変わらないからなのかも。昼休みには一緒にお昼ご飯を食べたり、放課後には結衣ちゃんや姫奈ちゃんと一緒にムーンバックスに行ったり。夜になったら、ネット上で桐花として話したり。そんな時間があたしは好き」


 ふふっ、と楽しげな笑顔になる胡桃。

 休日中心に結衣と2人きりになることが増えたけど、学校にいるときの時間は付き合う前とさほど変わりないな。


「俺も好きだよ。みんなと一緒にいる時間。今日みたいに、放課後に普段と違う時間を過ごすのもいいなって思った。楽しかったな」


 昔は自分の部屋で1人でいる時間が一番好きで、家族や親戚以外の人と一緒にいるのは好きじゃなかった。でも、今は結衣と2人で過ごす時間はもちろんのこと、胡桃達と一緒に過ごす時間も好きになった。そう思えるようになったのは、結衣達のおかげだろう。あとは、2年以上、胡桃とネット上で会話しているのもあるか。


「そう言ってくれて嬉しいな。あたしも楽しかったよ」


 今の言葉が本当であると言っているかのように、胡桃は嬉しそうな笑顔に。

 結衣と2人きりの時間も大切にしたいけれど、胡桃や伊集院さん、中野先輩達と過ごす時間も大切にしたい。全員の家が徒歩で行ける範囲だとはいえ、高校を卒業したら、みんなで集まるのも難しくなりそうだし。

 俺の自宅の近くまで来たので、俺は胡桃と別れ、自宅に帰った。


「ただいま~」


 おっ、玄関に芹花姉さんの靴が置いてある。今日はバイトやサークル活動がなくて、大学から真っ直ぐ帰ってきたのかな。


「おかえり、ユウちゃん」


 靴を脱いで家に上がったとき、2階から芹花姉さんが降りてきた。


「今日は確かバイトがなかったよね。結衣ちゃんと放課後デートをしていたのかな?」

「ううん、違うんだ。結衣達とは一緒だったんだけどね。実は、ついさっきまで福王寺先生のところにお見舞いに行っていたんだよ」

「杏樹先生、体調を崩しちゃったんだ」


 心配そうな表情になる芹花姉さん。理系の姉さんは高校時代の3年間、福王寺先生から数学を教えてもらっていたからな。つい先日には素の部分を明かされたし。


「昨日、傘を忘れて、雨に打たれながら家に帰ったのが原因みたいだ。でも、病院で処方された薬のおかげか、俺達がお見舞いに行ったときはだいぶ元気になっていたよ」

「それは良かった」


 ほっと胸を撫で下ろす芹花姉さん。


「そのときに俺が玉子粥を作ったんだけど、それも全部食べてくれたし。だから、明日からはまた学校に来られると思う」

「ふ、ふーん……」


 芹花姉さんの顔から表情が消えて、俺のことをチラチラと見てくる。そんな姉さんを見て、何を考えているのかおおよその見当がついた。


「今日も肌寒かったし、お昼ご飯は学食で冷やし中華食べたから、お姉ちゃん……体が冷えちゃったなぁ。寒気がするなぁ」

「姉さん、冷やし中華が大好きだもんな」

「……うん。だから、体を温めたいなぁ。ユウちゃんが抱きしめてくれて、夕ご飯に玉子粥を作ってくれれば、早く体が温まると思うなぁ」


 やっぱり、俺の作る玉子粥を食べたいのか。抱きしめてほしいとまで言われるとは思わなかったけれど。

 俺は芹花姉さんのことを抱き寄せて、顔を自分の胸の中に埋めさせる。十分に体が温まっていると思うけどな。

 突然、こんなことをされたからか、姉さんは「あうっ」と可愛らしい声を漏らす。


「しょうがないな。今日の夕食に、姉さんには特別に玉子粥を作ってあげるよ」

「嬉しいな、ありがとう」

「玉子粥を作ってほしいときは、いつでも言ってくれていいからな」

「……うん、覚えておくね」


 頬を赤くしながら言う芹花姉さんの体は、さらに温かくなっていた。

 夕食時なので、制服から着替えた俺は、キッチンに行って芹花姉さんのために玉子粥を作る。まさか、1日のうちに2つの場所で、2人のために玉子粥を作る日が来るなんて。今日みたいな日が、これからあるのだろうか。

 ちなみに、今日の夕ご飯のおかずは母さんの作る豚の生姜焼き。生姜焼きだったら、玉子粥にも合うんじゃないだろうか。

 夕ご飯が出来上がる直前に父さんが帰ってきたので、家族4人で夕ご飯を食べることに。芹花姉さんだけが玉子粥を食べるので、


「芹花、風邪を引いたのか? 大丈夫か?」


 と、父さんが心配そうにしていた。お粥は体調を崩したとき以外は全然食べないからな。芹花姉さんが事情を説明すると、父さんは凄くほっとした様子に。


「じゃあ、さっそくユウちゃんが作ってくれた玉子粥をいただくね」

「どうぞ、召し上がれ」


 作り方は福王寺先生に作ったお粥を変わらない。けれど、芹花姉さんは健康なので、先生のときよりもだしの量を多めにして、しっかりとした味にした。

 芹花姉さんはレンゲで掬った玉子粥に息を吹きかけ、ゆっくりと口の中に入れる。


「ん~! おいしい~!」

「そりゃ良かった」

「ご飯と卵が甘いのがいいね。さすがはユウちゃんだよ。あと、今日も肌寒かったから、温かいものが美味しく感じられるよ」

「そうだなぁ」


 そう返事をして、俺は豆腐とわかめの味噌汁をすする。……うん、芹花姉さんの言う通り、今日は温かいものが美味しく感じられる。温もりが体に染み渡り、それが心地いい。

 たまに芹花姉さんに玉子粥を食べさせながら、夕ご飯を食べるのであった。




『……ということがあったんですよ』

『ふふっ、芹花さんらしいね』


 夕食後、メッセンジャーを使って桐花さんとチャットする。そのときに、家に帰ってから夕飯までのことを話したのだ。


『私も、風邪を引いたときには低変人さんに玉子粥を作ってもらいたくなるよ。杏樹先生もとても美味しそうに食べていたし。でも、結衣ちゃんに悪いかな』

『きっと大丈夫だと思いますけどね』


 実際に今日は福王寺先生が食べるお粥を作らせてくれたし。もし、先生のためにお粥を作るのが嫌だったなら、何か別のことをやってほしいと指示していたと思う。


『そうかな? じゃあ、風邪を引いたら楽しみにしておこうかな。もちろん、健康であることに越したことはないけどね』

『ですね。健康だからこそ、色々なことが楽しめますもんね。この前、風邪を引いたときは、こうしてメッセンジャーを使ったチャットもできなかったですから』


 いつもは何にも感じないけど、風邪を引くなど普段と違った状況になると、何の不自由なく日常を過ごせていることが有り難く感じる。最近は愛おしい気持ちも抱くようになったな。


『お姉ちゃんがお風呂空いたって言ってきた。そろそろお風呂に入ろうかな。今日は寒いから長めに』

『俺も今夜は長めに入りましょうかね』

『お風呂が恋しい時期はまだ続きそうだね。じゃあ、今日はこれで。また明日、学校でね』

『ええ、学校で会いましょう』


 俺がそんなメッセージを送ってからすぐに、桐花さんはメッセンジャーからログアウト。今日のチャットはこれにて終了した。

 俺は最後にお風呂に入ることが多い。だから、そういうとき中心に長めに入る。ただ、今日は特に長くのんびり入浴するのであった。

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